表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

128/154

第127話 名を奪うもの

鈴の音は、一度きりだった。


 それなのに、耳の奥に残り続ける。

 消えたはずの余韻が、じわじわと神経を侵す。


 春香は、胸元を押さえた。


「……紅葉……?」


 呼びかけた声は、闇に吸い込まれ、返事はない。

 だが、その代わりに──


 ごとり


 床下から、何かが落ちるような鈍い音がした。


 美奈が、思わず一歩後ずさる。


「……下……?」


 その瞬間、室内にいる“祐真”が、ゆっくりと首を振った。


「……下じゃない」


 声は、先ほどより低い。

 喉の奥で、何かを擦るような音が混じっている。


「……“中”だ」


 春香の背中を、冷たい汗が伝った。


「……何の話……?」


 “祐真”は答えない。

 代わりに、己の胸に手を当てる。


 ──とん、とん。


 人の心臓を叩くような仕草。


「……名前は、器だ。

 呼ばれれば、形を持つ」


 美奈の顔色が変わった。


「……まさか……」


「……紅葉は……

 呼ばれたから、形を失った……?」


 その言葉を聞いた瞬間、

 室内の“祐真”が、はっきりと笑った。


「……よく、気づいたね」


 その笑顔は、もう完全に祐真ではなかった。

 頬の筋肉が不自然に引きつり、目だけが異様に濁っている。


 玄関の外から、本物の祐真が叫ぶ。


「……春香さん!

 そいつから、離れてください!!」


 だが、扉はまだ開かない。

 何かが、内側から押さえつけている。


 “祐真”が、一歩、春香に近づいた。


 畳に残る足跡は、靴底の形をしていなかった。

 指のような痕が、五本、不揃いに並んでいる。


「……橘春香」


 名前を呼ばれた瞬間、

 春香の視界が、一瞬、暗転した。


 ──森。

 ──二十年前の秋。

 ──泣き声。


 小さな美桜が、落ち葉の向こうで振り返る。


「……おかあ……?」


「呼ばれると、連れていかれる」


 “祐真”の声が、頭の奥に直接響く。


「……美桜も、紅葉も……

 “名を与えた者”の元へ……」


 春香は、叫んだ。


「やめて!!

 それ以上、私の娘の名前を呼ばないで!!」


 その瞬間──

 美奈が、前に出た。


「……だったら……

 あんたは、誰なの?」


 “祐真”が、ぴたりと動きを止める。


「……名前を言えない存在は……

 人じゃない」


 美奈の声は震えていたが、視線は逸らさなかった。


「……名を奪って、生きてるだけ……

 それって……」


 一拍、置いて。


「……“空っぽ”じゃない」


 沈黙。


 次の瞬間──

 家全体が、大きく軋んだ。


 壁に掛けてあった写真が、一斉に落ちる。

 床に散らばったのは、家族写真。


 その中で、

 紅葉の顔だけが、黒く塗り潰されていた。


 春香が、息を呑む。


「……やめて……

 紅葉を……消さないで……」


 “祐真”が、静かに言った。


「……消えるんじゃない。

 “空く”だけだ」


 そのとき──

 玄関の鍵が、がちゃりと回った。


 外の祐真が、叫ぶ。


「……今だ!!

 離れて!!」


 美奈は、春香の手を強く掴んだ。


「……行こう!!

 名前を呼ばれる前に!!」


 次の瞬間、

 室内の“祐真”が、初めて焦った表情を見せた。


「……逃げても、無駄だ。

 森は──」


 その言葉の途中で、

 玄関の扉が、勢いよく開いた。


 夜風が、室内に流れ込む。


 その風に混じって──

 はっきりとした鈴の音が、森の方角から聞こえた。


 ──ちりん。


 今度は、

 呼ばれているのが、誰なのか分かる音だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ