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紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


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第125話 境界に立つ影

 扉の向こうで、“それ”は指を止めた。


 沈黙。

 だが、気配だけは消えない。

 まるで──こちらの反応を待っている。


 春香は、壁に手をついて深く息を吸った。

 胸が痛むほど、肺が冷たい空気を取り込む。


「……紅葉は……

 紅葉は、生きてる……」


 それは、願いではなかった。

 二十年前、美桜を失ったあと、何度も自分に言い聞かせた言葉だ。

 そのたびに、希望は裏切られてきた。


 それでも──

 今度だけは、違うと信じたかった。


 美奈は春香の横に立ち、扉を睨みつけた。


「……あんた、誰なの」


 低く、はっきりとした声だった。


「紅葉の名前を使って、

 美桜の声を使って、

 人の心に入り込む……

 そんな真似、もうやめて」


 返事はない。

 だが、扉の下の隙間から、ひどく冷たい空気が流れ込んできた。


 床に置いたランタンの炎が、ゆらりと歪む。


 古沢が声を潜めて言った。


「……境界です……

 この家は、ちょうど“向こう”と“こちら”の縁に……

 だから、呼びかけに応じると……」


「引きずられる?」


 美奈が問い返す。


 古沢は、ゆっくりと頷いた。


「……二十年前も、そうでした……

 “声に応じた者”だけが……」


 春香は、はっと顔を上げた。


「……美桜……

 あの子……呼ばれて……」


 記憶が蘇る。

 夜中、玄関先で微かに聞こえた“子どもの声”。

 泣いているようで、泣いていない、奇妙な声。


 春香は、その声に返事をしてしまった。


 ──美桜?


 それが、最後だった。


 美奈は、春香の手を強く握った。


「春香さん。

 今度は、応えちゃだめです」


 春香は、震えながら頷いた。


 そのとき──

 扉の向こうで、足音が一歩、後ろへ下がった。


 逃げる……?

 いや、違う。


 次の瞬間、

 別の場所から、音がした。


 ──トン。


 天井。

 屋根の上だ。


「……上にいる……?」


 美奈の声が掠れる。


 続けて、

 トン、トン……ギ……


 何かが、屋根を“引きずる”ような音。


 古沢が歯を食いしばる。


「……家の中に入れないなら……

 “出口”を探している……」


「出口?」


「……この家に……

 “連れて行ける者”が、いないか……」


 春香の胸に、嫌な予感が走った。


「……祐真……」


 美奈も、同時にその名を思い浮かべていた。


 祐真は、森での捜索のあと、別行動で山側を回っている。

 まだ、戻っていない。


 そのとき──

 家の裏手から、パキッと枝の折れる音がした。


 人の足音。

 確かな、祐真の足音。


「……戻ってきた……」


 美奈は、慌てて窓へ走った。


「祐真!!

 止まって!!

 そこから動かないで!!」


 だが、外は暗く、雨上がりの霧が立ち込めている。

 祐真の姿は見えない。


 代わりに──

 祐真の声が、背後から聞こえた。


「……美奈?

 どうしたんだ、そんな大声で──」


 振り返った瞬間、

 美奈の背筋が凍った。


 そこに立っていたのは──

 祐真“そっくり”の姿。


 だが、目が合わない。

 焦点が、どこにも合っていない。


 春香が、掠れた声で呟く。


「……違う……

 あれは……祐真じゃない……」


 “それ”は、祐真の姿のまま、ゆっくりと首を傾げた。


「……どうして……?」


 声は、祐真のものだった。

 だが、感情がない。


 美奈は、一歩後ずさる。


「……本物は……どこ……?」


 “祐真”は、静かに微笑んだ。


 そして、

 玄関の扉が、内側から──きし、と音を立てた。


 鍵が、ひとりでに回り始める。


 ──ガチャ。


 春香が叫んだ。


「やめて!!」


 だが、もう遅かった。


 扉は、ゆっくりと──

 開き始めていた。



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