第36話 封じられた道
森の境界を越えた瞬間、空気は変わった。
さっきまで夜風にそよいでいたはずの木々は静まり返り、虫の声さえも消えていた。まるでこの先は別世界だと言わんばかりに、重苦しい沈黙が三人を包んだ。
春香は娘の名を呼びたい衝動に駆られたが、唇を噛み、声を飲み込んだ。呼んだ瞬間、自分が取り返しのつかないものを引き寄せてしまう気がしたのだ。
代わりに、美奈が小さく囁いた。
「……紅葉……」
その声に応えるように、森の奥で枯れ枝が折れる音がした。
祐真は懐中電灯を構えたが、光は不自然なほどに吸い込まれ、先が見通せない。闇が光を喰っているかのようだった。
「気を抜くな。……この森は普通じゃない」
祐真の声は低く、しかし自らを鼓舞するように硬かった。
三人は足元に広がる紅い落ち葉の道を辿りながら進んだ。葉は乾いているのに、踏みしめるたび、ぐしゃりと湿った音が響く。春香はぞくりとした。──まるで血を踏んでいるように。
やがて、美奈が立ち止まった。
「……ここ……」
指差した先に、木の幹に刻まれた文字が浮かび上がっていた。
《くれは》
確かに、紅葉の名前だった。
春香の胸が締めつけられる。指先でその文字をなぞると、刻み跡はまだ新しく、今にも樹皮が赤く滲み出しそうだった。
「紅葉……ここに……」
だが、その先に進もうとすると、奇妙な現象が彼らを阻んだ。
道が──消えていた。
確かに続いていたはずの紅い落ち葉の道が、そこで途切れ、先はただの黒い茂みと闇に閉ざされていた。後ろを振り返ると、入ってきたはずの道も同じように消えている。
美奈が声を震わせる。
「まさか……閉じ込められた?」
祐真は唇を引き結んだ。
「……いや。これは“試されてる”んだ」
「試されてる……?」春香が問い返す。
祐真は目を細め、過去の記憶に沈むように続けた。
「二十年前もそうだった。……俺たち子どもが森に入ったとき、道は突然、途切れた。美桜ちゃんがいなくなったのは、その直後だ」
春香の心臓が凍りついた。祐真の記憶と、紅葉の言葉が繋がっていく。
──森で待ってる。
──代償。
木々の隙間から、唐突に風が吹き抜けた。
その風に乗って、かすかな歌声が届く。
──まもりましょう、わらべを。 ──ささげましょう、いのちを。
春香と美奈は顔を見合わせた。子守唄のようなその歌声は、確かに紅葉の声に似ていた。
けれど祐真は冷たい汗をかき、吐き捨てるように言った。
「違う……あれは紅葉じゃない。“森”が声を借りているんだ」
次の瞬間、三人の足元の落ち葉がざわめき、文字を描くように散った。
そこに浮かび上がったのは──
《ひとり ささげよ》
春香は絶句し、美奈は顔を青ざめさせ、祐真は奥歯を噛み締めた。
森が代償を求めている──その証だった。




