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紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


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第19話 森に足を踏み入れる夜

夜は深まり、村を覆う森は黒々とした壁のように立ち塞がっていた。

 古沢寺の本堂で声を聞いた後も、美奈の表情は晴れず、祐真の心にも重い影が残っていた。


 縁側に腰を下ろした祐真は、夜風を浴びながら煙草を取り出し、火をつけずに指先で転がした。

 思考の奥で、警察官だった頃の自分が問いかけてくる。


 ──お前は、なぜこんな事件に執着している?


 祐真は目を閉じ、唇を結んだ。

 二十代前半、初めて担当した失踪事件。幼い少女を救えなかったことが、いまも彼の心を焼いている。

 名前も、泣き声も、闇に消えた。あの夜から、彼はずっと「声を追いかける」ことに囚われていた。


 背後で障子が開き、美奈が現れた。

「……祐真さん。私、眠れなくて」

 彼女の瞳は怯えと迷いに揺れていた。


「声が、まだ聞こえるんです。遠くで……紅葉さんと、美桜ちゃんの名前を呼ぶ声。『一緒に来て』って」


 祐真は即座に立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。

「美奈。ひとりで行ってはいけない。もし行くなら、俺が一緒に行く」


「……危ないのに?」


「ああ。それでもいい。俺はもう、二度と誰かを失いたくないんだ」


 その言葉に、美奈は涙をにじませた。

「ありがとうございます……でも、祐真さんまで失いたくない」


 その時、廊下を歩いてきたのは春香だった。彼女は二人を見て、震える声を上げた。

「やめて……森に入ってはだめ。あなたまで……!」


 だが、祐真は強く答えた。

「春香さん。あんたは二度、娘を奪われた。もうこれ以上、誰も森に飲み込ませたくないんだ」


 春香は唇を噛み、何も言えなかった。

 その横で、古沢住職がゆっくりと歩み寄る。

「祐真殿……行くというのなら、これを」

 彼は祐真に古びた数珠を差し出した。

「これは代々、この村で森を鎮めるために用いてきたもの。少しは道を照らす力になるかもしれません」


 祐真は頷き、それを手首に巻きつけた。


 ──その夜更け。

 森の入り口に立つ祐真と美奈。春香は必死に止めたが、ついに言葉を失い、ただ二人の背を見送った。


 森に一歩足を踏み入れると、空気が変わった。湿り気を帯び、どこかで笑い声がかすかに響く。

 美奈は肩をすくめ、祐真の袖を掴んだ。


「……見えますか? あれ」


 木々の間に、淡い光が漂っていた。人影のように揺れながら、まっすぐ二人を誘っている。


 そして、確かに聞こえた。


 ──美桜……紅葉……こっちへ……


 その声は、あまりに優しく、あまりに懐かしく。

 祐真の胸を締めつけ、足を進ませようとする。


 だが、祐真は数珠を握り締め、低く呟いた。

「俺は……もう声に従わない」


 しかし次の瞬間、光の中に浮かんだ影を見て、美奈が凍りついた。


「……紅葉……?」


 そこには、十七歳の少女の姿が確かにあった。

 白い手を伸ばし、優しく微笑みながら──。



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