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三国志・蜀書・簡雍伝を読んでみた

作者: 野鶴善明


 三国志に出てくる簡雍は地味だけどユーモアあふれる愛すべきキャラクターだ。そんな彼の列伝を解読してみた。


 

(原文)

 簡雍、字憲和、涿郡人也。少與先主有舊、隨從周旋。



(訳)

 簡雍、あざなは憲和。涿郡の人だった。若い頃より劉備となじみだった。簡雍は劉備に付き従って奔走した。



 簡雍は劉備と同郷人だった。劉備軍の旗揚げメンバーだ。簡雍が若い頃になにをしていたのかは記されていないが、おそらく劉備の仲間だったのだろう。劉備は幼い時に父が逝去してしまったために、若い頃の劉備は筵売りをしていた。だが、劉備はただの筵売りではなかった。市場の顔役ーーつまり、半分ヤクザかチンピラのようなとっぽくてちょっとやばい感じのお兄さんだ。劉備は人望があったので若者たちが自然と集まってくるようだったらしい。簡雍も劉備を慕った若者の一人だったのかもしれない。



(原文)

 先主至荊州、雍與麋竺孫乾、同爲從事中郎。常爲談客、往來使命。



(訳)

 劉備が荊州へ行くと、簡雍と糜竺、孫乾はともに従事中郎となり、常に客と談話をして、客のもとへ行き来して使いをした。



 旗揚げからいきなり劉備の荊州時代へ話が飛ぶ。

 従事中郎は参謀副官のこと。チーム劉備の参謀を務めたということだ。

 劉備が旗揚げしてから荊州へたどり着くまでには幾多の戦いと困難があった。簡雍は旗揚げメンバーなのだから、興味深いエピソードがたくさんあったに違いないのだが、残念ながら簡雍伝にはなにも記載されていない。

 この荊州時代の短い記述からわかることは、文官の仕事では簡雍、糜竺、孫乾が中心となって劉備を補佐していたということと、荊州において彼らが荊州の名士たちと関係作りを一生懸命行なっていたということだ。当時、荊州には戦乱を避けて荊州へ避難していた賢者が大勢いた。

 荊州名士の水鏡先生こと司馬徽が指摘したように、傭兵軍団のチーム劉備において欠けていたのは戦略を司る軍師だった。徐庶や諸葛孔明のような軍師をチーム劉備に招き入れることができたのは、簡雍たちの地道な働きがあってのことだろう。また、曹操が荊州を襲撃して劉備が荊州から逃れた際、様々な荊州名士が劉備に付き従ったと劉備伝には記載してある。この荊州名士たちが後の蜀漢政権を支える文官となった。この意味でも荊州時代に簡雍が果たした役割は大きい。簡雍は腕利きの外交官だったのだ。



(原文)

 先主入益州、劉璋見雍、甚愛之。後、先主圍成都、遣雍往說璋。璋、遂與雍同輿而載、出城歸命。



(訳)

 劉備が益州へ入った時、劉璋は簡雍と会見し、劉璋は甚だ簡雍を愛した。後に劉備が成都を包囲すると、劉備は簡雍を劉璋の元へ遣わして説得にあたらせた。劉璋はついに簡雍と同じ輿に乗った。簡雍は城から出て復命した。



 劉璋を説得して無血開城させたのは簡雍の最高の手柄だ。

 こんなことができるのは簡雍しかいなかっただろう。

 簡雍は劉璋の懐へ飛び込み、劉璋の心をがっちりと摑んだのだ。

 人たらし簡雍の面目躍如だ。

 糜竺にも孫乾にも諸葛孔明にもこんなことはできない。だからこそ、劉備は簡雍を派遣したのだ。

 劉備はでかしたと簡雍を絶賛したに違いない。

 劉璋伝には、成都を開城する際、劉璋が「私は今までたいした政治をせずに民にこれといった恩恵を施したこともないから」とぼやきとも自省とも取れるようなことを言ったという記述がある。こんなことを劉璋に言わせたのが簡雍だったかもしれないと想像すると面白い。簡雍と劉璋は、劉備軍が包囲する成都の街でいったいどんなことを語りあったのだろうか。



(原文)

 先主拜雍爲昭德將軍。優游風議、性簡傲跌宕。在先主坐席、猶箕踞傾倚、威儀不肅、自縱適。諸葛亮已下、則獨擅一榻、項枕臥語、無所爲屈。



(訳)

 劉備は簡雍を昭徳将軍とした。簡雍はゆったりと心のままにのびのびと議論を行ない、性格は傲慢で豪放磊落であった。劉備が席に坐っていても、足を投げ出して脇息にもたれ、だらしなく心のままに振る舞っていた。諸葛孔明以下の者たちに対しては、簡雍一人だけ長椅子で横になり、首を枕にのせたまま語り、彼らに屈するところがなかった。



 この記述には、凄腕外交官簡雍の人となりが書いてある。

 昭徳将軍という位だが、これはいわゆる雑号将軍、いってみれば平取締役ならぬ平将軍に与えた称号なので、とりあえず将軍に任命しましたということだ。将軍となっているが、簡雍が軍を指揮したという記述はどこにもないので、将軍とは名目上のことで実際に軍を率いたということではないと思われる。簡雍に箔をつけたといったところだろう。

 劉備にこんな態度を取ることができるのは簡雍しかいない。義兄弟とされる関羽でさえ、劉備の側に常に侍立して臣下の礼をとっていた。

 この記述からわかるのは、簡雍は儒教の教えを受けた名士階層ではなく、一般庶民階層の出身だということだ。乱世は誰にでも活躍できるチャンスがめぐってくる。簡雍は乱世のなかにあって、自分にぴったりの君主を見つけ、のびのびと才能を発揮してのしあがったのだ。いつでも自分らしくして、自分自身でいた、というところに簡雍が高官になった秘訣があるのかもしれない。



(原文)

 時、天旱禁酒、釀者有刑。吏於人家索、得釀具。論者欲、令與作酒者、同罰。雍、與先主游觀、見一男女行道、謂先主曰「彼人欲行淫、何以不縛?」先主曰「卿何以知之?」雍對曰「彼有其具。與欲釀者同」先主大笑、而原欲釀者。雍之滑稽、皆此類也。



(訳)

 旱魃があったために、禁酒令を出し、酒を醸造するものは死刑とした。官吏は人家を捜索し、酒を醸造するための道具を没収した。簡雍が劉備と街をぶらついていた時、ある恋人たちが道を歩いているのを見た。簡雍は「彼らは淫行を行おうとしています。なぜ捕まえないのですか?」と言った。劉備は「どうしてそんなことがわかるのだね?」と言った。簡雍は「彼らはその道具を持っています。酒を醸造するものたちと同じです」と答えた。劉備は大笑いして酒を醸造する道具を持っているものたちを許すことにした。簡雍の諧謔ユーモアはみなこのような感じだった。



 古今東西、禁酒令は繰り返し出された。

 禁酒令が出されて困るのは、どの階層の人々も同じだ。ささやかな楽しみまで奪われてしまったのではたまらない。

 もちろん、旱魃があったとのことだから、事態は緊迫していたのだろう。不作で穀物が不足したり、穀物の値段が高騰してしまうと、人々の暮らしを圧迫してしまう。蜀は、劉備の入蜀とともに大量の人々が荊州から流れ込んできたうえに、魏との戦争を繰り返していたから、なおのこと旱魃は蜀の人々の暮らしに打撃を与えただろう。劉備もここはがまんと辛抱していたのかもしれない。

 禁酒令という緊張状態を破ったのは簡雍のユーモアだった。しかも、かなりあけすけなユーモアだ。笑いがこちこちに固まった状態を打ち破るという良い例かもしれない。笑いは心を開く。簡雍のユーモアに劉備は心を開いたのだ。

 簡雍伝はこのエピソードを以て終わる。こんな愉快な話で締めくくられるのも、簡雍がいかに愛嬌のある人だったのかを表しているのだろう。



 了


正史の三国志にも面白い話はたくさんあります。ぜひ読んでみてください。

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