第44話 静寂の境界
森を包む闇は、思いのほか深かった。
風が枝葉を渡るたび、ざわめきが遠いささやきのように耳を撫でる。
春香と美奈は、立ち尽くしたまま言葉を失っていた。
「……“呼ばれてたの”って、紅葉が言ったの」
美奈の声は震えていた。
「秋祭りの夜、私と別れる前に。……“でも、今度はちゃんと帰る”って、笑ってたのに」
春香は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
その笑顔が、娘の最後の記憶として脳裏に焼きついている。
紅葉は何かを知っていた。自分から“行く”と決めていたかのように──。
沈黙の中で、風がひときわ強く吹いた。
落ち葉が足元を舞い、月が一瞬雲に隠れる。
春香は小さく息を吸い、呟いた。
「──帰ろう、美奈。紅葉のノート、もう一度見てみたいの」
美奈は頷いた。
その目には、不安と決意が入り混じっていた。
ふたりは森をあとにし、夜道を歩いた。
遠くでフクロウの声が響く。
村の外れにある研究棟の建物が、闇の中でぽつりと灯をともしていた。
夜明け前のラボは、静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が机の上を照らし、紅葉のノートがそこに置かれている。
春香はそれをそっと開いた。
ページの隅に、小さな赤いしみがあった。インクでも、花びらでもない。
そしてその下には、紅葉の筆跡でこう書かれていた。
> ──呼ばれた者は、森の奥で“還る”。
> でも、わたしは戻る。お母さんの声が、まだ聞こえるから。
美奈は震える手で、別のページをめくる。
そこには、奇妙な図形と日付が書かれていた。
その最期の日付──紅葉が姿を消した“秋祭りの夜”。
「これ……何かの、儀式みたい……?」
美奈が呟く。
春香は、ゆっくりと首を振った。
「違うわ……これは、“記録”よ。紅葉が見た、何かの──」
その瞬間、ラボの蛍光灯が一斉にちらついた。
パチ、パチ、と音を立てて、白い光が断続的に明滅する。
窓の外の森が、闇の奥でざわめいた。
「……誰か、いる?」
美奈が小さく問う。
春香は息を殺し、ノートを抱きしめた。
遠くから、かすかな足音が響いた気がした。
それはラボの廊下をゆっくりと近づいてくる。
──一定のリズムで、まるで呼吸をするように。
春香と美奈は顔を見合わせた。
そして、ノートのページが勝手に一枚、風もないのにめくられる。
そのページに記されていた言葉が、ふたりの目に焼きついた。
> 「呼ばれし理由」──。
蛍光灯が最後に一度、強く光ったかと思うと、
ラボは暗闇に沈んだ。




