第68話 沈黙の家
霧の向こうで、春香の悲鳴が途切れた。
祐真は息を荒げながら、その声のした方へ駆けた。
木々の根がぬかるみに沈み、靴が抜けなくなる。
それでも、立ち止まれば二度と戻れない気がして、無我夢中で進んだ。
森の奥に、小さな空き地があった。
そこに一軒の古びた家が立っている。
黒ずんだ板壁、割れた窓、軒先に吊るされた風鈴──風もないのに、ちりん、と鳴った。
「……ここ、は……」
記憶の底がざらりと動いた。
この家を、祐真は知っていた。
──二十年前、まだ三歳の頃、よく遊びに来ていた“美桜ちゃん”の家。
祐真は背筋を凍らせながら扉を押し開けた。
軋む音が、森の静寂に溶ける。
中は暗く、埃と湿気の匂いが充満していた。
足元に紙切れが散らばっている。
それらはすべて、何かの“アンケート用紙”のようだった。
質問はばらばらで、しかし、どれも似たような内容だった。
> 「あなたは、誰を思い出しますか?」
「その人を、森に捧げますか?」
「約束を、果たせますか?」
祐真の指先が震えた。
床板の隙間から、なにかが覗いている。
掘り返すと、古びたリボンが出てきた。
ピンク色で、小さな手のひらほどの大きさ──それは、たしかに“美桜”のものだった。
祐真の喉がひゅっと鳴る。
頭の中に、忘れていた光景が蘇る。
夏の日の午後、子どもたちが森の入り口で遊んでいた。
誰かが言った──
「ねえ、呼ばれてるよ」
次の瞬間、美桜が笑って森に入っていった。
止める間もなく、姿が消えた。
その後、大人たちは「迷子」と言い、村は沈黙した。
──呼ばれて、消えた。
紅葉も、同じだったのか。
祐真は家の奥へと足を進めた。
壁には、手書きの子どもの絵がいくつも貼られている。
どれも、同じ風景──森の中で手を振る“顔のない子ども”。
そして、最後の一枚だけ違っていた。
赤いクレヨンで描かれた、異様に大きな「目」。
その下に震える字で書かれている。
> ──みてる。
ぞっとして後ずさると、背後で軋む音がした。
誰かが廊下を歩いている。
ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。
「……春香? 美奈か?」
返事はない。
代わりに、壁の時計がカチリと動いた。
止まっていたはずの針が、突然進み出す。
午前3時──。
その瞬間、天井裏から何かが“落ちた”。
それは、白い布に包まれた“人の形”だった。
祐真は息を呑み、震える手で布をめくる。
そこには、黒ずんだ木の人形──子どものサイズの“身代わり”が入っていた。
顔は塗りつぶされ、胸の部分には小さな札が縫い付けられている。
> 「ヒカワミナ」
祐真は凍りついた。
今、森の中にいるはずの美奈の名前──。
札の裏には、赤いインクでこう記されていた。
> 「次は、あなた。」
風鈴が再び鳴った。
その音の中で、背後から声がした。
──「祐真くん、こっち……」
それは、美奈の声だった。
けれど、祐真は知っていた。
この森で聞こえる“声”は、いつも誰かを呼んで消す。
振り向くことが、できなかった。




