第26話 分かれたる声
闇の中に二つの道が口を開けていた。
右からは紅葉の明るい笑い声。
左からは、幼い子どものすすり泣く声。
春香の表情が凍りつく。
「……美桜」
その声は、二十年前に森で失った最初の娘──橘美桜のものに、あまりにも似ていた。
美奈は右の道を凝視していた。
「違います、あの声は紅葉です! 私には分かります……!」
二人の心を引き裂くように、森がざわめいた。
風が渦を巻き、笛の音が重なり、二つの声が互いをかき消すように響く。
古沢住職は目を閉じ、低くつぶやいた。
「森は試しているのです。親の愛と、友の絆。どちらも抗えぬ強さを持つ。……ですが、惑わされれば喰われる」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」美奈の声が震える。
「どちらかを選ばなければ、紅葉が……」
春香は唇を噛み、目を閉じた。
「私には……二人とも娘なんです。美桜も、紅葉も……」
その時、右の道から紅葉の声がはっきりと届いた。
──お母さん。早く。助けて。
同時に、左の道からも幼い声が重なる。
──おかあさん。ひとりはいや……。
春香は堪え切れず膝をついた。
「やめて……! どうして二人同時に……!」
美奈は必死に春香を抱きとめる。
「紅葉はまだ生きてる! あの声を信じて!」
「でも、美桜も……あの子も呼んでいるのよ!」
古沢は二人の間に立ち、きっぱりと言い放った。
「ここで迷えば、全員を失う。どちらに進むか──決めるのです」
春香の瞳が揺れた。
過去か、現在か。
失った娘か、まだ救える娘か。
美奈は春香の手を握り、涙ながらに叫んだ。
「私は紅葉を助けたい! お願いです、私と一緒に!」
森のざわめきがさらに強まった。
二人の決意を急かすかのように、影が道の奥で蠢き、こちらを覗いていた。
春香は深く息を吸い込み、目を開いた。
「……分かったわ、美奈ちゃん。紅葉を──取り戻しましょう」
二人が右の道へ踏み出した瞬間、左の道から幼い泣き声が絶望に変わり、森全体を震わせた。
──おかあさん、どうして……。
春香の心臓を鋭く刺すその声を背に、彼女たちは前へ進んだ。
だがその足取りは、喜びでも安堵でもなく、後戻りできない選択の重さに押し潰されていた。




