第66話 ひみつの場所
霧が薄れはじめたのは、夜明け前だった。
木々の間からわずかに射し込む月明かりが、地面に散らばる落ち葉を鈍く照らしている。
春香は手に握ったスカーフを見つめた。
紅葉がいつも首に巻いていた、白地に紅い縁取りの布。
それが泥に汚れ、ほつれ、まるで誰かの血を吸ったように重たく湿っていた。
「……紅葉、ここに来ていたのね」
声に出した瞬間、背後の美奈がびくりと肩を震わせた。
彼女の手には、小さな懐中電灯。
光が揺れ、木々の影が生き物のように蠢いた。
「春香さん……この辺り、知ってます」
「知ってる?」
美奈はうなずき、霧の奥を指差した。
「小さいころ、紅葉とよく遊びに来てました。
“ひみつの場所”って呼んでたんです。
誰にも言っちゃだめだよって、紅葉が……」
春香の胸が締めつけられた。
紅葉の幼い笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
それと同時に、心の奥に潜んでいた“何か”がざらりと動いた。
──あの子は、何を見ていたの?
二人は、濡れた落ち葉を踏みしめながら進んだ。
霧が濃くなるたび、紅葉の声が遠くで囁くように聞こえる。
“こっちだよ”
“もう少し”
その声に導かれるようにして、二人は小さな空き地に出た。
そこだけ、木々が不自然に円を描いて立ち並び、中央に古びた祠があった。
苔むした石段。崩れた屋根。
だが、何よりも異様だったのは──
祠の周囲に、子どもの靴がいくつも置かれていたことだ。
赤、青、黄色。どれも片方ずつ。
古いものもあれば、比較的新しいものもある。
春香の手からスカーフが滑り落ちた。
「……やめて、紅葉。こんな場所、知らなかった……」
その瞬間、風が吹いた。
祠の扉がかすかに開き、ぎしり、と中から軋む音がした。
美奈が息を呑む。
「春香さん、今の……」
「待って。……誰か、いる」
祠の暗がりの奥に、何かがいた。
最初は人影のようだった。
だが光を当てると、それは──
小さな子どもの人形だった。
顔の半分が欠け、白い布で包まれている。
胸には木札が括りつけられ、墨でこう書かれていた。
〈たちばな みお〉
春香の視界が一瞬で白くなった。
体が勝手に後ずさる。
「……やめて……なんで、娘の名前が……!」
美奈が駆け寄り、春香を支えた。
そのとき、祠の奥から微かな歌声が聞こえてきた。
風が歌っているような、子どもたちの輪唱のような。
『あかいもみじは かえらない よばれたこは かえらない』
歌声とともに、祠の周りの靴がひとりでに動いた。
地面にめり込み、音もなく消えていく。
まるで、地の底へ引きずり込まれるように。
「逃げましょう、美奈ちゃん!」
春香は美奈の手を掴んで駆け出した。
背後で、祠が軋み、扉が勢いよく開く音がした。
白い布が宙に舞い、紅葉の声が確かに響いた。
──「おかあさん、どうして来たの?」
その声に春香は振り向けなかった。
ただ、涙と恐怖がごちゃ混ぜになったまま、霧の中を走り続けた。




