第59話 贄の記録
冷たい金属の匂いと、湿った土のにおいが混ざり合っていた。
祐真たちが踏み入れたその空間は、明らかに“森”ではなかった。
無機質な壁が、規則的なパルス光で淡く照らされている。
まるで長いあいだ誰も触れていなかった研究施設──ラボ。
しかし、ここがほんとうに“科学施設”だったのか、誰も確信できなかった。
春香は息を詰めながら、ゆっくりと壁をなぞった。
「こんな場所……森の下に……?」
「祠の地下に通路があったんだ。20年前、俺たち子どもが近づけないように封鎖されてた。
でも──その奥で何かが動いていた」
祐真の声は震えていた。思い出すたび、頭の奥で鈴の音が鳴る。
通路を抜けると、そこにはガラスのケースがいくつも並んでいた。
中は空だった──いや、ひとつだけ、残っていた。
透明な液体に満たされたケースの中に、古びたお守りのようなものが浮かんでいる。
「……紅葉の……」
美奈がそれを見つめて小さく呟いた。
紐の先には、紅葉がいつも持ち歩いていた“木彫りの鈴”があった。
その瞬間、壁の一部が青白く光り、古いモニターがゆっくりと起動した。
砂嵐のような映像ののち、古びた日付が浮かび上がる。
──【記録:平成16年11月5日/被験体No.07 橘ミオ(3)】
春香の目が大きく見開かれた。
「……美桜……? どうしてここに……?」
スピーカーから、ざらついた声が流れ出す。
《森の“声”を媒介に、対象の意識層を観測する。呼び声反応、陽性。》
《対象No.07、境界との共鳴を確認──》
金属音。
子どもの泣き声。
そして、何かが引き裂かれるような音。
映像が途切れた。
「これ……儀式じゃなくて……」
祐真は喉を詰まらせた。
「“実験”だったんだ……。森に封じられた存在と、人間を繋げようとする……」
「誰が、そんなことを……」
春香の声が震える。
祐真は画面の端に映る“影”を見つめた。
白衣を着た男──その顔はぼやけていたが、どこか見覚えがある。
「まさか……」
彼の手には、寺の数珠が握られていた。
春香が小さく息を呑む。
「……古沢住職?」
同時に、施設の奥で何かが軋んだ。
低い振動音が通路を伝い、ライトが一斉に明滅を始める。
ガラスのケースの液体が、ぶくぶくと泡立った。
美奈が後ずさる。
「やだ……これ、動いてる……!」
液体の中から、無数の“手”が伸びてきた。
人間のものに似ているが、皮膚は透きとおり、指先は枝のように分かれている。
それは、森の根が人の形を模しているようでもあった。
祐真が叫ぶ。
「春香さん、美奈、下がれ!」
だが、春香は動かなかった。
その瞳に、確かな“誰か”の影を見たのだ。
──紅葉。
ケースの中の鈴が、カランと鳴った。
音は空気を震わせ、次の瞬間、祐真たちの足元の床が割れた。
重力が反転するように、彼らの身体は宙に浮かぶ。
闇の中に引きずり込まれる瞬間、祐真は確かに聞いた。
──「贄を、返して」
その声は、森のものでも、紅葉のものでもなかった。
それは、長いあいだこの地の下で封じられ続けてきた“何か”の、呼び声だった。




