第69話 声の残響
重い静寂の底から、かすかな風の音が聞こえた。
橘春香は、ぼんやりと瞼を開ける。
視界は暗く滲み、湿った木の匂いが鼻をついた。
そこは、どこかの古い建物の中だった。
四方の壁には、紙が貼りつけられている。
写真──紅葉のものばかりだった。
制服姿、笑顔、祭りの日の浴衣姿。
だが、どの写真も“目の部分”だけが黒く塗りつぶされていた。
心臓が早鐘を打つ。
春香はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。
古びた祭壇の上に、古文書のような紙が散らばっている。
その中央には、煤けた木札が一枚置かれていた。
> 「奉納者──橘家」
春香の指先が震えた。
橘家──つまり、自分たちの家。
木札の下には、古びたノートがある。
めくると、誰かが震える筆でこう書いていた。
> 「森の子らを贄とし、紅き葉に願いを返す」
「一つ目の年、声を返す」
「二つ目の年、影を返す」
「三つ目の年——命を返す」
意味が、わからない。
けれどその文面の“紅き葉”という言葉に、胸の奥がざわついた。
「紅葉……」
その名を呼んだ瞬間、背後で何かが“ぱちり”と鳴った。
振り返ると、祭壇の蝋燭に、いつの間にか火が灯っていた。
誰かが、ここにいる。
春香は喉の奥を震わせ、声を絞り出した。
「……紅葉? そこにいるの?」
答えはない。
だが、確かに“声”がした。
遠くの闇から、少女の囁くような声が響く。
> 「……お母さん、どうして……」
春香は立ち上がり、蝋燭を手に闇の奥へ歩いた。
そこには、古びた木の柱に縄で縛られた“お札”が何枚も貼られていた。
ひとつひとつに、見覚えのある名前──
「橘美桜」「氷川美奈」「一ノ瀬祐真」……。
そして、最後にあったのは──
> 「橘紅葉」
札の下に、血のような朱が滲んでいる。
春香が指で触れた瞬間、蝋燭の火がぶわりと燃え上がり、あたりの壁を照らした。
そこには、子どもたちの絵がびっしりと貼られていた。
すべて“赤い葉の下で眠る子ども”を描いている。
「やめて……やめて紅葉、お願い……!」
春香の叫びは、静寂に吸い込まれた。
その時──頭上から、天井板がわずかに軋む音。
見上げると、そこに何かが立っていた。
──紅葉。
真っ赤な瞳をして、天井の梁の上から母親を見下ろしていた。
だがその姿は、血に濡れた影のように揺らぎ、表情がない。
「お母さん、森が……呼んでるよ」
その声に春香は凍りつく。
祐真が話していた“呼ばれる”という言葉が脳裏をよぎる。
次の瞬間、紅葉の姿はふっと消えた。
残されたのは、天井からゆらゆらと降る一枚の“赤い葉”だけ。
春香は震える手でそれを受け取る。
それは、森の外では見たことのない、異様なまでに鮮やかな紅。
葉の裏には、細い字で何かが書かれていた。
> 「また、秋にね。」
春香の喉が詰まった。
その言葉は、紅葉が消える直前──祭りの夜に言っていた言葉と同じだった。
遠くで、風鈴が鳴る。
どこからともなく、美奈の声がする。
「……春香さん……どこにいるんですか……?」
その声が導くように、春香は闇の中を走り出した。
その足元に、いつの間にか散り始めた紅い葉。
──森が、再び口を開こうとしていた。




