第62話 記憶の境界
森の奥に、ぽっかりと口を開けた空間があった。
春香たちはそこに立っていた。
昼間だというのに、木々の間は薄暗く、光が揺らめくたびに影が人の形を成して消える。
どこかで風鈴のような音がする──だが、風はない。
「ここ……だよね」
美奈の声が小さく震えた。
春香は頷き、手にした懐中電灯をゆっくりと照らす。
光の先に現れたのは、古びた鳥居。
そこには、かすれた白い札が無数に貼られていた。どれも古文で書かれていて、読むことはできない。
ただ、朱の色がまだ新しい。誰かが、最近貼り直したのだ。
「……誰が?」
祐真がつぶやく。
彼の声には、微かな怯えが滲んでいた。
無理もない。この森で彼は“失った”のだ。
二十年前、幼い橘美桜を。
「おかしいな……この道、前に来たときはこんな札、なかった」
彼が言った瞬間、背後でガサリと音がした。
三人は同時に振り返る。
だが、そこには何もいない。風も、動物の気配も。
ただ、土の上に──小さな裸足の足跡が、ぽつんと残っていた。
「……子どもの足?」
美奈が青ざめた顔で呟いた。
春香は、息を呑んだ。
その足跡は、まるで“奥へ誘う”ように並んでいた。
「行こう」
春香が言うと、祐真が慌てて制した。
「待ってください。中には入らないほうがいい。ここは……“あの場所”と繋がってる」
「“あの場所”?」
美奈が聞き返すと、祐真の表情が凍りつく。
「昔、村の外れに“研究小屋”があった。住職の古沢さんが言ってたんだ。
あそこは、祈祷と実験の両方をしていた場所だって。……失踪した子どもたちは、全員、あの小屋の近くで最後に目撃されてる」
「じゃあ紅葉も?」
春香の声が掠れた。
祐真は無言で頷いた。
その瞬間、春香の脳裏に──紅葉がいなくなる前夜のことがよぎった。
神社の裏手で、紅葉が何かを拾っていた。
それは、小さな白い布片。血のような赤い模様が滲んでいた。
『おばさん、この模様……見覚えない?』
あのとき紅葉が見せてきたその布──まさに今、鳥居に貼られた札と、同じものだった。
「……紅葉、ここに来てたんだ」
春香の声が震える。
そのとき、足元の落ち葉がひとりでにざわめき、闇の奥から声がした。
『──みお……』
美奈が息を呑む。
祐真の顔から血の気が引く。
春香は凍りついたまま、その声の方向を見つめた。
風が止み、森が息を潜める。
そして、次の瞬間──
誰もいないはずの空間に、小さな影が立っていた。
白いワンピース、長い髪。顔は、光の向こうで見えない。
だが春香は、確かにその名を知っていた。
「……美桜」
美奈の手が震え、祐真の懐中電灯が床に落ちる。
光が揺れ、鳥居の札が一斉に音を立てて剥がれた。
その瞬間、あたりの空気がひっくり返ったように冷たくなり、
森全体が“何か”に気づいた。
春香の背筋を冷たいものが走る。
ここは、まだ終わっていない。
紅葉も、美桜も、呼ばれて消えた“何か”が、
いま、この場所で──目を覚まそうとしている。




