第127話 名を奪うもの
鈴の音は、一度きりだった。
それなのに、耳の奥に残り続ける。
消えたはずの余韻が、じわじわと神経を侵す。
春香は、胸元を押さえた。
「……紅葉……?」
呼びかけた声は、闇に吸い込まれ、返事はない。
だが、その代わりに──
ごとり
床下から、何かが落ちるような鈍い音がした。
美奈が、思わず一歩後ずさる。
「……下……?」
その瞬間、室内にいる“祐真”が、ゆっくりと首を振った。
「……下じゃない」
声は、先ほどより低い。
喉の奥で、何かを擦るような音が混じっている。
「……“中”だ」
春香の背中を、冷たい汗が伝った。
「……何の話……?」
“祐真”は答えない。
代わりに、己の胸に手を当てる。
──とん、とん。
人の心臓を叩くような仕草。
「……名前は、器だ。
呼ばれれば、形を持つ」
美奈の顔色が変わった。
「……まさか……」
「……紅葉は……
呼ばれたから、形を失った……?」
その言葉を聞いた瞬間、
室内の“祐真”が、はっきりと笑った。
「……よく、気づいたね」
その笑顔は、もう完全に祐真ではなかった。
頬の筋肉が不自然に引きつり、目だけが異様に濁っている。
玄関の外から、本物の祐真が叫ぶ。
「……春香さん!
そいつから、離れてください!!」
だが、扉はまだ開かない。
何かが、内側から押さえつけている。
“祐真”が、一歩、春香に近づいた。
畳に残る足跡は、靴底の形をしていなかった。
指のような痕が、五本、不揃いに並んでいる。
「……橘春香」
名前を呼ばれた瞬間、
春香の視界が、一瞬、暗転した。
──森。
──二十年前の秋。
──泣き声。
小さな美桜が、落ち葉の向こうで振り返る。
「……おかあ……?」
「呼ばれると、連れていかれる」
“祐真”の声が、頭の奥に直接響く。
「……美桜も、紅葉も……
“名を与えた者”の元へ……」
春香は、叫んだ。
「やめて!!
それ以上、私の娘の名前を呼ばないで!!」
その瞬間──
美奈が、前に出た。
「……だったら……
あんたは、誰なの?」
“祐真”が、ぴたりと動きを止める。
「……名前を言えない存在は……
人じゃない」
美奈の声は震えていたが、視線は逸らさなかった。
「……名を奪って、生きてるだけ……
それって……」
一拍、置いて。
「……“空っぽ”じゃない」
沈黙。
次の瞬間──
家全体が、大きく軋んだ。
壁に掛けてあった写真が、一斉に落ちる。
床に散らばったのは、家族写真。
その中で、
紅葉の顔だけが、黒く塗り潰されていた。
春香が、息を呑む。
「……やめて……
紅葉を……消さないで……」
“祐真”が、静かに言った。
「……消えるんじゃない。
“空く”だけだ」
そのとき──
玄関の鍵が、がちゃりと回った。
外の祐真が、叫ぶ。
「……今だ!!
離れて!!」
美奈は、春香の手を強く掴んだ。
「……行こう!!
名前を呼ばれる前に!!」
次の瞬間、
室内の“祐真”が、初めて焦った表情を見せた。
「……逃げても、無駄だ。
森は──」
その言葉の途中で、
玄関の扉が、勢いよく開いた。
夜風が、室内に流れ込む。
その風に混じって──
はっきりとした鈴の音が、森の方角から聞こえた。
──ちりん。
今度は、
呼ばれているのが、誰なのか分かる音だった。




