第3話 囁く森
赤い葉が降りしきる夜、森は異様な静けさに包まれていた。
虫の声も、鳥の気配もない。ただ、風に揺れる枝葉がざわりと擦れる音が耳にまとわりつく。
祐真は懐中電灯を構え、一歩、また一歩と奥へ進んだ。
湿った土の匂い。踏み込むたびに靴底が沈み、ぬめりを帯びた感触が残る。
振り返れば、参道の灯りはもう見えない。闇が背後を閉ざしていた。
「……気味が悪い」
小さく呟く声さえ、森に吸い込まれる。
やがて視界の端で、赤いものが揺れた。
祐真は立ち止まり、光を向ける。
それは木の幹に貼りついた一枚の葉だった。
しかし、ただの落ち葉ではない。
葉脈が脈打つように動き、幹に滲むような血色を広げている。
「……何だ、これ」
指先で触れかけた瞬間、葉が震えた。
まるで自らの意思で、祐真の手を拒むように。
──かえれ。
囁きが響いた。
祐真は反射的に懐中電灯を落とし、慌てて拾い上げた。
光が揺れた瞬間、幹の表面に“顔”が浮かび上がった。
女の顔。閉じた瞼。
だが、その口元はゆっくりと開き、赤い葉を吐き出す。
祐真は後ずさった。心臓が激しく脈打つ。
理屈では説明できない。幻覚? 疲労による錯覚?
だが足元に落ちた葉は確かに存在していた。
拾い上げると、冷たく湿り、血の匂いがした。
そのとき、森の奥から声がした。
──ここだよ。
少女の声。
くれはの声だった。
「くれは!」
祐真は思わず叫び、声の方向へ駆け出した。
枝葉が頬を掠め、赤い葉が雨のように降り注ぐ。
光の先に、小さな影が見えた。
白い浴衣姿の少女が、こちらを振り返る。
確かに、くれはだった。
「大丈夫か! 今助ける!」
だが次の瞬間、彼女は静かに笑った。
その瞳は真っ赤に濁り、口から赤い葉が零れ落ちる。
祐真は言葉を失った。
くれはの体が崩れるように地面へ溶け、落ち葉となって散った。
残されたのは一枚の赤い葉だけだった。
──刑事さん。
背後で声がした。
振り返ると、そこにいたのは晴香だった。
着物姿のまま、蒼白な顔で立っている。
「どうして……ここへ」
「あなたが行くと、分かっていたから」
晴香はかすかに微笑んだ。だがその笑みは恐怖に歪んでいた。
「刑事さん、この森には入ってはいけません。二十年前も、私はここで娘を失ったのです」
その言葉に、祐真は息を呑む。
「二十年前……?」
「ええ。あのとき、私はまだ二十歳でした。三つの娘を……森に奪われたのです。だから分かるのです。今度は、くれはの番だと」
涙が頬を伝う。
晴香は震える手で祐真の腕を掴み、必死に訴えた。
「お願いです。くれはを……私の娘を助けて」
祐真は言葉を失った。
頭の中で、合理性と現実が崩れ合う。
だが、赤い葉の匂いが、すべてを否定していた。
これはただの伝承や噂ではない。
この森で、確かに“何か”が起きている。
その夜、祐真は宿舎に戻れなかった。
町外れの古びた交番に腰を下ろし、黙って赤い葉を見つめ続けた。
湿った葉脈が、心臓の鼓動のようにかすかに脈打っていた。




