第52話 忘れられた研究室
階段を降りきると、空気が変わった。
湿った森の匂いは薄れ、代わりに鼻を刺すような薬品の臭いが漂っている。
冷たい蛍光灯が天井でちらちらと点滅し、長く放置された施設のようにも見えた。
「……ここ、ほんとうに村の下なの?」
美奈の声はかすかに震えていた。
祐真は手にした懐中電灯を掲げ、無言で進む。
壁には配線と番号の刻印。
ドアのひとつひとつに「記録室」「被験室」「観測槽」とプレートが貼られている。
春香の胸が、いやな鼓動を刻んだ。
“研究室”──それは、あまりにも人間的な匂いのしない場所だった。
「……祐真さん、これを見て」
美奈が指差した壁には、ガラス張りの窓。
中には、壊れた機械と、割れた試験管。
だがその奥──灰色の壁に、子どもの手形がいくつも残されていた。
赤黒く、乾いて。
春香の喉が音を立てて動いた。
「……ここで、何が……?」
祐真は眉をひそめ、ガラス越しに目を凝らす。
「“観測槽”……いや、これは……人体実験の記録場所かもしれない。」
「じ、人体実験……? なんでそんなものが、村に……?」
美奈が小さく悲鳴をもらす。
そのとき、春香の目がひとつの棚に留まった。
埃をかぶったファイルが数冊、崩れ落ちそうに積まれている。
彼女がその一冊を手に取ると、封印のように硬く閉じられた紙の匂いがした。
表紙には、こう印字されていた。
【対象名:TACHIBANA MIO(橘美桜)】
実験区分:観測被験体002
春香の視界が一瞬、白く飛んだ。
「……美桜……?」
震える指が文字をなぞる。
「なんで……ここに……」
祐真はそっとファイルを受け取り、ページを開いた。
中には幼い女の子の写真。
その横に、細かい文字がびっしりと書かれている。
『観測対象002。対象は強い共鳴反応を示す。
環境要因(森・音・灯)により“呼応現象”が顕著に発生。
次回観測において“帰還ルート”の実験を実施予定。』
春香はファイルを抱え、よろめいた。
「“帰還ルート”って……どういう意味……? まさか、美桜を──」
祐真が口を開きかけた瞬間、
奥の部屋で「カタ……」と何かが動いた。
三人が同時に振り向く。
ガラスの向こう、暗闇の中に──白い人影が立っていた。
髪の長い少女。
目を閉じたまま、ゆっくりと首を傾けている。
春香の喉から、かすれた声が漏れた。
「……紅葉……?」
少女が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、深い闇のように黒く──
そして、微かに笑った。




