第15話 誘いの声
夜の気配が町を包み込む頃、氷川美奈は布団の上で身を固くしていた。
窓の外から吹き込む風は冷たいはずなのに、耳に届くのは生暖かい囁き。
──美奈……
──こっちへおいで……
聞き慣れた声。まるで亡くなった友人の声のようにも聞こえた。
美奈は震える手で耳を塞ぐが、囁きは内側から響くように頭の奥に忍び込んでくる。
「やめて……私、行かない……」
そうつぶやいても、声はやまない。むしろ強く、優しく、甘やかすように重なっていく。
そして気づけば、彼女の足は勝手に床へ降りていた。
一方その頃、橘春香は寺の一室にいた。
古沢住職と祐真とともに、ろうそくの明かりの下で向かい合っている。
「やはり……美奈は森に呼ばれていますね」
古沢の低い声に、春香は顔色を失った。
「彼女はまだ十七歳。私のくれはと同じ……どうしてこんなことに……」
春香の言葉は途切れ、手は小刻みに震えていた。
二十年前、最初の娘を失った時と同じように。
祐真は彼女を見つめ、静かに言った。
「森が彼女を選んだんじゃない。弱った心を、森が狙っているんです」
「弱った心……?」
「美奈は何かを抱えているはずです。だから囁きに縋ろうとしてしまう」
その時、古沢が眉をひそめた。
「……遅い」
春香と祐真は顔を見合わせた。
住職の目が鋭く光る。
「森の声が、もう彼女を動かし始めている」
深夜。
制服のままの美奈がふらりと家を出て、赤い紅葉の舞う森の入口に立っていた。
瞳は焦点を失い、口元はかすかに笑っている。
──おいで……
──紅葉の下で待っているよ……
囁きに導かれるように、一歩、また一歩と森の奥へ足を踏み入れる。
背後の暗闇から、誰かがその様子を見ていた。
それは祐真だった。
彼は胸の奥に残る痛みを押さえ込み、彼女を追って森へ踏み出す。
「今度こそ──誰も失わせはしない」
森は風もなく、ただ無数の声だけが蠢いていた。




