第65話 霧の向こうの声
──音が消えた。
あれほどざわめいていた森の虫の声も、風の音も、すべて霧の中に吸い込まれている。
春香は息をひそめ、濡れた土の感触を靴越しに確かめた。
隣にいたはずの美奈の姿が、もう見えない。
「……美奈ちゃん?」
呼びかける声は、白い霧に飲まれて溶けていった。
返事はない。ただ、奥の方から“ひとつ分だけ”遅れて足音が響く。
まるで誰かが、彼女の動きを真似しているかのように。
背筋を冷たいものが這い上がった。
春香は震える声で、もう一度呼んだ。
「美奈ちゃん、返事して……!」
そのとき──
霧の奥から、やわらかく、しかしはっきりとした声がした。
『……どうして来たの?』
それは、確かに紅葉の声だった。
17歳の少女の、あの日のままの声。
春香は息を呑む。
声は霧の中を漂いながら、ゆっくりと彼女の方へ近づいてくる。
『ここは、もう“帰れない場所”だよ』
春香は反射的に一歩引いた。
そしてその足が、何か柔らかいものを踏みつけた。
見ると、それは白い布──紅葉のスカーフだった。
泥と落ち葉にまみれたその布の端には、小さく刺繍があった。
〈ひみつの場所〉
紅葉が幼いころ、美奈と一緒に縫ったという言葉だ。
「……どうして、これが……」
喉の奥から言葉がこぼれた瞬間、霧が揺れた。
木々の影が、ゆっくりと形を変えていく。
人の背丈ほどの影が三つ、四つ。
霧の中を、無言で横切っていく。
それは輪郭を持たない“人影”のようで、時おり誰かの泣き声を残して消えた。
春香の手が震えた。
紅葉だけじゃない──この森で消えた“他の子たち”の気配も、確かにそこにあった。
そのとき、背後から声がした。
振り向くと、美奈が霧の切れ間に立っていた。顔が青ざめ、唇が震えている。
「……春香さん、聞こえましたか?」
「ええ……紅葉の声、よね」
美奈は小さくうなずき、震える声で言った。
「“呼ばれた”んです。……私も」
彼女の頬を伝う涙が、霧に溶けた。
その涙が落ちるたび、地面の落ち葉がゆっくりと沈んでいく。まるで森そのものが、二人を呑み込もうとしているかのように。
春香は、美奈の肩を抱いた。
「行きましょう、美奈ちゃん。……紅葉が残した“ひみつの場所”へ」
霧の向こう、どこかで誰かが笑った。
子どものような、けれど明らかに人ではない声で──。




