第17話 森に呼ぶ声
その晩、山の稜線に沈む夕陽が森を赤く染めていた。
一ノ瀬祐真は縁側に腰を下ろし、煙草に火をつけかけて手を止めた。ここでは煙の匂いさえも、過去の囁きを呼び寄せそうだったからだ。
背後から足音がした。氷川美奈だった。制服の上にカーディガンを羽織り、頬はほんのり赤い。
「祐真さん、ここにいたんですね」
「……夜は冷えるぞ」
「平気です。子どものころから、この森の風は慣れっこですから」
その言い方に、祐真は眉をひそめた。
「美奈、君は森に何度も入ったことがあるのか?」
「ええ。小さい頃からよく一人で遊んでました。……でも、春香さんには内緒にしてくださいね。きっと心配するから」
祐真は返事をしなかった。春香の警告を思い出す。娘を失った夜の記憶と、森にまつわる噂。そこには何か、まだ語られていない真実がある。
やがて、美奈が声を潜めた。
「……実は、最近また“呼ばれた”んです」
「呼ばれた?」
「夢の中で女の人の声がして、『戻っておいで』って。目を開けると、森の奥に白い光が見えて……」
祐真の背筋に冷たいものが走った。
「それは、いつからだ?」
「二週間くらい前。初めは怖くなかったけど……最近は、すごく胸が苦しくなる」
言葉を選ぶように、美奈は視線を落とした。
「祐真さん、私……森に行かなくちゃいけない気がするんです。だって、呼んでる声は、どこか懐かしいから」
その瞬間、縁側の戸が勢いよく開いた。橘春香が立っていた。
その顔は蒼ざめ、強い震えを帯びている。
「美奈ちゃん……その話、二度としないで!」
美奈は驚き、そして拗ねたように俯いた。
「どうしてですか。私、ただ本当のことを言っただけなのに」
「だめよ……だめなの」
春香の声は、祈るように掠れていた。
祐真は二人の間に立ち、低く告げた。
「春香さん。もしかして……あなたの娘も、“呼ばれた”ことがあったんですか?」
春香は答えず、ただ視線を逸らした。だがその沈黙こそが、祐真に確信を与えた。
──二十年前の夜、森に娘を呼んだ声。
そして今、同じ声が美奈を誘おうとしている。
美奈は唇を噛みしめ、少し震えながらも言った。
「祐真さん……もし私が森に行ったら、一緒に来てくれますか?」
その問いに、祐真はしばし黙った。
やがて、静かにうなずいた。
「必ず、君を一人にはしない」
夜の闇が深まる中、森はざわめき、遠くから白い影がこちらを見ているようだった。




