第34話 森への誘い
紅葉の残した言葉──「森で待ってるから」。
その響きが春香の胸をかき乱していた。
美奈と別れたあと、春香はひとり自宅の居間に座り込んでいた。手元の机には、紅葉が失踪する前に使っていた小さなメモ帳と、未完成のままの落書き帳が置かれている。そこには紅葉らしい細い字で「祭りの日」とだけ書かれていた。
春香はページをめくりながら、娘の声を探すように耳を澄ます。けれど聞こえるのは、外を渡る風の音と、時折かすかに混じる「囁き」に似たものだけだった。
──森で待ってる。
紅葉の声が、空耳のように胸に響く。春香は両手で顔を覆い、声にならない呻きを漏らした。
「……紅葉……どこにいるの……」
その時、戸口をノックする音がした。
扉を開けると、そこには美奈が立っていた。目の下には涙の跡が残り、それでも強い決意の色が宿っていた。
「春香さん……やっぱり私、一緒に行きます」
「行く……って、森へ?」
「はい。紅葉がそう言ったんです。『伝えて』って。……だったら、行かないと」
春香は息を呑んだ。母として、紅葉の言葉に従いたい気持ちは痛いほどある。しかし、同時に恐怖も押し寄せる。森に足を踏み入れた者が戻らない──それは昔から繰り返されてきた、この村の“真実”だったからだ。
「でも……もし、また同じように……」
「わかってます。でも……黙って見ているほうが怖いんです。紅葉は私の親友でした。だから……私も一緒に行きたい」
美奈の震える声に、春香は強く心を揺さぶられた。娘の友人がここまで想ってくれているのに、自分だけ怯えていいのだろうか。
そこへ、背後から別の声がした。
「森に入るのは、やめたほうがいい」
春香と美奈が振り返ると、そこには駐在所の祐真が立っていた。懐中電灯を手に、険しい表情でふたりを見つめている。
「……祐真さん」
「俺は……森で人を見失った記憶がある。あのとき、美桜ちゃんが消えた。……俺は止められなかった」
沈黙が落ちた。祐真の声は、罪を背負った者の告白のように重かった。
「だから……今度こそ、同じ過ちを繰り返したくないんだ。君たちが森に入れば、紅葉ちゃんの後を追うことになる」
春香は唇を噛んだ。心の奥で恐怖が叫んでいる。それでも紅葉の言葉が頭から離れなかった。
「祐真さん……紅葉は『森で待ってる』って言ったの。母親として、それを無視できると思う?」
「……」
祐真は答えられなかった。
やがて美奈が前に進み出て、静かに言った。
「私たちは行きます。……でも祐真さん、もし止めたいなら、一緒に来てください。紅葉が何に呼ばれたのか……確かめるために」
夜の静けさの中、三人の視線が交錯した。
遠く、森の奥から吹き抜ける風が、再び囁きを運んできた。
──来い。
その声は、誰の耳にも確かに届いていた。




