第102話 囁く影
木の幹に増えていた“泥の手形”。
それはまるで、ついさっき誰かが触れたかのように、湿り気を帯びて光っていた。
「……これ、今ついた?」
美奈の声が震える。
祐真は周囲へ懐中電灯を向け、低く呟いた。
「人間の手の大きさだけど……形が、妙だ。指の長さが均等すぎる……。まるで、型抜きしたみたいだ」
春香は思わず口を押えた。
その瞬間──背後の木々の間から、風とは異質のささやき声が流れてきた。
「……みつけた……」
春香の背筋が総毛立つ。
「今の……紅葉?」
春香の声はかすれていた。
「春香さん、落ち着いて。あれは“声”じゃなくて……風の音かもしれない」
祐真は言ったが、その表情は疑っている。
美奈は一歩、空き地の中央へ踏み出し、倒木の傷を指でなぞった。
「……この傷、刃物でつけたにしては、深すぎる。木を斬り倒すような勢いじゃないと……こんな削れ方しない」
祐真も次に気づく。
「それに、このロープ……切断じゃない。引きちぎられている」
春香の表情がぎゅっと強張った。
「じゃあ……紅葉は、こんな場所で……誰かに……?」
祐真は言葉を飲み込んだ。
いま不用意に「攫われた」と決めつければ、春香を崩してしまう。
美奈が、落ちているスニーカー片をそっと拾い上げた瞬間──
パキ……ッ。
右手の森の奥で、小枝が折れる音がした。
3人は息を止め、暗闇を凝視する。
そこにあるのは、風の揺れる葉だけ。
だが──
何かが確かに動いた。
人よりも細く、子どもよりも軽く、しかし“人ではない”何かが。
「……誰か、いるの?」
春香が呼びかける。声は震え、今にも崩れそうだった。
沈黙。
そして──返ってきたのは。
「……ま……ま……」
壊れたレコードのように途切れた呼び声。
春香はその言葉を聞いた瞬間、足元から力が抜けた。
(……“ま”……?
美桜が、私を呼ぶ時の……)
祐真が春香の手首を掴み、低く命じる。
「春香さん、下がって! 美奈さんも!」
「ちょっ……祐真さん、待って……!」
美奈が止める間もなく、祐真は音のした方向へ懐中電灯を向け、一歩進み出た。
すると──光の先に“影”が揺れた。
人の背丈よりも少し低い。
しかし、そのシルエットはどこか歪んでいる。
「誰だ!」
祐真が声を張る。
返事はない。
ただ、影がゆっくりと、木の裏側へと滑るように引いていった。
(歩いていない……
地面を、擦るように……?)
美奈は凍りついたまま、その異様な動きから目を離せなかった。
祐真が警棒を握りしめたその時──
空き地の中央に置いてあったスニーカー片が、突然、ひとりでに転がり出した。
コロン……コロン……
春香は、悲鳴を飲み込んだ。
「……帰りたい……ここ、嫌だ……」
美奈の声が涙まじりになる。
祐真は決意を固めた声で言った。
「ここは危険だ。いったん戻る。今日の探索は中断する」
そう言いつつも、彼の目は森の奥から離れなかった。
その時──
春香がふと足元を見ると、落ち葉の上に新しい泥の跡がついていた。
子どもの小さな足跡。
しかし、左右が逆に向いている。
「……どうして、後ろ向きに歩いて……?」
春香は言い切る前に悟った。
──歩いていない。
“引きずり戻されている”足跡なのだ。
息が凍りつく。
「……紅葉……?」
春香の声は、森の闇に吸い込まれるように消えた。




