第67話 沈黙の森
──静寂。
耳をすませても、何の音も聞こえなかった。
春香は自分の息づかいすら恐ろしく思えた。
霧の中で、光はまるで生き物のようにねじれ、どちらが道で、どちらが罠なのか、もうわからない。
「祐真? ……美奈?」
声を出しても、返事はない。
代わりに、森の奥から“何か”が返してきた。
それは、微かな笑い声──。
幼い子どものようで、どこか壊れた人形のようでもあった。
「……誰?」
問いかけると、木の幹にぶつかるような鈍い音がした。
春香が振り向くと、木の根元に“紙切れ”が一枚貼り付いている。
それは古びて、雨に滲み、けれどはっきりと読めた。
──アンケートに、答えてください。
春香の喉がひゅっと鳴った。
その紙には、三つの設問が記されていた。
一、あなたは真実を見たいですか。
二、あなたは誰かを許せますか。
三、あなたは、生きて帰りたいですか。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
──“すべてに嘘をついた者は、森に取り込まれる”。
春香は後ずさりしながら、無意識に首を振った。
そのとき、背後で“枝を踏む音”がした。
ゆっくりと振り向くと、霧の向こうに人影が立っている。
肩のあたりまでしか見えないが、白い服──それは美奈のものだった。
「美奈ちゃんっ!あなた、どこにいたの!」
駆け寄ろうとした瞬間、春香の足が止まる。
美奈の顔が、見えなかった。
霧の中にあるのではなく、“最初から存在していない”かのように。
顔の部分だけが、黒く塗りつぶされている。
「……はる、か…さ……ん」
声は確かに美奈のものだった。
けれど、その口が動いていない。
音だけが、空気の中でこだましている。
春香は恐怖で足がすくみ、後ずさった。
その瞬間、木々がざわめき、どこからともなく祐真の叫び声が響いた。
「──春香! 逃げろっ!」
声の方へ駆け出す。だが霧が壁のように立ち塞がり、身体が進まない。
背後では、“笑い声”がだんだん近づいてくる。
足音が二つ、三つ、四つ——増えていく。
春香は半狂乱で叫んだ。
「いやだ! 帰して! 私、答えない! アンケートなんか——!」
その瞬間、頭上から“ぱさり”と紙が降ってきた。
一枚、また一枚。
どの紙にも同じ言葉が印字されていた。
——嘘をついた。
春香は目を見開いた。
霧の中に無数の顔が浮かび上がる。
それは森に消えた人たちの“記憶”のようだった。
祐真も、美奈も、そして知らない者たちも──皆、何かを訴えるように口を開けていた。
春香の視界が暗転した。
最後に聞こえたのは、自分の名前を呼ぶ美奈の声。
──「はるか、まだ……間に合うから……」
そして、森は再び沈黙した。




