第63話 封印の札
森を出たときには、もう夜だった。
鳥居の向こうから吹き抜ける風は冷たく、まるで彼らを追い返すようだった。
春香は震える手でスマートフォンを取り出したが、画面には「圏外」の表示。
美奈も同じだった。
「ねえ……これ、本当に現実なの?」
美奈が言う声は、震えていた。
祐真は息を整えながら、鳥居の方を振り返った。
「確かに見た。……あの姿、あれは……美桜だった」
その名を口にした瞬間、春香の胸が締めつけられる。
二十年前、彼女がまだ三歳だった娘──橘美桜。
祐真がその名を言うのは、初めてだった。
「どうして……あなたが美桜を知ってるの?」
春香の声には、涙と怒りが混ざっていた。
祐真は答えられず、唇を噛んだまま視線を逸らした。
そこへ、枯れ枝を踏む音が近づく。
「──おや、また来てしまいましたか」
闇の中から現れたのは、寺の住職・古沢透だった。
提灯を片手に、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
その白い袈裟は、まるで闇の中で浮かぶ亡霊のようだった。
「古沢さん……どうしてここに?」
祐真が問うと、住職は静かに鳥居を見上げた。
「この森は“呼びの森”と申してな。かつて、何人もの子が“声”に呼ばれて消えた。
だからこそ、封印を施したのです。この札で、道を塞ぐために」
「封印……?」
美奈が小さくつぶやく。
古沢はうなずき、鳥居に残る剥がれた札を指でなぞった。
「ですが──札は、剥がれたようですね。誰かが、もしくは……何かが」
その言葉に、春香の背中を冷たい汗が流れた。
「紅葉も……“呼ばれた”の?」
彼女の問いに、住職は目を細めた。
「呼ばれたのではありません。選ばれたのです」
「……選ばれた?」
「この森には、形のないものが棲んでいる。
“記憶”と“名”を喰らうものだ。
人の心が揺らいだとき、その隙間に入り込み、過去と現在を入れ替えてしまう」
祐真は、はっと顔を上げた。
「過去と現在を……入れ替える?」
「あなたも……そうではありませんか?」
古沢は静かに祐真を見た。
「二十年前、あなたはこの森で何を見た?」
祐真の呼吸が乱れた。
頭の奥で、忘れていた景色がちらつく。
──夕暮れの森。
──笑って走る美桜。
──そして、あの“声”。
『……ゆうま、こっちにおいで』
美桜の声だった。だが、次の瞬間、彼女は光に包まれ、跡形もなく消えた。
「俺は……美桜を助けられなかった。
あのとき、俺も……“呼ばれて”いたんです」
彼の声は掠れ、森の闇に溶けた。
古沢は深く息を吐き、手にした数珠をそっと握りしめた。
「封印はもう効かぬ。森は再び“開いた”。
そして……次に呼ばれるのは、あなた方のうちの誰かかもしれません」
その言葉と同時に、風が吹き抜け、札の残骸がひらりと宙を舞う。
落ちた札の一枚に、朱の筆跡でこう記されていた。
> ──名を、呼ぶな。呼べば、その者は帰らぬ。
春香は震える手でその札を拾い上げ、息を呑んだ。
“紅葉”という名が、喉の奥で凍りつく。
「紅葉……どうか……無事でいて」
その祈りが、森の奥に吸い込まれていった瞬間、
どこかで、鈴の音が──微かに鳴った




