第126話 呼ばれる名前
玄関の扉は、途中で止まった。
完全には開かない。
まるで──中に入る許可を、まだ得られていないかのように。
扉の隙間から、夜気が細い舌のように滑り込んでくる。
湿った土と、古い葉の匂い。その奥に、かすかな鉄臭さが混じっていた。
美奈は、喉を鳴らして唾を飲み込む。
「……ねえ……
“あれ”、本当に祐真の声だった……」
春香は答えなかった。
視線は、扉と、室内に立つ“祐真の姿”を行き来している。
──二人いる。
あり得ない現実が、目の前にある。
そのとき、室内にいる“祐真”が、一歩、前に出た。
「……どうして、開けないんだ?」
声は穏やかだった。
心配する警察官の声そのもの。
だが──
足音が、おかしい。
畳を踏むはずの音が、しない。
代わりに、湿った土を踏みしめるような音が微かに響いた。
美奈は、はっきりと言った。
「……祐真。
あんた、森に行ったの、いつ?」
“祐真”は、一瞬だけ黙った。
「……さっきだろう?
君たちと別れて……」
言葉は合っている。
だが、その間が、不自然だった。
春香が、低く問いかける。
「……祐真なら、答えられるわよね」
“祐真”の視線が、春香に向く。
「……紅葉は、どんな子?」
一瞬、空気が張りつめた。
本物の祐真なら、知っている。
紅葉は明るくて、少し無鉄砲で、でも家族思いで──
だが。
「……優しい子だ」
それだけだった。
美奈の背筋に、冷たいものが走る。
「……違う」
“祐真”の眉が、僅かに動く。
「……何が?」
「祐真は、そんな言い方しない。
紅葉のこと話すとき、もっと……
もっと、悔しそうな顔する」
沈黙。
そして──
“祐真”の口角が、ゆっくりと上がった。
「……そうか」
その笑みは、祐真のものではなかった。
人の顔を真似た、薄く引き延ばしたような歪み。
同時に、玄関の外から、本物の祐真の声がした。
「……春香さん?
美奈?
中に……誰かいるのか……?」
春香が叫ぶ。
「祐真!
入らないで!!
そのまま、動かないで!!」
外の足音が止まる。
「……どういう意味ですか……?」
その声は、確かに祐真だった。
震えも、戸惑いも、ちゃんとある。
室内の“祐真”が、首を傾げる。
「……変だな。
僕は、ここにいるのに」
その瞬間──
家全体が、ぎし、と軋んだ。
壁の奥、天井裏、床下。
あちこちで、人が歩くような音が重なる。
ひとつではない。
美奈は、息を呑んだ。
「……呼ばれてる……」
「何が……?」
春香の問いに、美奈は震える声で答える。
「名前……
人の名前を、探してる……
祐真の名前を……
それから……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……紅葉の名前も……」
春香の胸が、強く締めつけられた。
次の瞬間──
室内の“祐真”が、一歩、玄関に近づいた。
扉が、再び軋む。
──ガタ……ガタ……
鍵が、今度は確実に回ろうとしている。
外の祐真が、低く叫んだ。
「……中にいるの、俺じゃない!!
開けるな!!」
美奈は、歯を食いしばった。
「……決めなきゃ……」
「……何を……?」
「どっちが本物かじゃない……
“誰を守るか”を……」
春香は、ゆっくりと頷いた。
「……紅葉よ」
その名を口にした瞬間──
家の奥で、小さな鈴の音が鳴った。
──ちりん。
確かに、聞こえた。
三人の時間が、凍りつく。
それは、
紅葉が失踪した夜に、最後に聞かれた音だった。




