第64話 紅葉のノート
夜は静まり返っていた。
森から戻った春香たちは、それぞれに疲弊しきっていた。
美奈は居間のソファに横たわり、祐真は窓際で何度も煙草に火をつけようとしては、結局ポケットに戻した。
春香は、紅葉の部屋の扉を開けた。
部屋には、かすかにシャンプーの香りが残っていた。
机の上には、紅葉が使っていたスケッチブックと、開きかけのノートが置かれている。
彼女はそれをそっと手に取った。
ページの最初には、整った文字で日付が記されていた。
> 10月2日 秋祭りまであと5日。
> 今年は美奈と一緒に行けるかな。
春香は微笑みかけた。紅葉らしい、他愛もない日記。
だが、次のページをめくった瞬間、その笑みは凍りついた。
> 10月5日 また夢を見た。
> 森の中で、小さな女の子が手を振っていた。
> 名前は……たぶん、「みお」。
春香の指が震える。
「美桜……?」思わず声が漏れた。
さらにページをめくる。
> 10月6日 声がした。
> “紅葉、来て”
> “あなたは、私のかわり”
字が乱れていた。線が震え、インクが滲んでいる。
紅葉が怯えながら書いたのは明らかだった。
そこへ、背後から足音。
美奈が目を覚まし、静かに部屋に入ってきた。
「……それ、紅葉の?」
「ええ。でも──これを見て」
春香がノートを差し出すと、美奈は青ざめた顔でページをめくった。
彼女の指が止まる。
> 10月7日 “呼ばれた”
> でも行かなくちゃ。
> だって、あの人が言ったんだ。
> “森の下に、ほんとうの名前がある”
「……“ほんとうの名前”?」
美奈が声を潜めてつぶやく。
春香はしばらく黙ったあと、机の引き出しを開けた。
中には、封を切られていない白い封筒が入っていた。宛名は“橘春香様”。
紅葉の筆跡ではない。
封を開けると、中から数枚の紙と、古びた写真が出てきた。
一枚目の紙には、見覚えのある記号のようなもの──森の鳥居の札に描かれていた“朱の模様”が描かれていた。
その下に、震えるような文字でこう書かれていた。
> 呼ばれた子は、名を忘れる。
> 名を呼ぶ者は、記憶を失う。
> それが、“境界の代償”。
写真の中には、子どもたちが数人、森の奥の祠の前で並んでいる。
その中央には、見間違うはずのない小さな少女──橘美桜がいた。
隣に立つ少年の顔を見た瞬間、春香の息が止まる。
──一ノ瀬祐真。
幼い彼が、笑っていた。
「どうして……祐真さんがここに……?」
美奈が声を詰まらせる。
春香の頭の中で、すべてが繋がりかけていた。
二十年前の森。
美桜の失踪。
紅葉の夢。
“呼ばれた”という言葉。
そのとき、部屋の照明が一瞬だけ点滅した。
窓の外、真っ暗な夜の中に──人影が立っていた。
白いワンピース。長い髪。
そして、光に照らされたその顔は、見覚えのある少女。
紅葉。
だが、その瞳は深い闇のように沈んでいた。
紅葉は唇をゆっくりと動かした。
> 「……お母さん、もう“呼ばないで”」
声は聞こえなかった。
それでも、はっきりと唇がそう言ったことを、春香は理解していた。
次の瞬間、部屋の電気が落ち、闇が一気に押し寄せた。
そして、階下から祐真の叫び声が響く。
「春香さんっ! 出てください! “森の封印”が──」
彼の言葉が最後まで届く前に、家中の時計が一斉に止まった。
午前2時44分。
静寂。
その中で、春香の手の中のノートだけが、かすかに熱を帯びていた。




