第56話 封印の記憶
開いた扉の先に、風が流れ込んだ。
紙灯籠の火が揺らめき、影が壁を這う。
橘春香は思わず身を引いた。
誰もいないはずなのに、足音がした──木の廊下を、ゆっくりと、こちらへ。
「……紅葉?」
春香が囁く。
だが返事はなく、代わりに、どこからともなく低い鈴の音が響いた。
祐真がすぐに前へ出て、扉の向こうを懐中電灯で照らす。
光の円の中、白い影が一瞬揺らめいた。
しかし、それはすぐに闇に溶けて消えた。
古沢住職は一歩も動かず、唇を結んだまま目を閉じた。
「……始まったか」
その声に、春香の背筋が凍る。
「何が……始まったんですか?」
住職は、静かに祈祷台の上に古文書を開いた。
煤けた紙が擦れる音が、やけに大きく響く。
そこには、血のように赤黒い墨で書かれた文字が並んでいた。
『紅葉ノ祭──贄ノ儀式也。
森ノ神、人ヲ喰ラウ。
子ノ声ニ応ジ、還リ神ト成ル。
名ヲ呼ブ者、血ヲ繋グ者、皆、導カレル』
「……“導かれる”?」
美奈が呟いた。
住職は頷いた。
「還り神は、ただ人を喰うのではない。血の記憶を、喰う。
かつて失われた者たちの“縁”を喰らい、次の贄を選ぶんだ」
春香の唇が震えた。
「じゃあ……紅葉は、私の……血が、呼んだの?」
古沢の眼差しが重く沈んだ。
「そうだ。お前の娘、美桜もまた、その血を受けていた。
二十年前、封印の儀で“還り神”は沈められたが──
贄を喰らった魂は、森の底で息づいている。
そして、時が巡るたびに“紅葉の印”を持つ子を呼ぶのだ」
春香は、両手で顔を覆った。
涙が指の間から零れ落ちる。
「わたしが……あの子たちを、呼んだ……?」
祐真は拳を握りしめ、前に出た。
「違う。呼んだのは──俺だ」
古沢が静かに顔を上げた。
祐真の声が震える。
「二十年前、美桜ちゃんが消えたとき……俺、森で叫んだんです。
“返せ”って。
あのとき、何かが応えた。影の中で、紅い葉が舞って……
それ以来、夜になると、あの声が耳の奥に残ってた。
──“次はお前だ”って」
美奈が息を呑んだ。
春香が顔を上げる。
「じゃあ……紅葉が消えたのは……あなたが、呼ばれたから?」
祐真は何も言えなかった。
ただ、その沈黙が答えのように重くのしかかる。
そのとき、風がふたたび吹き抜けた。
本堂の灯が、ぱちりと音を立てて消えた。
暗闇の中で、美奈が小さく悲鳴を上げる。
「だれか……いる!」
扉の外に、無数の影が立っていた。
子どもの背丈の、形の定まらない黒い影。
そのひとつが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
紅い瞳が、微かに光る。
春香は凍りついた。
その顔は、見間違うはずがない。
──紅葉。
「お母さん、どうして隠したの?」
声は、確かに紅葉のものだった。
「知ってたのに……言わなかったでしょ。
“紅葉の祭”は、お祈りじゃないって……」
春香の膝が崩れた。
祐真が咄嗟に彼女を支える。
古沢は震える手で数珠を握りしめ、低く呪を唱えた。
「退け……退けよ、“還り神”……!」
だが、声は止まらない。
紅葉の影が一歩、また一歩と近づく。
そのたびに、空気が凍り、灯籠がひとつずつ消えていく。
そして、闇の中で、美奈だけが気づいた。
紅葉の足元に、他の影が幾つも絡みついている。
──小さな手、小さな顔。
まるで、過去に“選ばれた子”たちが、ひとつの存在になっているようだった。
「ねぇ、美奈……」
紅葉の声が、柔らかく、美しく響く。
「わたしたち、ずっと一緒にいたの。
森の下で、風の中で。
でもね……この世界に戻るには、もう一人、必要なの」
美奈は、何も言えなかった。
ただ、紅葉の瞳が涙のように光るのを見た。
──その涙が、黒かった。
古沢が声を張り上げた。
「祐真、彼女を外へ連れ出せ! ここは“境”が開いている!」
祐真は春香の手を掴み、美奈を抱き寄せるようにして走り出した。
だが背後で、紅葉の声が、もう一度響いた。
「お母さん──また、秋が来るよ」
扉が、轟音とともに閉まった。
世界が、闇に沈む。




