ヘルプ「煢然(けいぜん)な黙り屋」
★ヘルプとは……。
漫画業界で「ヘルプ」といえば切迫した締め切り直前、やる気、眠気、人気と
闘い続けている神経ピリピリ状態の漫画家の仕事場に出向き、
漫画家あるいはチーフから指示された内容を理解し、
漫画家のイメージに近い背景、ホワイト、ベタ、消しゴムかけなどを黙々と
処理し仕上げていく人のことをいいます。
通称「ヘルプ」です(「ル」にアクセントを置き「へるぷっ」と発音します)。
昨今、ここ10年前ぐらいから漫画家の仕事場へは行かずネット上での
データのやり取りで仕上げをお手伝いしたり、担当編集者へのデータ受け渡しもしていました。
★私がヘルプになった理由……。
結局、私は漫画家として大成することもなく人生の幕引きをしそうです。
いや、もう漫画を描く気力、集中力もありませんので、すでに漫画家としての
幕引きをしている元漫画家です。現在はフリーターです。
50歳を過ぎてからというもの、机に向かう集中力は目に見えて激減。
還暦を過ぎた今では、あれだけ好きだった、楽しかった漫画描きが
暗澹たる心奥なりて苦痛にさえ思えるのです。
もう漫画家として日の目を見ることはありません
(画業40年1度も日の目を見ることなく出版界の片隅で孤影を落とすのです)。
単行本としてまとめてもらえなかった過去の商業誌連載作品(生原稿)は
ほぼすべて燃やすゴミとして出してしまいました。
生原稿を1枚1枚積み上げるたびに写植がボロボロ堕ちていく様子が
父から、母からいただいた愛情のようで寂しい思いが致しました。
六十路、妻子なし、故郷を捨てた私にはこれから自ら新作を描く気力はありません。
……疲れてしまいました。
漫画家として名前も、代表作もない漫画家でした。人気商売である漫画家は代表作がなければ、
編集者、同業者から見下されます。
とても不愉快ですが、この業界の人たちは読者よりも商業的に成功した人にしか興味がありません。
卑賎な自己との相克に打ちのめされる日々は想像以上に辛酸に満ちた漫画道でした。
商業誌では売れることが漫画家として最低条件です。
商業誌掲載漫画家として、いかにヒット作が大切か、肺腑にしみる思いの画業40年でした。
「流行にろくなものなし……」
ひねくれ者、ときとして天邪鬼である私は斎藤緑雨を真似て人気漫画と真逆の道をトボトボと
歩いて見たものの、還暦を過ぎ、やはり漫画は人気商売。
売れた者が正義です。
本当に好きなことをしたかったら、まずは売れることです。
人気がすべてと思い知らされました。
―まさに時すでに遅し。
若かりし頃は既存の作品にはないような漫画が描きたいと土砂降りの夢の中を
矜持背おいて走り廻っていましたが、人気がなければどんなに作品が掲載されようが、
周りからは見下され屈辱と忘却の彼方に忘れ去れるものです。
気が付けば部屋の隅に絶望の神を見るのです。
人間、絶望になれてしまったら鬱になります(その話はあとで……)。
多くの他者は売れている作品、人気者にしか興味を示しません。
他者は世間体で動くのです。
親「世間体が悪いから、そんなファッションしないで」
娘「みんなこのファッションしているから」
「……後悔の味は人生の味なり」斎藤緑雨
売れろ、売れろ、人気商売は売れてはじめてスタートラインに立てのです。
だからこそ漫画家として絶対に売れなければならかったのです。
しかし私は売れませんでした。
漫画家生活40年、良縁あって実力以上に30誌以上で連載作品を掲載させてもらえたというのに
編集者の期待を裏切ってばかりでした。
私自身は楽しく、一生懸命にやったという自負があるのですが、
読者の心の奥底には届きませんでした(売れない、代表作がないということは
同業者に見下されるということです。経験上、見下されるということは原稿料不払い、
漫画制作のスケジュールが粗雑に扱われるということです)。
打ち切りになるたびに喰うことにも困り、専属のスタッフではない、
締め切り間近の漫画家の仕事場にお手伝いに行くというヘルプを30年以上やることになったのです。
これが私のヘルプとしてのはじまりでした。
80年代、90年代、00年代、10年代と漫画家のヘルプとして駆けずり廻っていました。
正確にいうと私は自立した漫画家ではなく漫画家とヘルプのWワーカーだったのです。
★ヘルプの料金は……。
ヘルプの料金は様々です。
売れている漫画家の場合は感謝(原稿を落とさず済んだ)の気持ちを込めて
1日24時間貫徹して3万円以上、編集者からもご褒美として1万円以上、戴けることもありました。
一般的には1日24時間貫徹して1万円から3万円いただけます(40年ほぼ変わりはありません)。
商業雑誌に掲載するけど長期連載なし、読み切り、ムック本、イラスト仕事が多く、
単行本が出ない私のような原稿料だけのその日暮らしの浮き草漫画家には、
仕事が終わればその場で支払われるヘルプは金銭的にとてもあり難いお仕事なのです。
70年代初期、あるいは80年代中期から週刊誌連載の少年誌の漫画家さえも劇的に
1コマの情報量(描き込み)も多くなり、極端な話、連載漫画家となると
毎週、徹夜、徹夜でスタッフも月に休日が1日なんてザラでした(私の知る限り)。
常に仕事場はどんよりと性欲臭が立ち込めたような雰囲気でした。
締め切り最終日ともなれば漫画家、スタッフ全員、Gペンを握る手が
風に震える濡れ落ち葉のような現場にヘルプは出向いていくのです。
もちろん中には明るい仕事場もありましたが、基本、ヘルプが呼ばれるのは原稿が落ちるか、
落ちないかの、緊迫した慌ただしい現場ばかりでした。
たまに締め切りよりもヘルプを呼ぶとスタッフを楽させるのではないかという考えから、
ヘルプを呼ぶのをギリギリまで拒み続けるような漫画家もいて、
慌ただしい現場がさらに殺伐とした現場になることもありました。
どこの世界にもいるのです、自分が損をするよりも他人が得をすることが許せない人が……。
注)最近は漫画家のお手伝いをしていただける方々のことをアシスタントというのではなく、
社員としてのスタッフという呼び方をしている漫画家が増えたということで、
ここではスタッフと表記いたします。30年前は漫画家とアシスタント、
先生と弟子みたいな考えが色濃くありましたが、いまでは漫画家と
スタッフ、個人事業主と社員と考えている漫画家が増えたようです。
ヘルプとしても実感しています。漫画家の労働時間も激変しています。
以後、本文では、アシスタントではなくスタッフと表記します。
私がヘルプとして一番駆けずり回っていたのは80年代後半から10年までです。
50歳を過ぎたあたりから貫徹も出来なくなって10年以降は過去にヘルプとして
出向いた、あるいは古くからの知人の漫画家たちのヘルプだけになっていきました。
思い起こせば100名以上の漫画家の仕事部屋にヘルプとして腰を下ろしました。
本来なら漫画家として、その思い出を漫画作品として発表したいのですが、
何度もいうようですが、還暦を過ぎ漫画作品を描くのは辛い……、苦痛です。
私が生きた証として駄文をここに残します。
この駄文が少しでも人様に読まれ、面白がっていただけたら悔いなく、
ひとり陽の当たらない狭いアパートでニヤニヤほくそ笑みながら
しっかり孤独死に備えたいと思います。
★思い起こせば……。
思い起こせば約40年前、地方出身者の私は学生時代に描き上げた投稿作品で
運よくデビュー出来たものの連載することは出来ませんでした。
誰にも相談することなく、日々悶々とし、寝返りを打って、のたうち回り、
目が覚めた時には、やはりどうしても漫画家になりたくて、
大学を卒業すると同時に漫画家T氏のスタッフへの門戸を叩きました
(雑誌でスタッフを募集していました)。
しかし週刊誌連載の漫画家のハードさは無知無学な私の想像をはるかに超えていました。
初日から徹夜、徹夜の連続。
私を受け入れたデビュー間もない27歳の漫画家T氏の抱えていたスタッフは25歳、
スタッフ歴半年の彼、ひとりだけでした。
丸ペンもスクリーントーンの貼り方も知らなかった22歳の私と漫画家とスタッフひとりで週刊誌連載。朝9時から夜10時までが週4日、毎週締め切り前の2~3日は貫徹(たまに仮眠1時間あり)。
休みは月イチ。
月給6万円、家賃2万5千円、光熱費、水道代、電話代、生活費諸々で残り1万。
休みが月イチなので金銭的には満足なのだが、アパートに風呂がなかったので入浴できなかったのと、
自分の作品を描ける時間がなかったのが苦痛でした。
まさに精神的にも体力的にも、いきなり出版業界の明るい地獄を見せられました。
私には「昭和の根性」がありませんでした。
私は2か月で泣きながらスタッフをやめました。
幼少の頃から漫画を描くのが好きでしたが、毎日、毎日、漫画の主人公の背景ばかり描いていると、
それはもう気が狂います。たまにスタッフ歴10年、20年なんていう人に出会うと
本当に頭が下がります。
「漫画家に一番遠いところにいるのが漫画家のアシスタント」
といった有名漫画家A氏の言葉が頭に浮かびます。
海外では(金銭的にも)しっかりとした職業として漫画家のスタッフは成り立っていると聞きます。
最近では中国の漫画業界でも背景を描く人たちには出版社側がしっかりと金銭的にも
援助していると聞きました。
日本の漫画家でも昨今、スタッフ応募に時給1000円以上の条件を提示してあったり、
スタッフとして関わった作品が単行本になった場合、印税契約もしてくれる漫画家もいると聞きました。
仕事を始める前に社会人としてしっかりとした契約書を交わす漫画家もいるそうです。
出版社側も連載漫画家(家族、スタッフ)の健康に気遣うシステムを模索しはじめたそうです。
かつて日本の法律(労働基準法など)が機能しない業界といわれていた漫画業界も
なめくじが地を這うようにゆっくりとですが変化しているようです。
漫画家のスタッフも社会人として、安定した職業になるといいなと思います。
昭和の漫画家の「貧乏が嫌なら売れる作品を描け」ではなく、
大佛次郎の鼠小僧ではありませんがスタッフも「生きる勇気」が欲しいのです。
自分の描く時間、無理のない労働時間、健康、金銭的な余裕があってはじめて
自信と勇気が沸いてくるものだと私も思います。
中にはハングリー精神とか言う人もいるかもしれませんが、
私の場合、常々、お金よりも時間の方が大切だと思っています。
気難しさのせいかもしれませんが、幼少の頃からひとりの時間を大切にしてきました。
私という人間は学生時代も放課後、仲間内と会話するよりも、
ひとり図書館で本を開いているのが好きな、他人から見たら奇癖な人でした。
―ふと考えるのです。
マルクス資本論の「分業」がもっとも理解できなかったのはスタッフ制度ではなく、
アシスタント制度にしてしまった漫画家たちではないだろうか、と……。
道徳はあっても倫理はなく、集団はあっても個人がいないこの国において、
希な種族であった漫画家たちは出版社側の人たちと「労働者階級の本質」と
対話する機会さえ与えらなかったのではなかろうか、と……。
すみません、思いつくまま駄文を書いてしまいました
(私はひとりあれこれ思考するのが好きな人間なのです)。
話を戻します。私は漫画家T氏のスタッフになることをやめ、
20代からゆるいバイトをしながら自分の作品を描いては出版社に持ち込むをするという
生活を選びました。(一応)プロとしてデビュー、商業誌に連載をしたこともあったので
テクニックだけはあるらしく、持ち込みに行くと編集者から重宝がられ漫画家のヘルプとして
締め切り直前を助けてほしいと哀願されることもしばしばありました。
……編集者の頼みを聞いていれば私にも利益はあるのではないかという「下心」で、
締め切り間近の漫画家のヘルプをやることになりました(利益は、それなりにあったと思います)。
★駄文、書いてみよう……。
気が付けば100人以上の漫画家の仕事部屋にお邪魔したのではないでしょうか……。
お陰様で嫌なバイトもせず、基本、週5日、自分の漫画作品のみならず、イラストやカットを描いたり、週に1、2日、ヘルプとして日銭を稼ぐ生活をして、なんとか40年近くやってこられました。
ヒット作品には恵まれなかったけど好きなことに一生懸命になれたことは他者から見れば
泥道であったにせよ、私にとっては甘美にして芳烈なる花咲く小路沿いを風に吹かれ
歩いてきたのではないでしょうか。
楽しかったです。
さてさて気が付けば100人以上の漫画家たちの仕事場に行き、
漫画家たちの話に耳を傾けるとそれは100人いれば100通りの漫画論があるのです。
ふと、商業的失敗無名漫画家から見た有名漫画家たちのコミックエッセイでも描いて見たら
なんて気持ちもありましたが、成功者の伝記、漫画に面白いものはないというのが私の持論で、
やはり面白いのは漫画家になれなかった人たちの情熱上滑りの抵抗だと思うのです。
挫折を知る人たち。
車谷長吉の言葉を借りれば、(うろ覚えではあるが)成功者、偉い人には限りがある。
人間の愚かさ、醜さは底なし沼である。
書くなら絶対に敗者だ。
★オリジナル作品を描かない漫画家……。
じわりじわり人気が出始め毎週増ページ、増ページと忙しくなりつつあった
漫画家S氏の仕事部屋にヘルプとして行きました。都心から外れた埼玉寄りのとある
小さな駅前すぐの6階建てマンション3階、2LDKだったと記憶しています。
抱えていたスタッフは、たったひとりでした。ひと目、生原稿の背景を見て、
スタッフ(ここではY氏とでもしておきましょう)はかなりのテクニックの持ち主だと思いました。
年齢は当時、私より6歳年上の32歳だった記憶しています。聞けば、やはりスタッフ歴は
10年以上の大ベテラン。スタッフをしながら18歳のころから作品を出版社に
持ち込みをしていたそうです。雑誌の漫画賞では佳作止まりで、1度も商業誌には
掲載されたことはないとか……。佳作でも掲載する雑誌もあるのだが、
こればかりはその時の運、不運に左右されるようです。
Y氏とはなぜか、出会った時から気心が合い、というか、今思えば私もY氏もひと言でいえば
「変わり者」、変わり者同士、私とウマが合いました。
仕事を離れ、10回ぐらいはプライベートで会っていると思います。
会えば、必ず、小柄なY氏は大きな夢を語るのでした。
「いまの漫画は面白くないんだよな」
「オレはキャラクターが嫌いなんだよ、世界観が描きたいのよ」
「昔の漫画は面白いだろ、アイデア勝負だから。奇抜なアイデアたくさんあったぞ」
「漫画雑誌の表紙も、中刷りのカラーも奇抜だった。読者を驚かしていたんだよ」
「アイドルの表紙の漫画雑誌なんて考えられるか……、ゲンナリだよ」
「次から次に最強のライバルを出してダラダラ10巻も20巻も続け過ぎだって!」
「漫画なんて絵画、音楽、映画に比べたら、まだまだ歴史は浅いんだから、
恐れずにいろんな表現方法を挑戦しないといけないんだ。どいつもこいつもキャラクターって
いうなって話だよ」
「たった300円(単行本1冊)で読者の心を動かせるんだよ、漫画ってスゴイんだよ」
―Y氏はまるで火の粉を噴き出すかのように熱く漫画の話をいつもするのです
(なんだかんだいって昔の漫画も今の漫画も大好きなんです)。
他人に自分のことや夢を語ること苦手だった私はずっと聞き役でしたが、苦になりませんでした。
そこにはY氏に共感する私もいたのです。
実のところ、私はあまり漫画を知らないのです。実家が貧乏だったせいもあり、
漫画雑誌を買ってもらった記憶はなく、ほぼ図書館通い(読書は幼少の頃から好きでした)。
そこでよく目にしたのは小学1年生から6年生の月刊誌。
川崎のぼるの「いなかっぺ大将」面白かった(「どうどう野郎」はもっと大好き)。
それと私が漫画って凄いと思ったのが、横山まさみちの読み切り作品。
内容(うろ覚え)は公害問題で揺れる町、工場が出し続けるヘドロで河川に悪臭が発生しはじめる。
町の住民が騒ぎ立てるが工場の社長がばら撒く金の前に大人たちは沈黙。
主人公の少年はヘドロの悪臭を社長に気が付かせるために毎日、風呂場で自分のオナラを
小瓶に集めはじめる(水上置換法)。オナラで満杯になった小瓶を持って社長宅へ乗り込む少年。
社長の鼻先に小瓶の蓋が開けられる。あまりの臭さに社長が工場を停止するというお話。
この自由な発想に小学生ながら私は歓喜、狂喜乱舞しました。
この作品が私を漫画家へと導いたのです。
それから中学、高校と図書館に漫画本があれば、とりあえずは読んではみましたが、
如何せん、性に目覚めた少年には学校や図書館に置かれた漫画本の内容は真面目過ぎました、
聖人君子過ぎました。
私は同時に小説も多読していたので、気が付くと比重が小説の方にいってしまい、
小説ばかりを愛読するようになっていました。しかし誰にもいいませんでしたが、
漫画家になりたいという情熱は小中高と心の奥にずっとくすぶっていました。
だから学生時代、図書館に置かれるような漫画ではなく、図書館には置かれないような漫画を
読みたかったとずっと思っていました。
家が貧乏だったので、学生時代に漫画本が一冊も購入できなかったのは悔やまれます。
話は脱線しましたが、そんな中、偶然、Y氏と盛り上がった漫画が(現在シンガー)
泉谷しげるのデビュー作「トツゼン児」
中学時代、知人宅で偶然、目にして衝撃を受けた作品です
(知人の評価は面白いか、面白くではなく、下手だと言っていました)。
内容(うろ覚え)はマンホールから出てきた男が見ず知らずの通行人たちをボコボコにして、
そしてまたマンホールに帰っていく漫画。
私はたまたま学生時代、知人の家で読んだ作品で、とても記憶に残っていました。
泡沫夢幻、数多くの漫画の中から泉谷しげる「トツゼン児」の漫画で盛り上がるなんて
田舎の片隅にいたら考えられないことでした。たどり着いた無人島でもうひとりの自分に
出会ったような感覚でした。
70年代、私の中学時代は深夜放送、フォークブーム直撃世代でした。
クラスメイトの女子が深夜ラジオ内であのねのねと生電話をして、
翌日、学校中が大騒ぎになったことを覚えています。また三上寛の自伝的小説に漫画家を
目指した同級生の話をとても印象深く覚えています。(うろ覚え)内容は漫画家を目指して
漫画作品を持って東北から上京した三上寛の同級生。編集者は彼の原稿を見るや
「なぜ人間の顔に目をひとつしか描かないんですか?」
「この世は無駄な情報が多すぎるんです、人は片目だけで充分なんです」
と答える彼。
同級生の描く登場人物は全員一つ目。内容がいいので目をふたつ描いてほしいという
編集者、断固と拒否する彼。
……掲載されることもなく、彼は帰郷し、漫画家になれなかったことを悔やみ自殺したとの
記されていました。
―これは私かもと、とても恐ろしくなり悪寒が走った覚えがあります。
漫画家になれなかったらどうしよう……。
好きな職業につけなかった時には、自殺しなきゃあなりません。
そのときは私も泉谷しげるや三上寛の同級生のようなインパクトのある漫画作品を描きたいと
思っていたことは確かでした。
しかし私が大学生になった80年代、時代の雰囲気は、まるで夏服から冬服に衣替えをした
学生たちのようにすっかり様変わりしてしまいました。
街にはライトな音楽、ポップな漫画が溢れ、好きな小説も70年代後半から
80年代一気にW村上時代。
恥ずかしながら時流に流された学生時代の私も、村上春樹を愛読し、
大瀧詠一のレコードに針を落とし、密かにポップな漫画を描きたいとブレブレな感情で
揺れていたりしていました。
「女の子にブリッ子させたり、パンチラ見せたりしている漫画が人気があるなんて信じられないよ」
「オレん家に3つ上の姉貴いるけど、女って怖いぞ」
「帰宅するなり所構わずオナラ三連発なんて通例行事だ」
Y氏は極端に流行のモノを嫌うのです、批判するのです。
「Yさん、アイドルが表紙を飾るような漫画雑誌、ブリッ子が活躍するような作品を
一掃するようなメガトン級の漫画作品、描いてくださいよ」
お互い面白い作品を描きましょうと私が口を開くと、Y氏は、必ず、
道端のお地蔵さんのようににこやかな顔をし黙り込んでしまうのです。
「漫画って描くの大変だってぇ~」
オリジナル作品の話になると漫画を描くことの大変さをしみじみと語りだし、
描けない理由をひとつ、ふたつ、みっつ……と、並べていくのです。
口を開けば一流、仕上げは二流、オリジナルは三流。漫画界ではよく耳にする言葉です。
ヘルプとして100人以上の漫画家の仕事場で数多くのスタッフと接してきましたが、
Y氏のような人が非常に多いと実感しました。
漫画論を熱く語るスタッフほどオリジナル作品を描かない。
多弁を論じたところで人気のある漫画家、売れっ子漫画家を前にしてはすべてが虚無。
まさに死に絶えた森。
私は売れようが、売れまいが(出版社側にしてみたら大迷惑なのだが……)、
私は楽しく漫画を描きたいのでありました。
Y氏とは好きな漫画の相性はよかったのに……、残念です。
いまも漫画雑誌を見ながらボヤいているのだろうか?
って、私のような5流漫画家が増刊、増刊また増刊で月に22誌も掲載していたような
雑誌天国はこの先、もう二度と訪れないでしょうね……。
★殴り合い……。
葦編三絶、学生時代に寝食を忘れ読んだ明治、大正、昭和初期の文豪たちの私小説、
喧嘩話は面白い、いや、面白いは失礼か……。とても興味をそそられました。
まさに心の中に深く沈んでいる夜を激しく叩くのであります。
尾崎紅葉に泉鏡花、佐藤治夫と芥川龍之介、中原中也と太宰治、川端康成と太宰治、
尾崎士郎と梶井基次郎、北原白秋と鈴木三重吉、室生犀星と宇野浩二、永井荷風に菊池寛、……。
私の経験上、出版社のパーティーで些細な漫画論から編集者同士が殴り合っていたのを
見たことがあります。当時はそれほど珍しいことではなかったのか、
周りの編集者たちも「まぁ、まぁ」といいながら宥めていたのが不思議な光景でありました。
60年代後半から70年代初期は漫画家も編集者も新宿の飲み屋街でよく口論の末、
暴力で相手をねじ伏せるなんてことをよくしていたと、現在70代、80代の漫画家から聞きました。
敗戦により日本国民の信じるべきものは科学のみだとアグリーメントせざる負えなかったが、
当時の出版社勤務の編集者、漫画家、いや昭和教育制度の犠牲者たちは自己欺瞞ばかりの
俗物根性、紋切り型民族であったのかもしれないと、ふと、思うのです。
こんな話もあります。
私がとある編集部に持ち込みに行ったときのこと。編集者が座っていたデスクの後ろの
窓ガラスが大きく割れ、段ボールで塞がれていました。
「どうしたのですか?」
と尋ねたら編集者同士が口論となり相手に向かって椅子を投げつけたのこと。
間一髪のところで相手は避け、椅子は窓ガラスを粉々にし、3階下の中庭に落下。
幸い下に人がいなくて大惨事にならなかったが、人がいたらと思うとゾッとしたそうです。
また聞いた話では、編集長の暴言に怒った新人編集者が編集長のデスクの上に上がり、
編集長の顔におしっこをしたなんて話も聞きました。
おしっこで思い出した話。
漫画雑誌出版社に糞尿をばら撒いたヤ〇ザもいたと元教師でもあるレジェンド漫画家H氏から
直接聞きました。
ふたりして火野葦平「糞尿譚」の影響を受け過ぎではないかと苦笑い。
レジェンド漫画家H氏によると糞尿はとても武器になるらしい。
かつては盗みを行った家を出ていくときには部屋の真ん中で糞をしていくなんて泥棒が実在していたし、昔のヤ〇ザの嫌がらせとして家の中で糞を燃やすなんて話もあったとか……。
燃やされた糞の匂いはとてつもなく臭く、匂いがついた部屋はしばらくは臭くて生活出来ないそうです。
それにしても糞尿を撒かれた出版社は私も頻繁に打ち合わせに行っていたので、
看板が見えるたびにその話を思い出します。
またこんな話も思い出しました。
漫画の内容がオレの話をパクったと出版社に話し合いではなく、
殴り込んでくる読者がたまにいるそうです(いつの時代にもいるのです)が、こちらは作家自身。
とある作家は自身の著作内容が漫画にパクられたと思い、すぐさま漫画編集部に電話をしたところ
「お待ちしています」
と編集長。
怒り心頭のとある作家、通された待合室のデスクの上に作家がパクった
(参考、またはオマージュにした)であろう海外の小説が置かれていたそうです。
とある作家、編集長と和やかに会談して待合室を出て行ったそうです。
話を戻しましょう。
編集者同士、編集者と読者の喧嘩話は大なり小なり、あちこちでチラホラ聞きますが、
漫画家同士の喧嘩話はあまり聞いたことはありません。
100人以上の漫画家のヘルプをしてみた私としては漫画家(とくに人気のある漫画家)は基本、
忙しすぎて他人との交流が出来ない(金持ち喧嘩せずが正しいかも……)?。
噂として漫画家と原作者の(大)喧嘩はたまに聞くことがありますが、
あまりにも壮絶過ぎてここでは記することは出来ません。
そんな漫画家、原作者の喧嘩話を聞くたびにチキンな私は絶対に原作者と組まずに、
オリジナルで作品を発表したいと思っていました。さらに言えば私の作画なんて
原作者の方々は興味もないと思っていましたが、奇特な人はいるもので気が付けば
10人近くの原作者、ライターと組んで作品を発表してしまいました。
相手はどう思っているかわからないけど、とりあえず今のところは問題はないようです。
またこんな話もありました。
既婚者の漫画家O氏の仕事場にヘルプとして行ったときの話です。
既婚者ということもあり、仕事部屋と自宅は別々でした。仕事部屋は駅前徒歩15分程度のところに
ある古びた2DKアパートでした。仕事場から徒歩10分ほどのところに自宅アパートがあると
説明してくれました。
締め切り日当日、早朝9時頃、仕事場に髪の毛を逆立て、目を充血させ鬼の形相をした
30代後半の女性が大きな音を立てて入り込んできたのです。
女性の素性もわけもわからないヘルプの私は思わず椅子から立ち上がり身構えてしまいました。
女性は一直線に走り、台所から大人の顔サイズのフライパンを手にすると
漫画家O氏のデスクの前に立ち
「約束ーっ」
血反吐を吐くぐらいの大声で叫びました。
漫画家O氏はスタッフと私の顔をオロオロと見渡し、女性に囁くように言いました。
「い、いまは仕事中だから」
すると女性はまた叫ぶのでした。
「約束―っ」
「約束、約束、約束、約束ーっ」
バンバンバン……、
手にしていたフライパンを漫画家O氏のデスクの角に叩きつけて絶叫していました。
漫画家O氏は女性の両腕を掴み、抱きかかえるようにして外へ出て行きました。
女性の「約束、約束、約束……」って声が、まるで遠ざかるサイレンのようにいつまでも
聞こえていました。まったく事情が呑み込めていないヘルプの私はしばらく呆然とし
頭の中を握りつぶされた廃人のように座っていました。
目の前のスタッフの話によると、女性は漫画家O氏の細君で2日前に仕事を終え、
旅行に行く予定だったそうです。さらにスタッフの話によると、
24時間漫画のことだけしか考えていない漫画家O氏、毎週なんらかの理由で細君を
怒らせているそうです。仕事中にも関わらず、細君からの電話が頻繁に入り、
電話越しに謝罪だけでは細君の怒りは収まらず、結局、そのたびに仕事を中断し、
自宅まで全力疾走をする漫画家O氏だ、そうです。
私も出来れば、24時間漫画のこと、あるいは好きなことだけを考えて生活出来ればいいと
思っている世捨て人なので漫画家O氏の気持ちは少しわかります。
それにしてもそんな漫画家O氏はなぜ結婚なんかしたのでしょうか……。
一度聞いてみたかったです。
やはり「愛」でしょうか……。
★ストレス……。
漫画家のストレス大変なものだが、漫画家に雇われているスタッフたちのストレスも
半端ないと思われます。なぜなら私はスタッフ同士のたわいもない喧嘩を何度も目撃しているからです。漫画家同士の喧嘩は見たことないけど、漫画家のスタッフ同士の揉め事はかなりありました……。
毎週1、2日は徹夜、時として1、2週間仕事部屋に缶詰め状態、月の休日が1日、
給料は月6、7万円、まさに労働基準法の高速道路を時速400キロで駆け抜けていくスタッフたち。
頭から煙、尻から火花、そんな生活を2か月で挫折した私。
しかしヘルプとなり100人以上の漫画家の仕事部屋にお邪魔するとスタッフ生活を
10年、20年続けている人たちがいるのです。
よほど待遇がいいのかと思いきや80年代、90年代、00年代、10年代、
ほぼ同じような待遇でした。
好きな人を思えば知らず知らずに股間に手が伸びる20、30代……。
同じ部屋で、寝ても覚めても同じ顔を突き合わせ、ただひたすら背景を描き、ベタを塗り、
ホワイトで修正し、スクリーントーンを貼る。
性的処理はどうしているのだろうか……。
1日仕事のつもりでヘルプへ行ったときの話。
すでに締め切り日は過ぎていたのですが、どうしても原稿が上がらず2日目に突入。
40代の漫画家I氏、20代のスタッフ1名はすでにほぼ貫徹4日目。
深夜12時を回ったところで漫画家I氏が
「とにかく最終締め切りが早朝7時なので、ここで1時間仮眠しましょう」
と、いうことで漫画家I氏、スタッフ、ヘルプの私、3名はデスクの下で雑魚寝。
たまにあるのですが、寝ていないのに緊張しているせいなのか、まったく眠れないときが。
ふと耳を澄ますとガサガサ、ゴソゴソ……。
明かりもない真っ暗な仕事部屋にかすかに動く人影。明らかに20代のスタッフ。
ダンゴムシのように布団に包まり寝ている彼の身体が小刻みに揺れているのです。
私はしばらく瞳孔が渇くのではないかと思われるほど凝視しました。
人間というものは誰かにじっと見つめられると背後にいても、
目線を感じるということはあるのです。
私がしばらく見つめていたら、人影(もちろん20代のスタッフ)がくるりと振り返ったのです。
そして20代のスタッフは私と目が合った瞬間、彼はこういったのです
「すみません、ティッシュを取ってくれますか?」
そうです、20代のスタッフが自慰をしていたのです。
私は無意識のまま薄いマットレスからすくっと起き上がり、
デスクに置いてあったティッシュ箱を彼にそっと手渡しました。
彼の堂々とした態度の前に私は萎縮し、すぐに背を向け寝たふりをしました。
しかし、しばらくの間、ガサガサ、ゴソゴソ……と、
淫靡な音が耳から消えることはありませんでした。
窓を閉めきった10月、喫煙者のいない仕事部屋……、目覚めた時には、
風呂にも入らない男臭の中に、さらなる男汁臭で蔓延したことはいうまでもありませんでした。
……栗の花咲く5、6月、栗の木の下を通ると、20代のスタッフの仕事以上に
一生懸命に手を動かしていた姿が脳裏に浮かんだりすることもあります。
ちなみに栗の花言葉は「私に対して公平であれ」だそうです。
余談ですが、私の場合スタッフ歴たった2か月だけでしたが、
自宅アパートに帰宅できないとわかると仮眠中に仕事部屋で夢精するよりはいいだろうと
仕事部屋のトイレでこっそりヌイていました。
後に数人のスタッフに聞いたのですが、やはりみんなトイレでこっそりヌイていたそうです。
中にはそのためにいつも財布の中にエロ写真を忍ばせていた人もいました。
さらに風俗へ行ったときに頂戴する嬢の名刺を見ただけでも抜ける
自称、プロのセンズリ師っていう人もいました。
意外と漫画家スタッフあるあるで性処理話は盛り上がります
(むっつりのスタッフは凄く毛嫌いしますけど……)。
またこんな話もあります。
とにかく金銭的にも、休みひとつとってもスタッフのストレスは大変なものです。
私がヘルプに行った漫画家E氏の2LDKの仕事部屋。
専属スタッフは2人。
30代、細身、長身で神経質そうな黒ブチメガネとこれまた30代、やや小太りの銀ブチメガネ。
その日は翌日お昼が締め切り日で真っ白な原稿が8枚以上。
すでに入浴も出来ずに7日目の夜、着替えすることもなく服は黄ばみ、
ズボンの股間はシミだらけ、肩には親指大のフケ目立ち、椅子から立ち上がれば
本人からアンモニア臭が立ち込め、目の下青黒く、吐く息はごみダメ、
よく見れば唇に小さな虫が飛びまわり、笑う笑顔が歯糞まみれ、
締め切りと眠気に立ち向かう彼らの会話に纏まりなし。
まさに空気が黄ばんで見える鼻曲がり1丁目。
漫画家E氏の机の上には5本の眠気目覚まし系ドリンク。2人のスタッフも睡魔が襲ってくるのか、
やたら椅子の上で伸びをしたり、頭をぐるぐる回す。黒ブチメガネが私に描いてほしい資料を手渡し、
指示。それ以来、会話らしい会話はなし。迫りくる締め切りの前に誰もが黙り屋となる。
とにかく漫画家の締め切り直前は当然、漫画家、編集者もピリピリしているのですが、
スタッフもピリピリしているのです。
私が知る限りでは、一見、漫画家を支えるスタッフ同士、仲のいいように見えても心の中では
先にデビューするぞ、連載するぞと刻苦勉励の人たちなのです。
野心家なのです。
不安の谷の住人でもあるのです。
同じ釜の飯を食べたもの同士でも漫画家になれる人、なれない人、売れる人、売れない人……、
結果が形としてはっきりと出る人たちの信頼はタンポポの綿毛の如し。
「殺すぞ!」
仕事場に絶叫する黒ブチメガネの声、スクリーントーンを切り張りするカッターナイフを
映画「ウエスト・サイド物語」のジョージ・チャキリスのように片手で握り、
椅子から立ち上がったのです。
「ぐがぁー!」
睨みつけられた小太り銀ブチメガネも声を上げ、椅子から立ち上がった。
脂汗が光る額に太い血管はまるでメロンの皮の如し。
机二つを挟んで睨み合っているスタッフを目の前にしても、黙然とし微動だにもしない漫画家E氏。
まるで心ここにあらず、仄暗い虚無感に包まれているようなE氏はぼんやりと目の前の
原稿を黙々と仕上げていました。
あとからE氏から聞いたところによると、このふたりは以前から気が合わないらしく、
往々にして険悪な状態になるとのこと。そのたびに傍観者となるE氏は頭の中で
トカチンチン、トカチンチンと呟いていたそうです。
そんなことも知らない私は静観するE氏と睨み合うスタッフふたりを前にオロオロするばかりでした。
E氏の机の上に置いてあるAMラジオのDJが間抜けな話をダラダラとしゃべり続けていました。
「殺すぞ!」
また黒ぶちメガネが先程よりも小さな声で呟く。どうして怒りだしたのか、私には理由も分からず、
声を殺し周章狼狽するしかありませんでした。
まるで目の前を泥の川が流れているような時間の経過が私には苦痛で、またE氏を見ました。
しかしE氏は閉じた二枚貝のように口はへの字のまま、黙々と自分の作品にペン入りをしていました。
注意すらしませんでした。
お互いの机を前にカッターナイフを握りしめ向かい合ったまま睨み合うこと数分
(3分以上だったと思われる)。
とても息苦しく長く感じました。
ふたりともカッターナイフを握りしめて睨み合った入るので、
ふとしたきっかけで後には引けなくなるのではないかと、うかつに声もかけられず、
根がネガティブで小心者の私は声も出ませんでした。
―数分後、ふたりはゆっくりと椅子に座り直し、仕事をはじめました。
まるで何事もなかったように……。
少し拍子抜けしましたが、なにしろ締め切り直前だったのでとても安堵しました。
そのとき漫画家E氏と私の目が合ったのです。
E氏はニヤリと微笑んだ、と言うより
「しょうがねぇなぁ」
空空漠漠、困惑気味の顔をしていました。
睡眠不足、締め切り間近、スタッフたちのストレスはダイナマイトの導火線のようにバチバチと
破裂してく。
マジで爆発10秒前。
どこの漫画家の仕事場へ行っても漫画家もスタッフたちも締め切り前はこんな感じで
ヒリヒリしているのです。
実は数日間寝起きを共にした締め切り寸前のスタッフ同士は細やかな会話からでも
険悪になるケースは多く、無理してみんな黙り屋となり原稿を仕上げることは多いのです。
険悪なムードになるとヘルプの私は常に重苦しい空気の中、「煢然な黙り屋」を演じ、
丸ペンを走らせているのです。
ちなみに漫画家のスタッフが翌日、(お世話になった漫画家にひと言も告げずに)
急にやめてしまうことは少なくありません。そのたびに私のようなヘルプに
急遽、漫画家、編集者から電話がかかってくるのです。
こんなこともありました。
ヘルプに入って10時間後、そろそろ漫画家、スタッフ3名も蝉の抜け殻のような空洞人間となり、
1時間でも仮眠をしないと永眠しそうな雰囲気が仕事場を覆っていたときでした。
早朝6時に原稿取りにやってくるはずだった担当編集者が今にも泣きそうな、
今にも激高しそうな煮詰めたおでんのような顔をした仕事部屋に駆け込んできて
「(漫画家の)〇〇さんが逃げた」
と大声を上げたのです。
あのときは漫画家、スタッフ、私も一変に眠気が吹っ飛びました。
失礼ながら、まるでテレビの前の視聴者のようにあーでもない、
こーでもないと逃げた漫画家の話で2LDKの仕事場が笑いの演芸ホールと化しました。
私が知る限りでも80年代に集中して10人ほど締め切り直前に逃げ出した漫画家を知っています。
90年代は2人……。
最近もいるのだろうか、締め切り寸前に逃げ出す漫画家……。
昨今はかなり漫画家の仕事も出版社側が管理しているらしく、体調が悪ければ休載させるし、
スタッフが足りないと思われる漫画家には(海外の出版社みたいに)
出版社側がお金を支払い有能なスタッフを集めてくるらしいと聞いたことがあります。
その辺の話は、現役バリバリの漫画家の方が詳しいでしょうが……。
★80年代女性たちの少年誌……。
少女漫画家(最近でもそんなふうに言うのかな?)と編集者が深い関係になったという話は
よく聞かされました。ヘルプとして漫画家の仕事部屋に行くと、
やはり眠気を覚ますのは編集者たちの下世話な話題なのです。
実は私事ですが、実際にこんなことがありました。
某日、私の自宅兼仕事場のある駅近、20人程度で満席になる昭和を感じさせる
一レトロな喫茶店で担当編集者との打ち合わせ。
待ち合わせ時間10分が経過、30分……、1時間が経過……。
いくら待っても編集者が訪れない。
当時、私はアパートで1日中漫画を描いているか、さもなくば週に
1、2日ヘルプに行くという決まった生活をしていてフラフラと遊びに行くなんてことは
めったになかったし、遊びに行くような知人、友人、ましてや好きな異性もいなかったので
携帯電話は持っていませんでした。
―そんな考えで、還暦過ぎた今でもガラケーだけです。
携帯電話を持っていない私は喫茶店内にあるピンクの電話から出版社に電話をしました。
すると編集者は打ち合わせに出ているとのこと……。
電話口に出た女性の方は編集者に「必ず」、喫茶店に連絡させるように致しますと
言ってくれてはくれましたが、喫茶店で待つこと2時間……。
外から入り込む喫茶店内の光が動くたびに堪え難い焦燥を感じ、
奇声を発せずにはいられなくなって思わず席を立ってしまいました。
お金よりも時間を大切にする私としては怒り心頭、憤慨覚えし撲殺された獣の怒りの如く拳を
握りしめ自宅兼仕事部屋へ戻っていくのでした。
薄汚い6畳一間の仕事場兼自宅アパートのドアを開け、もしかと思い留守電を見るが
誰からも入っていませんでした。
机に向かい、少し冷静さを取り戻し、もしかしたら編集者、事故にでも巻き込まれたと心配しながら、
その日は打ち合わせも出来ず、1日を無駄にしたまま寝ました。
翌日早朝9時頃、担当編集者から平身低頭、言い訳の電話。
「女性漫画家が打ち合わせ中に自殺をすると言い出して大変だったんですよ」
そんな事情から打ち合わせに行けなかったことを語りだしました。
明々白々、私は相槌を打ちながら最後まで聞いていました。そのとき、
少し携帯電話が欲しくなりました。ちなみに私が携帯電話を手にしたのはそれから間もなくでした。
漫画家の自殺といえば、こんなこともありました。
ヘルプに行った漫画家S氏の仕事部屋でのこと。たまたまそこに原作者M氏が
打ち合わせにいたのですが、M氏と組んでいた他の漫画家が「いまから自殺する」と
M氏の携帯電話に連絡をしてきたのです。
「やめさない、キミが自殺するとキミと関わった人々の未来が少しずつ堕ちていくから、
自殺だけはやめなさい」
漫画家S氏とスタッフとヘルプの私は締め切り前でピリピリ状態の中、
原作者M氏が自殺を考えている漫画家に電話口で自殺を踏みとどまらせようと
真剣に熱心に語りかけていました。まるで深い、深い深海の底にいるように息苦しく、
自分から泳ぎだすことも出来ず、ただただ仕上げを急ぎ、部屋の隅で電話をしているM氏の動向を
静観するしかありませんでした。
しばらくの間、仕事場には原作者M氏の熱気を帯びた声が漫画家S氏、スタッフ、ヘルプの私の
頭上をぐるぐるとぐろを巻いていました。
「頑張りなさいよ」
ときには激高し、ときには宥め、諭し、2時間近くしてようやく電話を切った原作者M氏は、
「ったく、自殺する勇気もないくせによ、甘ったれやがって、っくそが」
倒れている人を何度も殴打するような口調で言葉を吐き、携帯電話をズボンのポケットに仕舞い入れ
「おさがわせしまた」
と下品な笑みを口角に浮かべ、漫画家S氏に少し頭を下げた。
その日、原作者M氏は「ここだけの話」と称し、漫画家の自殺の原因を面白おかしく、
明らかに盛って話してくれました。
我は人間の可笑しさ見たり。
その日は忘れられないヘルプとなりました。
またこんな話もあります。
私事ですが……。
某雑誌で連載を始めた私。原稿を収めた直後に担当編集者から電話……。
「いま、漫画家〇〇さんが自殺をしまして……、担当していたカットが出来ていなくて、
締め切りは2時間後なんですけど……お願いできませんか……」
原稿を仕上げたばかりで疲れ切っていたのですが、疲れも一気に吹き飛び、
すぐにカット1枚を仕上げ担当編集者に送ったのです。
〇〇さんとは他誌で同時期連載していて、お会いしたことはないですが、
少しだけ他誌の編集者から〇〇さんの奇行の数々を聞いていて気になっていた存在でありました。
★少女漫画家のヘルプに……。
80年代後半から90年代、少女漫画家が少年誌、青年誌に数多く発表の場を持ったおかげで
ヘルプの私も少年誌、青年誌の編集者からお願いされ、少女漫画家のヘルプに出掛けたことが
数回あります。
30代の私がヘルプに訪れたのは正真正銘女性(20代)の漫画家Nさんの仕事場。
女性といえども部屋ではなく仕事部屋なので本棚に並んだ書籍、カーテン、壁の色などを
総合的に見ればイメージ的に女性っぽさを感じますが、雰囲気的には男性漫画家の仕事部屋と
あまり変わりありません。部屋の匂いも異性を感じるような性欲を甘く煮詰めたような臭いではなく、
恐ろしいほど原稿用紙、シンク、墨汁、ポスターカラーの白……、漫画家の仕事場の匂いがしました。
コピー機、大きめな漫画家の机、小さめなスタッフの机、スクリーントーンケース……が、
目に飛び込んできます。
週刊誌連載をはじめたばかりのNさんは20代の女性スタッフをひとり抱え、
締め切り、金銭面、仕事内容など毎週、試行錯誤しているようでした。私の経験上、
あるいは他の漫画家たちから聞いた話ですが、週刊誌の連載をはじめるにあたって出版社から
支度金として漫画家に100万円程度が頂けます。
使い道は漫画家それぞれではありますが、その支度金でだいたいの漫画家はスタッフを
雇うために仕事場、人件費にあてるようです。
Nさんの仕事部屋は少し広めの1LDKでした。
部屋の真ん中に机と椅子がふたつ。ヘルプの私は台所横の折り畳み式の机と椅子を利用。
男性編集者の軽い紹介で私は早速、漫画家の指示のもと仕事をはじめました。
ヘルプは仕事場に着いたら、すぐに仕事です。
編集者は「朝イチ、絶対ね」とだけ言い残して部屋を出ていきました。
いまから明日の朝までが勝負です。
毎度のことながら仕事中なので会話もなく、漫画家の流す音楽、ラジオを聞きながらの作業。
中には会話をすると手が止めるスタッフもいるので、ほとんどの漫画家は仕事中のおしゃべりを
嫌います。
90年代後半から漫画家の仕事場も漫画家、スタッフ個々がヘッドフォンを持ち込み、
好きな音楽、ラジオを聞いているようになっていったと記憶しています。それ以前は、
どの漫画家の仕事部屋に行っても漫画家の机の上に置かれたラジオの面白話を聞きながら、
漫画家、スタッフで共感したり、笑ったりしていました。漫画家、スタッフは師匠と弟子のような
関係で、スタッフはお気楽に仕事中に自分ひとり好きな音楽をヘッドフォンで聞ける
雰囲気ではなかったと思います。
女性漫画家Nさんの仕事部屋では好きであろうバンドのアルバムが繰り返し、
繰り返し流れていました。流石に締め切り前ということもあり女性スタッフの手は止まりがちで、
頭がこっくりこっくりリズムを刻んでいました。それを目にしたNさんが咳ばらいひとつ、
身体がビクッとなったスタッフは背筋を伸ばす。
「顔洗ってきます」
とNさんにひと言だけ伝え、机の上の証券用インクの蓋をしっかり閉め、私たちに背中を向け、
洗面所にゆらりと向かいました。身長150センチ前後、中肉中背、ラフなブルーのパーカー、
黒のトラックパンツ、遠ざかるお尻を横目で舐めるように見る私。仕事中だとはわかっていても、
私も30代の男性、異性の仕草が晴れ着姿の糸くずほどに気になるのです。
……深夜12時過ぎだろうか、
「1時間ほど仮眠を取りましょう」
というNさんのひと言で女性スタッフと男性ヘルプの私は狭い仕事部屋で仮眠を取ることになりました。
Nさんは自分の机の下に布団を敷き、スタッフと私は部屋の隅にマットレス2枚を敷き詰めて
寝転がりました。
しかし人に「寝て下さい」と言われ「はい」と返事をして、すぐに寝れるわけでもありません。
私はとりあえず部屋の隅で横になりました。
今思えば、私だけ起きていて寝顔でも見られるのが嫌だったのかもしれません。
―というわけで私たちは仮眠を取ることになったのですが、仕事中だとわかっていても、
何度もいうようですが、そこは30代の男。1LDKに女性ふたり、
しかもひとりは深く深呼吸すれば彼女の体臭までもが嗅げるかのような近い距離。
女性漫画家Nさんからすれば仕事ということもあり男性、女性という考えはなくひとりの人、
人間として私を見ていたのでしょう。または締め切りで頭がいっぱいで私なんぞは
最初から異性として見ていなかったのではないかと憶測します。
しかし私は健康的な30代の男。
恥ずかしながら好みのもんぺ巨乳熟女が田舎の縁側で昼間からHをしているような動画を
ネット上で発見すれば、つい3回ぐらいは軽く自慰してしまうのです。
意識してはいけないと思えば思うほど隣に、私の好み、好みではない関係なく、
うら若き20代女性スタッフの寝顔があるわけです。
……悲しいかな、仕事中だとはわかっているのですが、男ですから狂った激流の如く、
全身の血液が股間を目指して流れ込んでくるのです。心のちんちん、命ずるままに、
股間の奥から燃え盛る真っ赤な情熱、チラチラと心細く揺れる黄色い焔を理性という名の冷水を
浴びせるのであるが、勃ってしまうわけです。
感情の暗闇に広がる意識の道、聞こえてくるのは悦楽の息遣い。今まで背中丸めて机の上で
細々した背景をちまちま描いていた男が、女性の隣で思いっきり寝っ転がって背筋伸ばしてリラックス。
揺れる感情、奮い勃つ欲望、見上げる天井、思わず愚息に手が動く。
さらにいえば狭い1LDK、女性たちが入ったトイレの音も聞いているんですから
(いや、私が耳を研ぎ澄ますということもあるのですが……)。
考えれば考えるほど目はギラギラし、股間はさらにギラギラしてしまうのです。
―と、ひとりムラムラしていると真横から
「フガゴゴグゥ……、グガボッ……、ブルブルブゥ……」
とまさに雷鳴轟く地球創世記でもはじまるのではと思うほどの高イビキ。
週刊誌連載、数日前から仮眠仮眠で、ぐっすり就寝出来ていないのだから仕方がない。
しかし他人のイビキほど気になることはない。
思い描きし脳内ピンクを一瞬曇らせたかと思ったら夏の夕立のように、
私の中の猛狂う怒棒を湯煙立てた激雨が跡形もなく洗い流していくのです。
松本清張の小説ではないが、イビキとは本当に恐ろしい。ここが唯一寝ることだけが
楽しみな牢獄であれば彼女は殺されていたかもしれない……。
しかしそのおかげで無能無学の私にも理性、道徳観が働きました。
編集者の紹介でヘルプにやって来た少女漫画家の仕事部屋。仮眠しているとはいえ仕事中なのだ。
早朝には人の顔をした鬼編集者が完成原稿を取りに来るのです。
彼女のイビキのおかげで仮眠も出来ず、その日の夕方まで煢然な黙り屋となって
目の前の異性を意識せず、眼球が微動だにしないほど原稿を見つめ漫画家としての仕事を
一生懸命にお手伝いいたしました。
好きでもないバンドの歌を聞かされながら……。
そして帰宅した夜、ひとりアパートで絵にも描けないような痴態ポーズで器用にペンだこを
利用して思いっきり空鉄砲を射ちまくりました。
★奇人……。
太宰治が覚せい剤を他人に売りつけていたように昭和初期の漫画家もヒロポンを打ちながら
徹夜で漫画を描いていたと聞かされました。
昨今では実話誌系とか、コミックエッセイなどの漫画雑誌があり、それなりの奇人変人が取材され、
紹介されています。
自らの不幸自慢、ヤバい体験奇、摩訶不思議な体験したことを漫画にする人たちも少なくありません。
出版業界の底辺にいる私がヘルプとして見聞きした漫画家、スタッフの中でちょっと
奇人、悪癖だった人を語ってみることにしましょう。
あれは地獄の釜の蓋が猛暑日でした。最寄り駅から指定された漫画家O氏の仕事部屋まで歩いて
20分程度。靴底がアスファルトに粘りつくような炎天下の中、方向音痴な私は迷いながらもいかにも
昭和建築という古びた9階建てのマンションにたどり着きました。漫画家O氏の仕事部屋は
6階角部屋にありました。エレベーターがないので重い足取りで6階までゆっくりと歩を進めました。
上りながらホラー映画好きだったとある漫画家某氏が
「マンションの6階だけは住むなよ」
と言ったことを思い出しました。
ケネディ暗殺のときにライフル銃が発見されたのが6階の教科書倉庫。
6階の高さは悪魔界と人間界の出入り場所だから、6階には悪魔が棲みやすい。
とか熱弁していたことを思い出しました。
もちろんヨハネの黙示録666も語っていました。
山田風太郎を愛読している私はその手の話(都市伝説)を真顔で言う人が苦手でありました。
炎天下の中、仕事部屋にたどり着くと、白いブリーフ1枚、首からタオルをかけただけの
40代後半、ロングヘアの漫画家O氏、本人(男性)が出迎えてくれました。
漫画家、編集者に意外と多いのがプロレス、格闘技、競馬好き。私は最初、
この漫画家もプロレスファンでアントニオ猪木氏を真似してブリーフ姿に闘魂タオルを
首に撒いて締め切りと闘っているのかと思っていました。
奥にいたスタッフ(ともに30代男性)ふたりも下着姿1枚でした。
プロレスに関心のない私は仕事中、プロレスの話題ばかりになったら、
どうしようかと少し戸惑いましたが、聞くところによるとエアコンがないので窓全開、
ブリーフ1枚で仕事をしているとのことでした。
「きみも脱いだほうがいいよ」
と漫画家O氏がパンツ1枚になることを進めてきました。私は照れ笑いを浮かべ、
シャツを脱いでTシャツだけ脱ぎました。私はこの漫画家O氏、いやスタッフたち、
もしかして男性の裸を見るのが好きなのかとも勘ぐってしまいました
(編集者からファン、ヘルプに至るまで仕事場に来る人たちの顔写真を撮っていた漫画家もいました)。
いざ、仕事に取り掛かかり椅子にじっと座っていると日本特有の湿気のせいで
暑さだけではない不快感がさらに増してきます。
確かに都心からかなり離れた仕事場は周りを畑、森林に囲まれ都心よりは涼しいかもしれませんが、
汗が原稿用紙に落ちないのかなと心配になりました。
私は6月頃の猛暑日辺りからエアコンをつけて仕事部屋をドライ状態にして原稿を描いています。
このエアコンの涼しさがないベトベト感が、どうにも漫画を描く気にはなれないのです
(タブレットにしてもタブレットがすぐに熱を帯びるので同様です)。
漫画家O氏とスタッフたちは手慣れた様子で汗が出れば机の横に置いあるタオルを手に取り、
汗を拭き拭きGペン、丸ペンを走らせていました。
聞けば、さらに猛暑日ともなれば机の下に水の入ったバケツの中に足を入れて
描くこともあるといっていました。
とにかく仕事場でブリーフ1枚で作業をしていた漫画家O氏、スタッフを見たのは彼らが
最初で最後でした(60年代、70年代、エアコンのない漫画家の仕事場では
パンツ1枚だったのかもしれませんが……)。
それにしても狭い仕事部屋にブリーフ1枚姿の男性が3人……。
私はその日の深夜、必ず訪れるであろう仮眠時間が少し怖くなりました。
余談ではありますが、その昔、私が20代の頃、男好きの男性編集者(40代独身)に
酒の席で誘われたことがあります(もちろん私は女好きなのでお断りしたが……)。
さらに大浴場のサウナにて、ひとり湯につかっていたら妙に私の太ももあたりがこそばゆい……、
振り向けば背後に40代、握り拳のような厳つい顔のがたいのいいマッチョおじさんが
笑みを浮かべて立っていたのです。
ワニが獲物を捕獲するように気配を消したまま私の背後にやってきて私の太もも辺りを
触っていたのです。
それからおじさん、私の耳元で
「ひとり?」
と砂糖をまぶしたような甘い言葉で囁いたのでした。
もちろん小心者の私は股間を押さえ、慌ててその場を逃げ出しました。
小生、60年間、女性の方から好意的な声を掛けられたことをないことをみると、
どうやら20代、30代のころの私は中年男性には好意を持たれる
顔立ち、体型だったのではないかと思うのであります。
―話を戻します。
2LDKに、男4人。そのうち3人がブリーフ1枚姿。
外は炎天下。蝉の声が心なしか夏バテ気味に聞こえるほどでした。
流石に窓全開といえども私がヘルプに入って10時間以上、彼らに至ってはすでに
3日間寝泊りをしているのです。
―本当にエアコンなしで締め切りまで持ちこたえる体力はあるのか?
それにしても仕事部屋が臭い。酸っぱい臭いがへどろもどろと漂っているように
感じてしょうがありませんでした。
白いブリーフの漫画家O氏はトイレから帰ってくるたびに股間の染みが大きく、
はっきりと目に付くようになっていきました。
スタッフふたりはすでにこの環境に麻痺しているのか、気にならないようでしたが、
私は漫画家O氏がトイレから出てくるたびに気になって、気になって股間をちらちらと
盗み見してしまっていました。かと思えばスタッフのひとりは漫画家O氏に「水浴びします」と
ひと言告げ、バスルームの前で下着を下ろし、大き目の洗面器に張った水の上に尻を下ろし
股間を洗っていたりしていました。
ブリーフ1枚のスタッフのひとりが笑顔で私に話しかけてくるのです。
「こう暑いと股間が蒸れるんだよね」
私にも勧められましたが、断りました。
しかし机に置く両腕がベタベタするので、たまに彼らが股間を洗っている洗面所に
両腕を洗いに行きました。すでに早く帰りたい気持ちでいっぱいでした。
ヘルプとして漫画作業よりも彼らの行動が気になって仕方ありませんでしたが、
その後、原稿を受け取りに来た編集者が仕事部屋を訪れたとき、
彼らがなぜブリーフ1枚で仕事をしているのか、謎が解けたような気がしました。
「うっ」
鼻を押さえながら仕事部屋に入ってきたのは二十歳そこそこのボーイッシュな
女性編集者でありました(確かに玄関先から人の家の臭いというのは気になるものです)。
「相変わらずの男臭いですね……」
漫画家O氏、スタッフの顔が明らかに笑みを浮かべていました。
彼ら全員、女性が嫌悪感を抱く表情を見て興奮する臭いフェチなのか……、
とにかく不気味にほくそ笑んでいたのです(その瞬間、私は彼らに狂気すら感じていました)。
又聞きですが、小説家や漫画家の仕事部屋に原稿を取りに行って男女の関係になったなんて話は、
ちょくちょく耳にすることもあるのです。
とくにとある漫画家某氏は担当になった女性編集者ばかり4人と関係を持ち、
編集長が漫画家某氏の仕事部屋に怒鳴り込んでいったなんて話も聞きました。
編集者からの又聞きですが、某出版社では生意気な女性編集者には
女癖の悪い漫画家の担当にするなんて話をしていました。
出版業界の底辺にいる私なんぞに本当のことを話すかどうかはわからいけど……、
孤立した編集者が周りの編集者から受ける「その場にいられない状況を作りだす環境」は
酷いと孤立した編集者に聞いたことはあります。
出版社は親族会社が多く、親の代はよかったが、息子、娘が引き継ぐと一気にいままでの
社員が大量離脱するなんてケースがあるそうです。また酒の席では
「息子になったら経営方針が変わってダメになった」
「あの2代目は接待漬けに弱い」
……なんて陰口も聞くことも少なくありません。
しかし世間から見れば社会とはそんなものではなかろうかと、世間知らずの
元漫画家、元ヘルプ、現在フリーターの還暦じじぃは寝ながら吠えるのです。
話を戻しますと、とにかくヘルプに行った先は漫画家O氏とスタッフは
20代ボーイッシュな女性編集者の前で下着1枚だという事実です。
狭い仕事部屋に下着姿の男が3人、ラフなスウェットパンツとTシャツ姿の私と
色素薄めのパンツとカットソーのTシャツ姿の女性編集者。
彼らが何者か知らない人が見たならば、面白くもないアダルトビデオの撮影現場のようでもあります。
彼女は漫画家O氏の原稿が仕上がるまで部屋の隅で風景を見たり、O氏が差し出した
折りたたみ椅子に座り自分の手帳を見ていました。
静かな人でした。
余談ですが、中には漫画家、スタッフたちを寝かさないように刺激的な話を落語家のように
面白おかしく話してくれる編集者もいます。
印象に残っている編集者の話では80年代マフィアの話。ドS編集者なのか、
やたら睡魔に襲われている漫画家の前で
「メキシコのギャングの拷問知っている?、寝かさないために瞼を切り落とすんだって」
世界各国のギャングたちの拷問の話を語りだしたのは仕事をしていて少し笑いました。
また余談ですが……、書いているといろいろなことを思い出してしまうのです。
とあるスタッフ(25歳)は連日徹夜、徹夜で約15日ぶりに漫画家の仕事部屋から
解放され自宅アパート帰宅。
家の前で隣人の70歳過ぎの品のいいおばさまに声を掛けられた途端、
おばさまの声にムラムラしてしまい、下半身がその場で直立不動。
腰が引けたまま、挨拶を終え、歩き始めた瞬間、太ももでち〇こが擦れたのか、
100メートルランナーのロケットスタートのように元気よく射精してしまったらしいです。
……度重なる余談、すみませんでした。
話を戻します。
なぜ漫画家O氏、スタッフ2名がブリーフ1枚で仕事をしていたのか、
その答えがはっきり致しました。
徹夜続きでようやく原稿を完成させたブリーフ1枚の漫画家O氏がもっそりと
椅子から立ち上がったとき、私は机の上の証券用インクを原稿の上に倒しそうになりました。
白いブリーフからしょぼしょぼの粗チンが顔をだしているではありませんか。
漫画家O氏は真顔で粗チンを露出したまま女性編集者に原稿を手渡すと、
手渡した手で露出している粗チンをひょろっとブリーフの中からさらに摘まみだしたのです。
女性編集者は(はい、はい)と子供をなだめるように頷きながら漫画家O氏の机の隅でページを確認し、封筒に仕舞いこみ
「お疲れさまでした、明日の夕方には次号のネームよろしくお願いします。そのころご連絡します」
とまるで到着した電車が、また定刻に出発するように何事もなかったように
女性編集者は振り返ることもなく仕事部屋を出ていきました。
漫画家O氏は私の顔を見て苦笑いしていました。
……いまだったら完璧なセクハラで訴えられるレベルです(昔でも)。
その昔、新聞社の人に聞いた話。
巨根で有名な野球選手、エレベーターで(見ず知らずの)女性とふたりきりになると
ズボンのファスナーを下げ、イチモツを露出していたなんて聞いたことがありますが、
世間的(新聞、ニュースで知る限り)には意外と多い露出癖……。
このブリーフ1枚漫画家O氏も女性編集者に粗チンを見せたいがために
ブリーフ1枚になっていたのです……、たぶんにそうに違いありません。
そうえいば年に一度の出版社パーティーの2次会、3次会ではハメを外す漫画家たちがいました。
酒が入れば、まってましたと、脱いでいた人たちがいました。
とあるスナックで人気漫画家の号令で男性スタッフ6人が全裸で肩を組んで
アニメソングを熱唱(いや咆哮)していたり、とあるカラオケバーでは
漫画家が下半身丸出しのまま直立不動でカラオケをしていました。
近くにいた女性が「見飽きたわ」とひと言。聞けば、その漫画家来店すれば、
いつも脱いでいたそうです。
ストレス発散で全裸、確かにそれが許された男性社会の時代があったのかもしれません
(会社勤めをしていないのでよくわかりませんが……)。
―私の高校生時代、1980年代当時……、
通学路に夕方になると自宅前で下半身丸出しでバットを振っていた50代のおじさんがいました。
クラス内で話題にもなりましたが、当時、野球は国民的スポーツで、実際、
大リーガーの練習方法として全裸のままバットを振るというのがあったそうです。
バットを振った軌道とち〇こが振り切れる軌道が同じだと腰の回転が正しいとかなんとか
クラスの野球部の奴が熱く語っていたのをぼんやりと覚えています。
私はそのフルチン打法のおじさんがドラフトに指名されプロ野球で活躍したら愉快だなんて
空想したものでした。
時代なのか、路上でフルチンのままバットを振る人がいてもあまり大げさなことにならかった
記憶があります(近所ではそれなりに問題になっていたのかもしれませんが……)。
しかし当時、銀座の歩行者天国でストリーキングが出た時は雑誌でも大騒ぎしていたような……、
って女性だったからかな?
路上で立ちションしている男性もよく見かけたし、私の田舎では田畑で立ちションしている
おばさんもたまに見かけました。虫取りの途中、たまたま畑の隅で
おばさんの立ちションを目撃したことがありました。興味半分で覗き見していると、
逆におばさんに睨み返され、慌ててその場から逃げ去ったものでした。
そういえば人気女性漫画家がヘベレケになり男性編集者ふたりに両肩を支えれらながら
居酒屋を出ていったところを目撃したこともありました。残された編集者、漫画家たちは
下衆な会話で盛り上がっていました。
とある居酒屋の個室に人気漫画家、編集者、さらにはなぜか舞台俳優たちが集まっての
どんちゃん騒ぎ。あきらかにノリが違う舞台女優たち。
おっぱいを触らせたり、キスし合ったり……、
人気漫画家、編集者も普段見せない顔を見せて大はしゃぎ。
……無名漫画家の私は部屋の隅で股間を熱くさせていたなんてこともありました。
10代の頃からお金よりも自分の時間を大切にしたい、
さらには賑やかな場所が嫌いだということもあり、
出版社のパーティー、漫画家たちの飲み会には
「その日は歯医者の予約が入っています」
といって断り続けていましたが、あるとき尊敬する先輩漫画家から「営業」だと思い
出版社のパーティーは出るようにと言われ、それ以来、名刺を持参し出かけるようになりました。
確かにそのおかげ持ち込みすることもなく仕事を戴けるようになりました。
営業の大切さをより深く体感しました。
しかし40歳を過ぎても代表作なしの無名漫画家は同業者たちの集まりには参加しない方が
いいということも痛いほど思い知らされました。
ヘルプで知り合った有名漫画家とふたりで話していると、会話の途中に編集者が入り込んできて
有名漫画家を連れて行くのです。
1度や2度ではありません。行けば、どこにでも失礼な編集者がいて有名漫画家と会話をしている
私との間に、まるでイナゴの群れが私の前を通り抜けたかのようにバッタバッタと割り込んできては
有名漫画家を持ち去っていきます。
無名漫画家であるために編集者、原作者、同業者たちから無視され、見下され、
誰からも相手にされなくなっていくのです。
そのたびに胸の肉を抉られ、塩を振りかけられている気分になります。
私は息を殺すように会場の隅で壁に凭れ、眼前、展開せしものは人に気にいられようとする族の滑稽姿。孤立無援の孤島にて、なお意気屈せぬ無名漫画家、心の奥にそっと置かれた
我がバイブル中島敦の山月記を思い浮かべるのです。
国家(官僚制度)、経済(企業組織)、学校(教育制度)……、
空虚なヒエラルキーに閉じ込められた社会。一見、自由に見える出版業界、漫画界もまたしかり、
形式内制度で身動きできない。
無名であるために誰も私の話を受け止めてくれない。
「後日電話します、メールします」
120%返事をしてきた編集者はいません。
大手企業に就職するか、金持ちになるか、漫画家なら売れなければいけない、
アニメや映画にならなければ誰も興味を持ってくれないのです。
★出版業界の隅っこ……。
人気漫画家K氏の仕事場へヘルプとして入った時の話です。
とにかく連日徹夜続きで瞼に10キロの重りをぶら下げているような漫画家K氏とスタッフ。
すでにほぼ貫徹5日目、台所には漫画家K氏、スタッフの飲み干した眠気覚ましドリンクが
10本ほどが転がっていました。さらに漫画家K氏とスタッフのデスクの上には
3本の眠気覚ましドリンク。身体を揺らすたびに自分の頬を軽く叩いては原稿に向かう漫画家K氏。
そして眠気覚ましドリンクの蓋を開け一気にゴクリ。
その時です、ブッと音をたて鮮血が打ち上げ花火が夜空に咲くように噴き出したのです。
目の前の80パーセントほどペン入りが完成していた原稿にも血しぶきが飛び散っていました。
血まみれの原稿用紙。
スタッフがホワイト修正を任されていましたが、大変そうでした。
眠気覚ましドリンクを立て続けに1日3本以上の飲むのはやめておいた方がいいと思いました。
またこんなことも……。
漫画家I氏、スタッフが寝ないように編集者の掛け声でしりとりを始めたのですが、
元気がいいのは編集者だけで、あきらかに漫画家I氏、スタッフは面倒臭いと
不機嫌極まりない顔をしていました(ヘルプの私は途中参加なので彼らほどストレスはありません)。
とにかく少しでも早く原稿を上げてほしい編集者は漫画家I氏やスタッフが睡魔に襲われないように
元気な声で「りんご」なんて言うもんだから、仕事場に隔離されて4日目、
そして1日数時間の仮眠で神経がギスギスし、睡魔に頭を鷲掴みされている
漫画家I氏、スタッフはビクッと身体を震わせ、編集者を睨み返し、小声で
「ゴリラ……」
そんなピリピリとした、またどんよりとした空気の中、1時間ほどたった瞬間、スタッフが
「(バカらしくて)やってられっか!」
と奇声を上げ、仕上げを拒否してしまった場面に遭遇してしまったのです。
漫画家I氏はすぐさまスタッフを宥めたが、徹夜続きのスタッフの緊張の糸はすでに切れていました。
スタッフは自分の荷物をまとめて仕事部屋を出て行ってしまいました。
漫画家I氏は原稿をほったらかして、すぐさまスタッフの後を追いかけました。
さらにそのあとを編集者が鬼の顔をして追いかけて行きました。ひとり仕事部屋に残された私は
周章狼狽していました。
1時間ぐらいして漫画家I氏と一緒にしょげかえったスタッフは仕事場に戻ってきて、
原稿が上がるまで私たちは机の前に座り続け作業をしました。
しかし後日、編集者の話によれば、翌日、スタッフは漫画家I氏の元を去ったということでした。
★漫画家のスタッフ
私が漫画家のスタッフを体験したのは35年前ほど前の話だが、どんなに徹夜作業しようが、
残業手当はなし。
月6万(仕事場にいるときは食事あり)。
数カ月で逃げ出した私から見れば、何10年もスタッフとして働いている人たちを超人だと思います。
聞けば最近では、かなりスタッフの労働時間、金銭面など待遇もよくなっていると聞きます。
知人のスタッフの話ではボーナスが年2回出ている人気漫画家の仕事場もあるそうです。
それも漫画家らしいエピソードで、ボーナスの支払いが振り込みではなく、
100玉の現物支給だそうで、ボーナス日、スタッフたちは漫画家が用意した
100玉がギッシリとつまった黒いバックを抱え持ち帰るそうです。
★編集者が切れた話を思い出しました。
とにかく毎週、毎週締め切り寸前の漫画家T氏でありました。
おかげでヘルプとしてちょくちょく呼ばれ、T氏のスタッフが固まるまで2年ほど定期的に通いました。
ある日、早朝始発で仕事場にやって来た編集者、(編集者の言葉を信じれば)
最終締め切りが朝の10時。これを死守しないと今週の原稿は落ちることになるそうです。
編集者の目の前に完成原稿12枚、人物、背景のみ(ホワイト、スクリーンでの仕上げが出来ていない)原稿4枚、下書きのみの原稿が5枚。
その現状を知るや否や編集者、
「きぃ―っー」
と奇声を上げ、部屋の隅に折りたたんであった小さなちゃぶ台を部屋の隅に立て、
スタッフのデスクの前に紐でぶら下げられている下書きのみを原稿を1枚奪い取り、
ボールペンをグッと握りしめ、下書きに描き込んでいったのです。
「あーっ」
とスタッフが声を上げるも、漫画家T氏は日ごろ、編集者に締め切りでご迷惑をおかけしている手前か、編集者をチラリと見ただけで黙り屋を決め込み、ただ粛々と目の前の原稿に手を動かしていました。
流石に主の登場人物にはボールペンで描き込みませんでしたが、下絵の背景、人込みに勝手にボールペンで描き込んでいく(明らかにヨレヨレ線の素人!)。
数分で1枚が完成。まるで空腹猫が餌を見つけたときのようにすばしっこく、ある意味芸術的でもありました。
その原稿をスタッフが受け取ると、スタッフは漫画家T氏に恐る恐る見せるとT氏は小さな声で
「修正頼むわ」
すると地獄耳の編集者、鬼の形相で、禁断のひと言
「お前の作品なんて誰も見ねぇ~よ!」
静まり返る仕事部屋。
漫画家T氏は忍の一文字、まさに地獄でした。
……その後、漫画家T氏と編集者でどんな話し合いが行われたのか、ヘルプの私には知る由もありませんが、数ヶ月後、連載は打ち切りになっていました。
毎週、毎週締め切り寸前の漫画家がいけないのか、キレた編集者がいけないのか……。
漫画家の情熱、編集者の職務、ふたりの信頼性、作品の中の本質的小さな幸福感。
★臭い……。
フランスでは昔、未婚の女性を個室に集め壁に穴を開け、そこから女性たちの臭いを嗅ぐと
中年男性たちは若返ると信じられていたそうです。日本文学でも田山花袋、谷崎潤一郎など
臭いに関する名作は多い。漫画家の世界でも女性の下着など臭いに固執する作品も少なくありません。
……におい。
100人以上漫画家の仕事部屋へお邪魔した私。仕事部屋の玄関が開くたびに、
その漫画家の部屋の臭いがするのです。
20代で人気漫画家となった漫画家の仕事場へ行くと、かなりの確率で豪邸、清潔、スケジュールも
しっかりと管理してあるというイメージですが、30代、40代で細々と漫画家を続けられている
漫画家の仕事部屋に行くとかなりの確率で狭い、不潔、行き当たりばったりスケジュールという
イメージです。
―40代、独身、築40年家賃4万5千円木造アパートの漫画家A氏の自宅兼仕事部屋にヘルプとして
行ったときの話です。
スタッフはなし。
忙しくなると知人の伝手でヘルプを呼ぶ。
ちなみにこの手の漫画家の担当編集者はどんなに漫画家が大変だろうが、漫画家がヘルプを
お願いしても、まず編集者は汗を掻いてくれません。
知人の紹介で私がヘルプに行ったのですが……、とにかくこの漫画家A氏の自宅兼仕事部屋が人を
不快にするほどの臭い。
漫画家A氏曰く、住んで30年近く部屋も、窓も台所もトイレも真剣に掃除を
したことがないという……。
笑顔で話すA氏の顔が1万年ぶりに掘り起こされた土偶に見える。
ゴミ屋敷とはいかないまでも畳は落ち武者の如く所々剥げ落ち、壁は老婆の如くシミだらけ、
流し場には食べかけのカップラーメンがいくつも投げ捨てられていて、
トイレに至っては便器から壁まで糞痕まみれ(おしっこに行くたび苦痛で、苦痛で、
正直トイレから出るたびに漫画家A氏をぶん殴ってやりたかったです)。
しかも風呂なし8畳で漫画家A氏本人、極度の風呂嫌い。
肩に降り積もる親指大のフケ、動くたびにハラハラと床に舞い落ちる。まさにひとり冬物語。
笑えば歯糞まみれの黄色い歯が見え隠れ。
漫画家A氏の傍に寄り、原稿の指示を仰げば、酸っぱい臭いを糞で丸め込んだような
どぶどぶの臭いが私の鼻先を鷲掴みにする。
漫画家A氏が用意してくれた折り畳み式デスクをA氏の横に並べて仕事をしていたのだが、
締めきった部屋(当時、9月末のことだと記憶している)の空気の流れのせいなのか、
とにかくA氏の体臭である酸っぱい臭いが私の鼻先に籠るので、
私はA氏と背を向けて仕事をすることにしてもらいました。
ヘルプなのでそこは臨機応変、受諾してもらいました。
それにしてもこの仕事部屋に1日以上いたら私は発狂していたかもしれません。
とにかく他人の部屋の糞まみれの便器で用は足したくはない。
ストレス発散のために没原稿の隅に自分の鼻毛を綺麗に並べていた夏目漱石先生、
こんな漫画家もいます。
担当編集者が気に食わなくて、「原稿の隅は印刷されないから」という理由で
自分の完成原稿の隅に鼻くそを付けまくり編集者に手渡していた漫画家がいました。
編集者は締め切りが来るたびに、苦痛だ、苦痛だと嘆いていました。
臭いで、もうひとり思い出した漫画家がいます。
漫画家というのは基本、机の前に座ってなんぼの世界でもあります。
かの有名漫画家は漫画スクールで最初に言うのは
「漫画家になるには24時間椅子に座っていられるかということです」
と椅子に座り続けられることの重要性を延々と述べられる。
一般的な人は2、3時間ほど座っていると、ちょつと立ち上がって歩いてみたくなるそうだ
(集中力の大切さを語っていると思われますが……)。
腰痛になってソファに寝そべって漫画を描き上げている漫画家がいるなんて話は聞いたことも
ありますが、基本1日中椅子に座っています。
そのせいか?、少女漫画家の悩みとしてお尻の座り黒ずみだという。
1度、少女漫画家たちの会話の中で、お尻の形や座り黒ずみの悩みで盛り上がっていた場面に
遭遇したことがありました(なんで私がその場に居たのか、今思うと不思議……)。
思い出したのは美容?の悩みではなく、長時間座っていることで内臓に悩みを抱えている
漫画家E氏の話。
―とにかくその漫画家E氏、極端な話、1時間置きに屁をカマスのである。しかもその臭さ、
数日間放棄された生ごみの如し。
スタッフの机のデスクライトには小さなうちわが掛けられていて、漫画家E氏がニヤニヤ、
あるいはスタッフのひとりが漫画家E氏の屁の臭いに気が付くとスタッフたちは一斉に
うちわを大げさに扇ぐのである。
ヘルプで入った私は、仕事場の諸事情を知らない、聞かされていなにので、
ファーストコンタクトでは
嗚咽が出るほど臭かったことを覚えています。
それにしてもその漫画家E氏、信じられないほどの数の屁を仕事中にしていたのです。
椅子に座ったまま背伸びをしてプッ、トイレに立った瞬間にブブブ、スタッフに原稿を
指定ながらスゥ~……、まるでお尻の穴に小さなラッパ吹きでも住まわせているのではないかと
思うほどにブップゥ、プププ……なのである。
私は絶対に漫画家E氏の腸は腐っていたと思います。
いや、もしかしたらうんこを漏らしていたかも……。
とある漫画家に聞いたのですが、徹夜続きだと、意外と寝糞をするスタッフは少なくないという
(漫画家の体験上)。
こんな話も思い出しました。
超激務の人気漫画家某氏はトイレに行く時間ももったいないということで、
デスクの下にペットボトルが何本も置いてあり、尿意を催すと椅子に座ったままペットボトルの中に
放尿していました。1本分溜まるとトイレに流しに行くのです。そんな人気漫画家某氏でも
放尿する時の音が恥ずかしいという気持ちがあるのか、そのときだけはラジオのボリュームを
大きくしていました。
しばらくの間、私はあの漫画家の尿意
「ジョボジョボゴボゴボ……」
という水音が耳から離れませんでした。首筋が痒くなったもです。
あまり尿だとか糞だとか描くと尊敬する室生犀星氏に叱られるから、この辺で……。
糞尿譚。
★スタッフの主な仕事は……。
漫画家のスタッフの主な仕事は漫画家が描いた主要人物を輝かすための背景、効果
(集中線、描き網など)、スクリーントン貼り、削り、ホワイト……、原稿の仕上げ
(中には漫画家はネームを切るだけで、残りはすべてスタッフが行う仕事場もありました)。
いってみればスタッフはキャラクターを描くことはなく、ほぼ街並みだ、山道だ、雨だ、青空だとか、
ほぼ風景を描くのです。
10年も、20年もやっていると風景は写真のように上手い(最近は写真でのトレスが激増)が、
人物はあれれ?って思われるスタッフも少なくありません。
私がヘルプで知り合ったスタッフのひとりに、20年以上ひとりの漫画家のもとで
働いている人がいました。
毎日、毎日緻密な風景ばかりを描いていたら人物の描き方を忘れてしまったとのこと。
しかしどうしても漫画家になりたい彼は、20年以上勤めた漫画家のスタッフをやめて、
最後の勝負に出たのが45歳の春。
―と、ひとりアパートの机の前に座ってみましたが、思うように人物が描けない。
人物デッサンを1から学ぶために図書館へ行って参考資料を片っ端から読み倒し、
自分なりに納得できる絵柄にしていきました。
まずは骸骨から描き、正しく関節を曲げ、肉付けをし、人物を描いていくことだったそうです。
直接描くところを見せてもらったが、まるで絵画のように上手いのだが時間の掛け過ぎ。
宮谷一彦が一コマに1日かかるといったそうだが、彼もまたしかり。
……週刊誌連載、あるいは月刊誌連載も難しそうに感じました。
もしかしたら、彼は努力家なのですべてを克服し、どこかの雑誌、電子書籍サイトで
バリバリ描きまくっているのかもしれません。
彼のことを書いていたら、こんなことを思い出しました。
雑誌全盛期時代、編集者がまるで金太郎飴のように言っていた言葉があります。
「漫画にはキャラクターと、もうひとつページをめくる楽しみがある」
―雑誌の左端下のコマに次はどうなる?的な表情、出来事を必ず入れるということだそうです。
ようするにコマの流れを大切にすることらしいです。
その一方で、こんな考えが漫画家たちから出てきました。
雑誌掲載漫画作品約20本。
読者の読む作品は人気作品と読者の好きな作品だけ。
あとはさらっとページをめくられるだけ。
隅から隅までしっかり読む読者はいないのでは?という考えで、読者の目を止めることに全集中を
注いだ漫画家たちが80年代以前には多くいましたが、キャラクター商品が金になることで
出版社側はキャラクター漫画重視に移行したと言われています。
★伝説のヘルプ
世の中には人知れず凄い人たちがごまんといます。ヘルプの間でも超凄テクニックを持っている
ヘルプは私の知る限りでも6人います。
花、木など自然が得意なヘルプ、自動車、バイクなどメカが得意なヘルプ、
やたら遠近法が得意なヘルプ、写真のように描けるけど、見る人の頭の中に入り込んでいけないヘルプ、遠近法はどこか不自然だけどなぜか魅力的に街並みを描くヘルプなど様々なヘルプがいます。
その中でもひとり、模写、Gペンの使い方が神がかっていて、某人気漫画作品の数十話分、
ほぼ彼ひとりで作者に代わり描き上げたという伝説のヘルプがいたそうです。
一時期、某出版社の専属(?)みたいになり週刊誌連載で原稿を落としそうな漫画家の代わりに
描いていたと編集者に聞きました。
「とにかくどんな漫画家の作品を模写することが得意で、ペンの強弱までそっくりだから
一般の読者ではまずわからないでしょ」
と編集者は語っていました。美術作品の贋作家の話は書物、あるいは映画などでよく目にしますが、
漫画作品に贋作家がいたとは驚きました。
1度だけ、10年以上前かな、漫画家のヘルプだけで生活している人たちばかりが集まって
座談会みたいな企画が某出版社側から声が上がり、私を含め数人のヘルプに
電話連絡があったのですが、やはり(仕方ないことなのですが)有名漫画家と、
ただのヘルプとの違いで、金銭、日々の連絡、対応など様々の点で編集者のヘルプへの
見下し感が凄かったので年配のヘルプさんたちが激怒して企画は流れてしまいました。
伝説的ヘルプの話は、昔からたまに聞いていたので、もっと知りたいと思っていた私としては
少し残念でもありました。
ちなみにヘルプの歴史ですが……。
ある大御所漫画家から聞いた話によると、その昔、漫画よりも挿絵画家全盛期で、
かなりの数の挿絵画家がいたそうです。さらに印刷技術により挿絵画家のテクニックも
向上していったのですが、そんな中、日本全国に漫画ブームがやってきて、
小説(挿絵)と漫画で構成していた雑誌はオール漫画掲載雑誌に変貌したそうです。
それで仕事に溢れてしまったのが漫画の描けない挿絵画家たち。
親分肌の漫画家S氏が挿絵画家たちをどぉ~んとスタッフとして雇い入れたそうです
(当時に劇画漫画の背景は今見ても感動します)。
そうして漫画の分業制が確立していったそうです。
漫画家S氏のように長期に渡りヒット作品を連発出来ればスタッフを抱えることが出来ますが、
一ポッとでの新人漫画家、無名漫画家では無理。
そこで編集者たちが持ち込みや新人賞に応募してきた絵の描けるデビュー前の漫画家たちの
目の前にニンジンをぶら下げ、締め切り間近で四苦八苦している連載漫画家たちを手伝わせるために
ヘルプなる職業が成立したと聞きました。
★音楽……。
2000年以前は、漫画家の仕事部屋では漫画家が流すラジオ、CDをスタッフも聞きながら
作業をするイメージがありましたが、2000年以降は漫画家、スタッフ、
それぞれがイヤホンをして自分の好きなラジオ、音楽を聞きながら作業をするというイメージです。
10年以降だとヘルプに行く漫画家、スタッフも20代、30代と若く、
圧倒的にアニメソング、ボーカロイドを聞いていたのには驚きました。
すでに五十路の私には未知の世界でありましたが、ボーカロイドには大変興味を持ち、
知人の紹介でソフトを購入しました。
しかしフォトショップ、イラストレーターで漫画、イラスト描いてはいるけれど、
いまだにしっかりとソフトのことを理解できずに操作しているだけのパソコン音痴。
だからボーカロイドのソフトも数回動かしてはみたものの理解できずに、いまではそのソフト、
どこへいったらやらです。
そんな中、思い出すのは演歌好きの漫画家O氏、スタッフの2名の仕事部屋。
仕事中、ずっと森昌子が流れていました(実は私、学生の頃から洋楽を聞いていたので、
仕事中、ずっと森昌子は精神的にキツかったです)。
ヘルプということもあり、かなり我慢しました。
自分ひとりイヤホンを持って行って、聞くということも出来なかった時代なので、
とにかく、その仕事場では漫画家O氏、スタッフにやたらと話しかけていた思い出があります。
聞けばスタッフのひとりが前職、トラックの運転手だったそうです。
そして描いている作品が萌え系だから面白い。
漫画界ではかなり珍しいと思います。
100人以上、ヘルプとして漫画家の仕事部屋にお邪魔しましたが、
演歌が流れていたのは、あとにもさきにもここだけだった気がします。
ちなみに1番多いのはラジオ。2番目はTV番組、3番目は漫画家の好きな音楽
(洋楽が多かったです)。
余談ですが、聞いた話。
クラッシックの好きな人気漫画家、1日中、クラッシックのレコードをかけ続けていた仕事部屋。
田舎から上京してきたばかりのスタッフのひとりが
「いつになったら唄うんですか?」
といって人気漫画家に呆れられた話は有名です。
また50代の落語好きな漫画家が1日中、落語のテープを流していたら
20代のスタッフのひとりが
「も、も、も、もぅ、もう―っ、やめてくれぇ~」
と絶叫し、仕事部屋を飛び出していったという話を聞いたことがあります。
漫画家の仕事部屋のBGMひとつにしても漫画家の性格が現れます。
★性欲……。
漫画家には「スタッフをまとめ上げる親分肌」、「身内で固める親族派」、
「こだわりの一匹狼孤狼派」がいる様に感じます(あくまでも40年以上ヘルプとして
100人以上の漫画家の仕事部屋で体感した私見であります)。
困った話では、親分肌でもないが若くして人気漫画家となり日々忙しさに追われ、
自分の預貯金をスタッフ、マネージャーなど身近な人たちに任せっきりとなり、
自分は一切把握できない漫画家がいたりします。
又聞きだが、別管理していたファンクラブの年間費をチーフスタッフに持ち逃げされたとか
(4000万円以上だったと聞きました)……、また都会のド真ん中に仕事部屋として
マンションを購入しようとしていたお金をスタッフにすべて持ち逃げされた漫画家の話は有名です。
一匹狼孤狼派の中には、そんな関係が嫌でひとりで漫画を描いている人も少なくないと聞きます。
人気漫画家からしみじみと兄弟が多い漫画家がうらやましいと聞いたこともあります。
しかしある意味、人気漫画家、商業的成功漫画家は金に関しては豪快な人も少なくありません。
親分肌といえば、こんな漫画家もいました。
とにかく漫画家をはじめスタッフ全員女性、風俗が大好物で、仕事中も風俗の話で大盛り上がり。
少年誌なのに隙あらば背景などに風俗店のようないかがわしい看板が漫画家、スタッフによって
描き込まれるのです。そして仕事が終われば少し仮眠して漫画家は鼻息荒いスタッフたちを
ゾロゾロと引き連れキャバクラ、あるいはオッパブで大いに笑い、楽しみ、
そして解散というのは少し驚きました。
漫画家によっては仕事終わりには漫画、スタッフ、ヘルプ全員で仕事部屋を掃除して、
近場のレストランで食事をして解散なんてケースが多いのですが、
仕事終わりにみんなでキャバクラに連れられて行ったのははじめてでした。
たまたまスタッフの諸事情でヘルプに参じましたが、
ここのスタッフは全員、親分肌の漫画家の下で一生涯働く決意なので仕事場としてもまとまりが
ありました。
90%、いやほとんどののスタッフは自分の作品を描きたい人だから、
実のところ漫画家のスタッフとして働きながら心ここにあらずの人は少なくないと感じています。
キャバクラで思い出しましたが、某漫画家の有能なスタッフA、幼少の頃から漫画家になりたくて
漫画家になるまでは忍の一文字で酒も女もギャンブルもせず、すべては漫画のために、
死ぬか、気が触れるか、宗教に入信するか……、漱石先生の「行人」一冊、空の本棚の片隅に立て
「孤独」を覚悟する姿、まさに石心鉄腸。しかし人間とは摩訶不思議な生き物なのです。
スタッフA、漫画家の連載終了に伴い漫画家、スタッフ6名でお疲れ会と称し、
夜の街に繰り出すことになったのです。そのときにスタッフAは脳を擽られるような快感を
キャバクラで知ったがために、それ以来、漫画家のスタッフもやめ、
キャバクラに行きたいがためにフリーターになってしまったのです。
ヘルプに入ったときにそんな話を聞いた限りで、
そのあとスタッフAはどうなったのかわかりませんが、
幸多からんことをふと思ったりしたりして。
こんなこともあるから売れるまで女絶ちしている人の気持ちも分からないわけではありません。
まさに牛島辰熊の如く、酒は飲むな、女は買うな、買いたくなったら額に1円札を貼って
センズリ精励恪勤の精神でヘルプの私が「煢然な黙り屋」なら、お金がない、
自分の時間がないデヴューするまでスタッフAは「煢然のシコリ屋」である。
無名漫画家、あるいはスタッフたちの居酒屋でのセンズリ話は私の経験上、
さすが妄想夢想我流家集団の漫画家だけあって突拍子のないセンズリの仕方に
早朝まで笑い転げたのはいい思い出です。
乙女のようなセンズリから狂気過ぎるセンズリ、さらには犯罪スレスレなセンズリ……、
思い出した、思い出しました。
いつの日か無名漫画家、スタッフたちのセンズリ話だけで書籍が出来るぞ、
よし、次は無名漫画家たちの100通りの赤裸々なセンズリ話なんて電子書籍を書こうって、
誰も読みたくありませんよね、失礼いたしました。
もちろん漫画家の仕事部屋でも下ネタが大嫌いなむっつりさんのスタッフもいますので、
その場の雰囲気を見て話さないとめちゃくちゃ嫌な顔されたり、叱られたり、
バカにされますのでご注意をです。
私が体験した話です。
10人程度で飲み会に行ったときの話です。
いざ、会計となったとき、よほどその宴が楽しかったのか、人気漫画家K氏が
「ここはボクが出します」
と店員にブラックカードを差し出していたのです。
人気漫画家と飲み食いするとこういうパターンは本当に多いです。
年上だが貧である私は立ち場がありません。
ヘルプという仕事柄、仕事の後の人気漫画家との食事は仕方ありませんが、
プライベートでは、あまり年下の人気漫画家と食事はしたくありません。
しかし、もっと嫌なのは貧の漫画家です。
貧の漫画家、スタッフと飲みに行くと最初から「ゼロ戦で来ました」(ゼロ戦=ゼロ銭)なんて
店内に入るなり敬礼ポーズをして財布を持っていないことを笑えないギャグひとつでその場で
飲み食いしようと輩もいます。
会計になると、まるで満員電車内のすかしっ屁犯みたいに痕跡だけを残し、
すっと、いなくなる奴もいます。
貧で酒好きは本当に嫌です。
70年代の漫画家は昔ながらの職人、芸人、落語家などの師匠と弟子みたいな考えあり、
飯は食わせてやるが給料なしというという仕事場も少なくなかったと聞いています。
「アシスタントが嫌なら売れろ」
さすがに給料が出ないところへはヘルプとして行けません。
1度、給料の出ない漫画家M氏の仕事場でスタッフとして働いていた人に聞いたことがあります。
「自宅でオリジナル作品を描くときもGペン代とか、スクリーントン代とか、
結構、金がかかるでしょ?」
すると彼は
「仕事が終わるたびに仕事部屋から気が付かれないように黙ってもらってくるんですよ」
そういえば、とある編集者が教えてくれた話ですが、持ち込み原稿を見ているときにテーブルに
置いてあるオレのタバコをそっと盗もうとしていた新人漫画家がいたそうです。
そうそう持ち込みで思い出した話。
「いまの印刷技術は素晴らしいから大丈夫ですよ」
って、アクリル絵の具で瓦に4コマ漫画を描いていた人がいました。
瓦30枚ほどを大きなキャリーバックに入れて持ち込みしていたようだけど、どうしているかな。
1度、持ち込みに行く途中で瓦を割ってしまったこともあったそうです。
★歴史は夜に作られぬ……。
とにかく私がヘルプとして呼ばれる日は締め切り寸前。前々日辺りから漫画家、
スタッフは徹夜続き。まさにヨレヨレ濡れ落ち葉状態。ひどい時には、
呼ばれた最終日、スタッフは誰ひとり戦力にならず、残りの数十枚、背景から仕上げまで
私ひとりでやり遂げたこともあります(まぁ、それが仕事ですからね、
でもひとりは体力的にきつかったです)。
昔の漫画家は(合法)ヒロポンを打って徹夜作業をしていたと聞いています。
知人の年配者であるトラック運転手もヒロポン打って全国走り回っていたと放されていました。
「効くんだ、アレが」
だって。
昭和初期の好景気はヒロポンで支えられていた……?。
覚せい剤取締法が制定される昭和26年以前までは普通に薬局でヒロポンは売られていました。
その後、昭和40年代に再びヒロポンの闇流通が人気となり問題になったらしいです。
余談だが、その昔、私のボロアパートがある駅にまで編集者が打ち合わせに来てくれたことがあり、
駅前の喫茶店に入ることになりました。
編集者が先にドアを開け、入店しようとしたら、いきなりドアを閉め
「他のところに行こう」
と慌ててその場から立ち去ったのでした。
……聞けば
「いかにもって人がテーブルの下で、なにかの受け渡しをしていたんだよね、怖いよ」
だって。
かつて漫画関連の取材で知人の紹介で警察関係者を取材したことがありましたが、
そのときに言われたことは、
「とにかく危険な場所、行ってはいけないところへは近づいては行けない」
とのこと。
実話誌系の編集者にも、
「危ない場所取材と書いてあるけど、実はちゃんと取材場所には前もって了解済みですから。
またヤバい人たちも本当にヤバい人には取材出来ませんから、だいたい「元」とか、「情報通」で
誤魔化しているだけですから。取材するならちゃんと取材許可を取ってくださいよ」
と丁寧に教えてくれました。
酒の席だが、某編集長なんか
「明日、地震が来るなんて不安を煽っておけば雑誌なんて売れるんだから」
なんて言っていました。
そんな景気のいい話も昭和で終焉を迎えましたが、それでも人々は人生勝ち組のルールに
従うしかないのかもしれません。
★狂え、深夜のバカものたち……。
とある漫画家の仕事部屋にヘルプとして招かれたときの話。
漫画家U氏、スタッフ2人、全員30代の男性。
聞けば月刊誌(増ページ)と週刊誌(増ページ+カラー表紙)が重なってスタッフも
2週間近く自宅にも帰れない状況とのこと。今夜が最終締め切り。
「ちんぽしりとりするぞ」
漫画家U氏の一声で元気を振り絞る。しりとりとは名ばかりでとにかく
睡魔が襲ってこないように声に出して「ち〇ぽ」と叫ぶ。
「元気なち〇ぽ」
「泣いたち〇ぽ」
「うれしいち〇ぽ」……
8回言ったところで全員で声を合わせ
「ち〇ぽの数だけ夢がある」
そしてまた
「真っ黒ち〇ぽ」
「テカテカち〇ぽ」
「萎びたち〇ぽ」……
8回言ったところで全員で声を合わせ
「ち〇ぽの数だけ夢がある」
……。
某漫画家は言いました。
「漫画家が頭を使うのはネームのときだけ。あとは流れ作業」
男4人の仕事部屋で深夜、漫画作業に追われながら、ひたすら手を動かしながら、
カキながら原稿を仕上げていくのでありました。
あの名作、力作が、こんなにもバカバカしい現場で行われているかと思うと
少しがっかりするファンの方もいるかと思いますが、締め切り直前ピリピリとした現場は
気が狂いながら下ネタでも叫んでいないともうひと頑張り出来ないとという
仕事部屋も少なくないのです。
★貧乏……。
人気漫画家のチーフとか、専属とかになれば別ですが、ほとんどの漫画家のスタッフは貧であります。毎週、毎週徹夜しても10万円程度だといいいます。ボーナスが出るところもあるが、
ほとんどの漫画家のところでは出ないそうです。
基本、いまだに「貧乏が嫌なら売れる作品を描け」の世界なのです。
昨今、漫画家スタッフ募集のSNSなどを見ると社会福祉など一般的な正社員募集もありますが、
まだまだ人気漫画家、有名漫画家などすでに会社になっている仕事場に限られています。
明治後半、大正、昭和のはじめ戦争、世界恐慌、デモクラシー時代、文士たちは貧でありました
(円本で潤った時代もありましたが……)。
社会福祉のシステムは十分ではありませんでした。
太宰治は実家からの仕送りを当てにし、宇野千代、尾崎士郎など馬込文士たちも家賃にさえ
四苦八苦していました。北原白秋、室生犀星、川端康成などがバカ騒ぎが出来たのも
裕福な家庭で育った衣巻省三と大実業家の妻のおかげだと言われています。
お金に振り回される文士たちのエピソードに若き私なんぞは浮薄な生活ぶり、
かたや社会の底に澱む生かさず殺さず拝金主義の閉塞感に猛然と立ち向かい、
鮮烈なる断面を言葉の刃で義憤崇高する狂人の姿に発人深省し、狂熱したものでした。
例外は永井荷風、菊池寛……か。
★人気漫画家のスタッフの選び……。
「漫画家で生活出来るなんてほんの一握りです。漫画を教えるスクールなんて
ちゃんちゃら可笑しいね。ボクがスタッフを選ぶときは実家が金持ちか、
そうでないかを調べるのです。とにかく漫画家なんて喰えないよ」
超大物漫画家O氏スタッフの選びはとてもシビアでした。乱暴な言い方をすれば漫画家なんて
よほどの才能と努力がなければ一生、喰っていけない職業なんだから親と同居か、
親の仕送りが許される若者でなければ漫画家になろうなんて思わない方がいいのだと
断言していました。
確かに超大物漫画家O氏のスタッフたちは裕福な家庭の子供ばかりでした。
だから世渡りも上手、無理をしない。
最近知ったのですが、元スタッフのひとり(現在50代)の奥さんは看護婦で自分は
月4ページ程度の漫画を描いて主夫として生活しているそうです。
もうひとりの60代、元スタッフの奥さんは美容師、自分は好きな漫画を同人誌で
発表しているそうです。意外とこんなケースの元スタッフたちは少なくありませんでした。
先日、元スタッフたちをよく知る漫画家(50代、独身)は酒の席で
「せめて顔がよければなぁ……」
って口角に泡をため、カニの甲羅みたいな顔を嘆いていました。
美容師で思い出した話をひとつ。
漫画とは関係ありませんが、私の知人の奥さんの話。
奥さんの行きつけ美容院。
美容院のスタッフのひとりAさんが独立することになったそうです。
Aさんはオープンを記念しての雇い入れたスタッフ2名との食事会の帰り、
ふと目にした宝くじ売り場。スタッフのひとりの提案で記念としてひとり3000円を出しあって
合計9000円分の宝くじを購入することになったそうです。
幼少の頃から賭け事、ギャンブルには一切興味を持つこともなかったAさん、
宝くじなんて「多空くじ」だと思っていて、街角の宝くじ売り場で宝くじを
購入している人たちの後姿を少し軽蔑して見ていました。
当選発表当日、Aさん、スタッフ2名と新聞紙を広げ、当選番号を確認したところ、
……なんと、1億円当選!
ひとり約3333万円!
客が入店する前のオープンしたばかりの綺麗な美容室の中で女性3名、
この世の声ともならない歓喜の声が天井を突き抜け、天まで突きさし、
天から光の星が降り注ぐのが見えあたそうです。
しかしAさんにとって悲劇は数日後に訪れたのです。
大金を手にしたスタッフふたりの態度が急変。
見るからに仕事への熱量がなくなり、夜遊びも派手になり、遅刻することも度々……、
オープンしたばかりの美容院、はじめるにあたりかなりの宣伝費を投入したおかげで
予約がぎっしりと埋まっていたのにスタッフ2名に緊張感なし。
そしてある日
「やめさせて頂きます」
数日後スタッフふたりはやめ、Aさんひとりになってしまったのです。
この忙しい時期に次のスタッフ探し……。
次のスタッフが決まるまで朝から晩まで、実質、A店長ひとりで切り盛りしていたいう話です。
宝くじに当選する人っているんですね。
―となる人気漫画家が言っていました。
「ヒット作が出たのは宝くじに当たったみたいなものですから、
浮かれずに好きな漫画を描くだけですよ」
って。
★死……。
私も一時期、なにもする気力もなく、なにを見ても聞いても心動かされることなく、
虚無な状態になり、ヘルプの依頼が来ても、えたいの知れない不吉な塊ではないが、
もやもやとした不安から不安が立ち上るような思いからなかなか外にも出かけることが出来ず、
ようやく依頼が来たヘルプの仕事、意を決してアパートを飛び出してはみたものの、
教えてもらっていた仕事場の住所にたどり着けず、漫画家の車で迎えに来てもらったことがありました。
その時期は不安の暗さが希望の明るさを隠してしまうような毎日でした。
だから私は迷ってしまうのです、動けなくなったのです。
前にも書いたように小心者の私は人との待ち合わせ時間には必ず2時間前には現場近くまでに
到着していないと落ち着かない性格で、その日もそんな性格のおかげで指定された
時間までには到着したので問題はありませんでしたが、ヘルプに入った
漫画家T氏の仕事部屋ではとても落ち着きがありませんでした。
今の状況を漫画家T氏に告げると、ラッキーというべきか、T氏がとても理解のある方で、
ご自身も虚無な状態に陥ったとことがあるとのことで、お世話になった精神科を勧めてくれました。
仕事が終わったら、一緒に行きましょうとまで言ってくれました。
私の漫画家稼業は無駄に長いのです。
その道はあとから続く人も歩けない獣道。
無名のまま40年以上。
ヒット作がないから同業者、編集者から見下される。
従って原稿料未払いが非常に多いです。
今月末に支払われるべき原稿料が支払われなかったのです。
その点、ヘルプはお手伝いをし終えた当日、ほぼ手渡しでいただけるのであり難い。
商業誌の漫画の場合は、掲載された翌々月、あるいは半年後である。
振り込まれるはずのお金が振り込まれなかっただけで内臓が口から飛び出しそうです。
担当編集者に連絡しても原稿料の話になると
「のちほど調べて連絡します」
と言うけど、まずかかってきません。
数週間後には編集者は退社。
……そんな状況が3度もありました(編集者は出版社から出版社へ転職する人が
本当に多い気がします)。
知人の無名漫画家たちにも原稿料未払いの話をすると「俺も」「俺も」と笑い話になっていたり
するんです。
中には休刊した雑誌、連載していた人気漫画家には原稿料はしっかり支払われられているのに
無名漫画家たちには未払いのまま編集プロダクションは倒産したりします。
無名漫画家たちだけで裁判をするかと話し合いになったこともあるようでしたが、
弁護士費用、日々のバイトなどで忙しいからと集まることもなく終了だったそうです。
またまた現在70代、80代の漫画家たちの話を聞くと原稿料未払いなんて普通にあったよって
話していました。
……奇妙な世界です。
私みたいな虎にもなれず、情熱だけが空回りしている無能な漫画家が立ち入る世界では
なかったのかもしれない、鬱になるのは必然だったのかもしれないと考えてもみたりしました。
後日、私は重い足を引きずりながら漫画家T氏に教えられた精神科の扉を開きました。
医師の判断は不安から来る軽いうつ病とのこと。
医師曰く
「不安には二種類しかなくて、ひとつは過去、あのときどうすればああすればよかった、
なぜあんなことになったのか……などの後悔。もうひとつは将来の不安、金がない、老後、病気……
などでです」
芥川龍之介の小説にそんなことが書かれていたことを思い出しました。太宰治だったかな……。
あのときあぁすればよかった、こうすればよかったと考えたところで結論は前に進むしかない、
というお話です。
私の功績?としては、文庫本出版して(まぐれで)10万部突破したのがいい思い出です。
そのあとは出しても、出しても初版3000冊にも増刷がかからない作品ばかり。
40年以上、出版業界の端っこで叫び続けていて一番感じたことは漫画家は描いたら営業。
とにかく営業することが一番大切で、次は自分の作品に共感してくれる編集者との出会いが
大切だということを感じました。
(まぐれで)10万部突破した文庫本も実は10社近く営業をかけ、声を掛けてくれたのは
20代の女性でした。
出会いこそが夢の続きを見させてくれる乗車券です。
出版社に持ち込みに行って
「あとで連絡します」
はウソです。
編集者は平気で嘘をつく。
約束を破る。
しかし漫画家を目指して営業していれば、どこかに自分にとって誠実さの塊のような、
親身になってアドバイスをしてくれる編集者は必ず、います。
そんなことに気が付くのに40年近くかかってしまいました。
……。
情けない。
鼻先にニンジンをぶら下げられると、つい、頑張ってしまう自分を殴りたい。
なんとかうつ病を克服したのはkindleの電子書籍、
KDP(kindleダイレクト・パブリッシング)でした。
いま私が10代、20代ならば、商業誌掲載の漫画家を目指しません。
私の記憶では2010年頃かな……、無料でkindleに漫画作品を置いてもらい、
読者に無料で読んでもらうシステムがネット上で出来たのです。
それだけでも無能な私は嬉しいのですが、なんと、昨今では無料で漫画作品をkindleに
上げておけばkindleから、その月、多く読者に読まれた人たちへの分配報酬(700万以上)が
あるのです。
いまでは有名な漫画家も多く参加しているので私の分配は少なくなくなってしまってしまいましたが、
はじめたばかりのときは誰もやらなかったようで、私みたいな無名落ちこぼれ漫画家の作品でも
無料なら読んでやるかという「毒者」がいて、月数十万の振り込みがありました。
うれしかったぁ。
そのおかげで元気が出ました。
まさに現金ですね。
100万、200万……、と売れればいいけど、お金よりも自分の時間を大切にしたい私としては、
この月数十万の振り込みが理想なのです。生活出来る程度で好きな漫画を思いっきり
描いていたかったのです。しかし漫画を描くのは漫画家としての集中力、体力が必要です。
60歳を過ぎた私にはきついものがあります。
いまはゆっくりゆっくり自分を騙しながら作品を描いています。
最近、SNS情報ですが、 kindleインディーズ無料漫画、月400人以上の方に
見てもらっている漫画家がトップということで月40万程度の振り込みがあったと書かれていました。
昨今では日本の出版社も無料で見られるサイトを運営しているところばかりです。
もともと価値のない私の漫画作品、無料で100人が読んでくれて、30人が楽しんで、
7人が深読みしてくれて、ひとりが笑顔になってくれたら、それだけで無料で作品をネットに
アップした喜びを満喫する私なのです。
黒澤明監督の言葉だったかな?、人の作品を貶すことは簡単だが、評価することは知識が必要だから、
なかなか出来ない。
好きな言葉です。
人間は幸せになるとか、不幸になるとはプログラムされていないので運命は自分で切り開くしかない。しかしとりあえず生きるようにはプログラムされているらしいです。
だから「生きる」のであります。
無名漫画家でも漫画家の顔をして……。
最近、身近で50代、60代での漫画家の孤独死の話をよく聞くのです。
出版社のパーティーや、漫画家の集まりで毎年1、2回しか会うことはありませんが、悲しいことです。とくに無名漫画家の孤独死の話は、私も孤独なので身につまされます。
こんな話もあります。
又聞きですが、徹夜明け、スタッフのひとりA氏、漫画家と他のスタッフと仕事を終え、
レストランへと向かう途中、横断歩道を渡り切ったところで、A氏がバタと路上に倒れ込み、
そのままな帰らぬ人となったと聞きました。実はこの話をまだ無理が利く30代はじめに、
とある編集者から聞いて心配性の私はとにかく無理をせず、寝たい時には寝るようにしたのです。
また又聞きだが、とある編集者、徹夜仕事を終え、出版社からタクシーに乗り込み自宅に帰る途中、
車内の中で亡くなっていたと編集者から聞きました。
……20代、30代、出版社のパーティーで人気漫画家たちが徹夜自慢をしていたのをたくさん目撃していましたが、たぶん徹夜は身体や脳によくないです(はずです)。
しかし漫画家の世界には労働基準法なんて存在しないだろうな、これから先も。
面白い話をひとつ、といっても身内にとっては悲しい(不謹慎な)話なのですが……、
何度も書くようにヘルプで漫画家の仕事部屋に入るときは100%、漫画家、スタッフは締め切りと
睡魔、やる気と眠気に襲われているとき。とにかく睡魔を追い払うために声を掛け合うことも
少なくありません。
とある漫画家の仕事場で死について語り合ったことがありました。
するとスタッフのひとりが、ぽつり
「うちの父親はソープランドで腹上死しました」
よく小説とか、成人漫画とかで描かれていたりしますが、実際にあった話を聞いたのははじめてでした。漫画家、スタッフ、私までが興味津々で、その後どんな風にことが運んだのか根掘り葉掘り
聞いてしまいました。
ソープランドから病院への移動、
ソープランドから自宅への連絡、
ソープ嬢に亡くなったときの様子を聞いたのかとか……、
あまり詳しくは書けませんが、さらにお葬式が大変だったらしいです。
死因を隠していたのだが、なぜか近所の人たちにバレていて、
まるで他人が土足のまま部屋に入り込んでくるような遠慮のないご近所からの質問攻めにあい、
家族はその対応に追われたとか……。
彼曰く、とにかく田舎というのはSNS以上にプライベートがないので、
とても怖いと話をしていたのが印象的でした。
締め切り間際でも誰も知らないような話がぶち込まれると元気になることは確かです。
……あと、漫画家、スタッフの身内、親戚に有名人、著名人などがいたりして、
そんな話で盛り上がることも少ないですがありました。
★ 遠い……。
六十路、元漫画家、現在フリーター、明日は孤独死の私は安アパートだが
交通の便がよいということで都心の真ん中に住んで、すでに33年以上。
10分も電車に揺られれば1日の乗降客数世界1(約350万人)の新宿です。
まさに100人以上の漫画家のお手伝い「ヘルプ」として走り回るには好都合な場所です。
しかし漫画家の中には都内だが、目の前は埼玉、千葉、神奈川で一軒家という漫画家も
少なくありません。いまでは人口減少、空き家問題などの理由から駅から10分以上は慣れた
昭和建築のマンション、一軒家なら格安、下手をすれば贈与税50万円程度で手に入る
(知人五十路無名漫画家、本業フリーターは現在、片田舎100坪の一軒家に住んでいる)
そうだが10年前でも都内というだけで4畳半共同便所でも月2、3万円はしていました。
いまではネット環境も整いつつあり片田舎でもリモートで編集者といくらでも打ち合わせができるし、
原稿もファイルにまとめて添付してネット送信すれば問題はありません。
2010年前後からWeb漫画家が活躍しはじめました。
しかし出版社、編集者たちが変われませんでした。
当時、とある編集者は嘆いていました。
「ネットどころじゃないよ。コンビニに雑誌を置いてもらえるか、
もらえないかで売れ行きが違うんだから。編集会議ではなくコンビニの営業の声で漫画の内容が
変えられちゃってんだから」
「電子書籍のことを理解している奴なんて出版社にはいないんだから。
漫画家さんの原稿を電子書籍販売させてもらっているけど、ほとんどの漫画家さんは売れない。
だから漫画家さんにSNSでPRしてもらうしかないのよ。本当は出版社が頭捻って売り方を
考えないといけないんだけどね……、オレ、基本、サラリーマンだからw」
ここ10年前ぐらいから出版社もネットに本腰を入れてきたようです
(出版社がコミック配信サービスを行っている会社の子会社になっているケースも少なくない)。
私事ですが、2010年前後からコミック配信会社が増え始め、関連会社の編集者から
「昔の原稿ありませんか?」
「知り合いの漫画家を紹介してくだい」
などとよく聞かれたものでした。
無学な素人考えですが、私はKDP(kindleダイレクト・パブリッシング)に
印税分配機能がつくようになったら、出版社は映画「her/世界でひとつの彼女」のように
歴史に残すべき重要な書籍だけを紙の書籍として出版するだけになるのではと思ってみたりしています。
話を戻します。
ヘルプに行った漫画家N氏の一軒家は新宿から2時間半(まさに小旅行)。
それも電車、バスを上手く乗り継いで2時間半であって、1本でも乗り遅れれば完璧なまでにホーム、
あるいはバス停でひとり、路傍の石の如くでありました。
約束をした人を待たせることが嫌いな(あるいは怖い)私の性格上、
目的地には2時間前に行くようにしているので遅刻という心配はありませんが、
それは目的地付近に本屋、喫茶店、コンビニなど時間をつぶせることがあればこそであります。
―降り立った場所は見渡す限り畑、数件の一軒家。
本当にここは都内かと疑うばかり。
仕事場への向かう細く長いアスファルトには干からびたミミズがへの字、ひの字、ゑの字と
死に絶えている。付近にはアパート、マンションもなく、こんなところではスタッフを
通わすにも大変であろうと想像する。
案の定、漫画家N氏はひとりで執筆していました。
仕事の入りは午後1時「お昼は食事をしてきてください」との話なので、
私は途中下車して駅前のベンチでコンビニで購入した賞味期限直前の握りこぶし大の
小さな半額ハンバーグを1個購入して食べました。
外出するとき、食事といえばほとんど、こんな感じです(貧である)。
いまならネットで在宅スタッフを雇うのでしょうが、当時の漫画家たちは仕事場にスタッフを通わせ、
締め切り前ともなれば2、3日仕事場で貫徹作業がほとんどでした。
「交通費、食事代、それに諸々……、考えるとスタッフなんて雇えないよ」
30代前半、月刊誌連載1本の漫画家は単行本が出版され、せめて10万部以上売れなければ
月30ページ前後の原稿料だけではまともな生活は出来ないと嘆いていました。
単行本も出版される予定もなく、描き上げた作品の原稿料は雑誌掲載されてたから
2か月後から3か月後。私の経験上、半年後なんて出版社もありました。
そんな漫画家が締め切りの前にひとりでは難しくなり私のようなヘルプを頼む。
もちろんこちらとしては2、3日の徹夜作業覚悟で漫画家の仕事場へお邪魔をする。
その間の朝昼晩、あるいは夜食は漫画家持ちです。
貧で蓄えのない漫画家の仕事場へ行くと三食食パン、あるいはインスタントラーメンなんことも
ありました。
―とにかく持ち金がないのである(ヘルプの場合、仕事が終われば、ほとんど場合、
その場でとっぱらいである)。
「夕食食べます?」
私は漫画家N氏の「夕食、食べます?」に思わず笑ってしまいました。
「ですよね、……ここらへん、食事するところがなくて、しかもコンビニ、スーパーは歩いて
30分かかるんですよ」
その当時、すでに60人以上は漫画家のヘルプをしていたので、その程度のことでは気にならず、
食パンだろうが、インスタントラーメンだろうが、ある程度は覚悟をしていたのです
(これぞヘルプの心意気、いや貧乏育ちはそこがいいのである)。
このメモ書きというか、駄文回想録も事細かく書記せば中には「あっ、あの人のことだ」なんて
勘ぐる輩がいたりして、私としては私の見たもの、聞いたものをお見せして、
興味のある方だけが楽しんでもらえればいいと思っております。まるで犯人探しでもするかのように、
あの漫画家だ、なんて模索されては困るのでぼんやりと書き残します。
―余談だが、私のよく知る、亡くなる直前まで連絡を取り合っていた漫画家の孤独死を某雑誌社が
面白可笑しく記事にしていたのを視認したとき、私は心に冷水をかけられた思いがしました。
彼のことをよく知る人、仲間、誰ひとり取材されていませんでした。
記事内容は名前のあるライターの結論ありきの妄想記事でした。
誰かひとりでも彼の仲間内を取材していれば彼の印象も変わっていたのかもしれないと思うと
残念でたまりません。
話を戻しますと、私がヘルプとして訪れたその漫画家N氏は坊主頭で細身、
さらには片田舎の仕事場であったため、私の第一印象は漫画家というよりも修行僧のように
思われました。
「買いだめしていると漫画に夢中になり過ぎて、腐らせるし、かといってインスタントは
食べ飽きたし……、とにかく漫画を描く以外は面倒なんですよね」
……漫画を描く以外は面倒。
確かに、ヘルプとして100人以上の漫画家の仕事部屋にお邪魔して感じていましたが、
ほとんどの漫画家は漫画を描いていれば幸せな人たちです。
中には1週間、いや1か月間入浴しなくても平気な人もいたし、
毎日の洗面、歯磨きもしない人もいました。対面で会話すると口臭が死んだ生魚のように臭く、
会話の内容が途中で真っ白になっていまうほど口臭のキツい漫画家もいました。
机の下にペットボトルを置き、おしっこは椅子に座ってしていた人もいました。
修行僧そうな漫画家N氏は空気が漏れたような小声で語るのでした。
「食事も面倒なんですよ」
「1日、2日食べなくても大丈夫ですか?」
「ボクはお腹、空いていないんですよ」
夕刻6時、私はかなりの空腹で会ったが、雇い主の漫画家N氏がなかなかGペンを置き、
食事にしようと言い出さない。
漫画家100人いれば100通りの食事の仕方がある。
夕刻になればスタッフに1000円札を持たせ、外食してきてという漫画家もいれば、
スタッフのひとりが食事を担当するメシスタントとなり漫画家、スタッフ、ヘルプの
食事を作る仕事部屋もある。
漫画家のデスクの横に近所の定食屋、蕎麦屋など多くの食事処のメニューが置かれていて
「今日はとんかつ屋にするか」と漫画家のひと言でお店が決められ、
その店のメニューを見て好きなものを注文すれば漫画家が出前を取ってくれる仕事部屋もありました。
―様々です。
初対面のヘルプとして雇われ、いきなり「腹減った、飯にしますか」なんて漫画家に言えることもなく、私は空腹を我慢しながら指定された背景を丸ペンで描いていました。
「食事にしますか?」
午後7時過ぎ、ようやく漫画家N氏が意思表示をしてくれました。お昼に握りこぶし大の
小さな半額ハンバーグを1個食べただけなので、私は灰色に沈むほど空腹でした。
人間、お腹が減ると不機嫌になるのです。
実のところ私は夕刻5時頃から無口になっていたのです。
今思えば大人げないと思うが、とにかく空腹で空腹で漫画家N氏との会話も生返事であったことは
確かです。そんな私の不機嫌さを感じ取ってくれたのでした(たぶん)。
「ここらへん食事するところがないので、駅前まで行きましょう」
といわれてふたりして歩くこと30分、私がお昼に降り立った駅に到着
(今考えると、N氏、少し歩くのが辛そうでした。漫画家は机の前に座りっぱなしの人が
多いので足が細く、60歳を過ぎると転倒しやすくなるようだ)。
駅前にある牛丼屋に入りました。
締め切りを気にしていた彼はメニューも見ずに牛丼の並を注文したので、
私も考えることもせず同じものを注文しました。やはり締め切りが気になるようで彼は
かきこむように食していました。私もつられて口の中に放り込みました。
そしてまたふたりして30分ほどトボトボと歩いて仕事部屋に戻りました。
彼は机の前に座るなり信じられないひと言をつぶやくのでありました。
「食事したら眠たくなっちゃった」
徹夜になると夜食が出る、作る仕事場もあるのですが、夜食を食べた瞬間、
一気に作業の手が止まることは少なくありません。
一口食をした瞬間、熟睡してしまう漫画家、スタッフを何人も、そう何人も見たことがあります。
また余談ですが、ある漫画家のところでは、徹夜明けの仕事終わり、
漫画家、スタッフ3人とヘルプの私、合計5人でレストランへ行ったとき、
食事をして10分程度で漫画家、スタッフ全員がその場でごはんを口に入れたまま
熟睡してしまった現場を目撃したときは衝撃でした。まだ余力のあったヘルプの私は
彼らを起こすこともせず、熟睡して動かなくなった彼らを横目に自分の食事だけを
ゆっくり食しました。
今回、ヘルプに訪れた漫画家N氏もそうだったのです。
駅前の牛丼屋で腹を満たした彼はその後、どうなったかといいますと、
私に30分したら起こしてくださいといって隣の部屋の寝室で仮眠。
しかし案の定、30分後、声を掛けても身体を揺り起こしても起きてこない。
さすがに他人事ながら締め切りがチラついた私は布団から漫画家N氏を引きずりだし机の前に
連れて行くが、これまた椅子に座った途端、爆睡。
締め切り前でこんなに爆睡してしまう漫画家をはじめて見ました。大抵の漫画家は仮眠した後は
スクッと起き上がり机に向かうものです。
声を掛けても、揺り叩いても、むにむにか細い返事をするだけでまったく起きてこない。
気が付けば1時間経過。
机の前で波に揺られる海藻のごときゆらゆら身体を揺らす漫画家N氏。
しかし習性とは恐ろしいものです。
「締め切り、締め切り」
爆睡しながら、寝言で「締め切り」と呟くのです。漫画を描く以外は面倒、
すべての無責任な漫画家でも唯一、締め切りを守るということで、社会に対し誠実さ、
仕事に対する責任感を示すことが出来るのだ。それがプロの漫画家としてプロとたらしめている
「締め切り」なのです。
「締め切り」
私の「締め切り」という言葉に身体をビクッとさせ、顔を左右に振り、目の前の私を見つめ、
はっとした彼。
「あ、あ、あ……」
声にならない声をあげ、デスクの上の腕時計を見た。
「明日の朝9時頃までアップしてないとヤバいかも……」
といいながらもほんの数分すると顔は完全に天井を向き、両手はだらりと下がり
熟睡してしまうのでした。
5、6日ほぼ徹夜で描き続け、睡魔に襲われるたびに寝覚ましドリンク、洗面所に行って顔を洗う、
夜風を浴び深呼吸……、判断力を失った漫画家N氏は行き場も失い、動かざること肉片のごとし。
駅まで1時間ばかりの運動(散歩)、1杯の牛丼がいけなかったのか漫画家N氏は原稿を
仕上げることなく夢の中に沈んでいってしまったのです。
その後、担当編集者から数回、電話が来るたびに私が起こすのですが、もはや生返事。
そして担当編集者から禁断のひと言が……。
「残りのページ、N氏の代わりにお願いしますよ」
担当編集者からのご命令でペン入れが入っていない6ページ程度を私が入れ、
仕上げまでしてしまったのです。
しかも漫画家N氏を寝かせたまま、完成原稿を私が出版社に届けに行くハメになってしまいました。
気の利いた編集者で、私から口にすることもなく自身ののポケットマネーから
交通費、ヘルプ代をその場でいただきました。
後日、漫画家N氏からお礼の電話と、ヘルプ代を口座に振り込んでくれました
(編集者に戴いたと言ったのですが、振り込んでいただきました)。
それにしてもあんなに爆睡してしまう締め切り間近の漫画家を見たのは初めてでした。
よほど現実逃避したかったのかもしれません。
締め切り直前に仕事場から逃げだしてしまう漫画家もいるのですから、人間、寝不足、ストレス
(締め切り)は本当に精神と肉体によくないと思われます。漫画家が早死にする理由は
わからなくもありません。
実際、私は何度もそんな場景を何度も目にしてきました。
とある漫画家は、突然、目の前の原稿用紙を綺麗に折りたたみ、机の引き出しに仕舞いこみ
「原稿がない、原稿がない」と騒ぎだしました。泊まり掛けで傍にいた編集者は
「現実逃避の表れだね」と笑っていました。
また締め切り間近、ふらりと(10階)マイションのバルコニーに出て脱糞してしまった
漫画家もいました。慌ててスタッフと私が止めたのですが、すでに目が虚ろ、心ここにあらず。
いまにも手すりに手をかけそうな危うさがあったのでスタッフと私で部屋に連れ戻したのですが、
その途中引きずられながら、また脱糞……。もう締め切りどころではなくなり、
部屋中臭いわ、汚物は床を汚すし、スタッフと私は大パニック状態。
そんな私たちをしり目に漫画家はフルチンのまま熟睡というより、むしろ仮死状態。
……締め切り直前、担当編集者が来るまで地獄でした。
こんな漫画家もいました。
すでに4日間、机の前に座りっぱなし。
編集者からの再々原稿催促の電話。
ある瞬間、身体を大きくビクつかせたかと思ったら、白目を剥き、身体を硬直させ、
ゆるりと椅子から滑り落ち、あきらかに小刻みに痙攣しているではありませんか……。
もうスタッフ、私は大パニックです。
慌てて救急車に連絡し、そして担当編集者にも連絡。
独身であった漫画家はスタッフが救急車に同乗し、私ひとりを仕事場に残し行ってしまいました。
仕事場にまったくの他人の私がひとりぽつり。
まるで1年に1度しか会わないような親戚の家にお邪魔したような居心地の悪さを感じました。
それからスタッフから断続的に連絡は入ってくるのですが、指定されてもいない原稿を
独自で判断し仕上げていっていいものか、どうか……。
迷いましたが、することもないので、とりあえず自己判断んで原稿の仕上げをしていました。
6時間以上して担当編集者とスタッフに連れられこられた漫画家。
腕やら胸やらに電極を付けられていました。まるで健康診断の途中で逃げ出してきた患者です。
「すみませんでした」
ひと言、私に告げ、なにもなかったように椅子に座り、Gペンを握り、描きかけの原稿を
描き始めた漫画家。
「印刷所に待ってもらっているから夕方5時まで頑張りましょう」
編集者はまるで空っぽの人間容器のように漫画家の隣に立ち、冷水を浴びせるかのように
激励のひと言をかけていました。
恐るべし漫画業界。
まだまだ締め切り直前、パニック状態に陥った漫画家、スタッフの話はあるのですが、
今回はこのへんで一区切りです。
★本当に怖かった漫画家……。
その昔、猫を殺す様子をネットに上げていた漫画家がいましたが、私の経験上、
恐ろしかったヘルプでのお話をしましょう。
―と、その前に少しその前に不気味だった漫画家。
昼間でもカーテンを閉め切ってデスクライトだけで仕事したほうが集中力が沸いてくるという
漫画家が少数ですがいました。
某漫画家はデスクライトの灯りだけでラジオの音も、音楽も流さない仕事部屋でした。
1LDKという狭い仕事場でトイレに入ればおしっこやオナラの音は聞こえてくるし、
肛門に当たるウォシュレットの水圧が激しく、長く、ときには濁音だらけの音が聞こえてきたりして
原稿の仕上げよりもトイレ時間の方が緊張しました。反対に部屋を真っ暗にして
一日中ハードロックを大音量でかけていた漫画家の仕事部屋もありました。
メタリカ、スコーピオンズ、ラムシュタインなどメロディーがあるバンドは仕事がはかどるのですが、
破壊と絶叫と爆音だけのバンドは生理的に受け付けず、思わず
「エアロスミスとか、レッチリとかも聞くんですか?」
と聞いてしまいました。
さて本題です。
恐ろしかった漫画家。
お盆休み前、ヘルプに行ったときの話です。漫画家にしては珍しい集合団地の
2LDKを仕事場兼住居にしていた40代後半の漫画家W氏。
やはり昼間だというのにカーテンは閉めきっていて、デスクライトだけで仕事をしていました。
漫画家W氏はすまないみたいなことを言っていましたが、他にも部屋を真っ暗にして
仕事をしている漫画家はいますよと告げると、安心したような笑顔を見せてくれました。
仕事部屋には一般的な漫画家と同じAMラジオが流れていました。
ラジオの内容でときどきニヤニヤしてもいました。
仕事をはじめて2、3時間ぐらいして私はトイレをお借りしました。
「洗面所の奥です、わかりますよね」
漫画家W氏は顔を上げにこやかに答えてくれました。
ヘルプに入っても、たとえ興味のある漫画家だとしても自分から漫画家のプライベート、
ましてや家族構成などは聞くことはありません。基本ヘルプは締め切り厳守で目の前の
原稿を素早く仕上げ、お金をいただいたらお礼を一言言って立ち去るだけです。
玄関先の靴、台所、洗面所などを見た限りでは生活感もなく、気ままな独身か、
あるいはここは仕事場だけなのか、近所に実家でもあるのかなんて妄想したりしながら
トイレのドアを開けました。
「っ!」
声は出なかったが、少し身構えてしまいました。
団地には似つかない全面真っ赤な壁にワインカラーの便器、そして一列に壁に
ぶら下げられた色とりどりなお守りの数々……。
可愛らしいフィギアが数個置かれていた漫画家のトイレは見たことがあるのですが、
20個近くものお守りが重なるようにぶら下げているトイレに入ったのは初めてでした。
トイレから出るなり
「お守りの数に驚きました」
って言ったら漫画家W氏は
「そこで妻が流産して、子供と一緒に亡くなっているんです。ボクが帰宅するのが遅くて……、
出血多量のショック死でした」
まるで平坦を歩く旅人のように私に語ってくるのでした。
あまりにも漫画家らしい?、作り話のような話に思わず口から
「また~、また~」
なんて言葉が飛び出しそうでしたが、真昼間、カーテンを閉め切ってデスクライトだけで
漫画をコツコツと描き続ける漫画家W氏を前に私は困惑し、思わず
「すみません」
と小さな声で呟き頭を下げました。
「大丈夫ですよ、もう10年も前の話ですから」
そう言うと、そのあとは無駄話も語らなくなってしまいました。
私もヘルプ特有の黙り屋に徹し、デスクライトの明かりの下、粛々と原稿を仕上げていきました。
午前10時頃、30代前半の担当編集者が原稿を受け取りに仕事場にやってきました。
完成原稿の枚数を確認し、10分ほどで仕事場を出ていってしまいました。
こんなに不愛想な編集者も珍しいな感じました。それともよほど急いでいたのか……。
私は漫画家W氏から封筒に入った今回のヘルプ代1万円を受け取ると、身支度をしはじめました。
「あの、もしよかったら」
仕事部屋から玄関に向かう途中、私の背中越しに声を掛けてきた漫画家W氏。
「お願いがあるんだけど、いいかな」
「はい……」
「うちのやつ(妻)ね、10代の頃、〇〇アイドルをやっていて自分で作った
プロマイドがたくさんあるのよ。……もらってくれないかな。頼むよ」
私が少し困惑した顔をすると
「これでもね、秋葉原の劇場では、それなりに太客がいて人気だったんですよ」
「プロマイドの裏に彼女のHPのアドレスが書かれているから、1度でいいから見てやってよ」
漫画家W氏が「見てよ、見てよ」と呪文のように哀願するので憐憫な面持ちで
プロマイドの表情をチラ見して、私はそっとショルダーバックに仕舞いこみ、
一礼をして仕事場をあとにしました。
漫画家W氏の自宅兼仕事場がある団地内を出たのは、担当編集者が原稿を取りに来てすぐだったと
思うので、午前11時前と思います。1日中、カーテンを閉め切ってデイライトだけで
原稿を見つめていたので外に出たとき、まるで洞穴からゆたりゆたりと這い出した
獣のような気分でした。匂いに誘われるまま駅近のほぼ満席だった定食屋に入り、
昼飯は餃子ライスを口にしました。
ここまでの道すがら、漫画家W氏から無理矢理手渡しされた奥さんの
10代の頃のプロマイドが凄く気になっていました。カウンター席の私は背後を
少し気にしてバッグの中でプロマイドを見ました。太ももと肩をあらわにした派手な衣装の
10代の奥さんが目線をこちらに向け、微笑んでいました。裏には長ったらしいHPの
アドレスが手書きで書かれていました。
……よくあるアイドル写真でした。
徹夜明けということもあり、早く自宅アパートに帰り布団に包まりたかったので、
私はお冷をお代わりし、イッキに飲み干し定食屋を出ました。
平日の午後1時を少し回ったところということもあり山手線の電車内は空いていました。
私はロングシートの端にゆっくりと腰を掛けショルダーバッグを抱え込み、すぐに目を閉じました。
乗り込んだ駅から6駅目が私の降りる駅ですが、なんと気が付いたら5駅先を通過していました。
明日、仕事があるわけもない自由人な漫画家なので、急ぐこともないと、
このまま山手線1周しちゃえと決め、そんまま電車に揺られることにしました。
―がこれがイケなかったのです。
とにかく徹夜明けで激疲れしていたようで、目をつぶり電車に揺られると爆睡してしまうのです。
気が付けば3駅手前だ、4駅先だ……、なんだかんだで午前1時頃に電車に乗って、
すでに6時間。しかもそのとき見た夢が怖すぎて電車内で寝汗べっとり。
近くにいた60代の男性が
「あんた、痙攣していたけど大丈夫か?」
と声を掛けてきてくれた。
私は急に恥ずかしくなり、駅名を確認することもなくいきなり降りてしまいました。
……秋葉原でした。
「これでもね、秋葉原の劇場では、それなりに太客がいて人気だったんですよ」
すっと漫画家W氏の言った言葉を思い出し、私は思わず
「呼ばれた」
と呟いていてしまいました。
……時計を見たら11:11だった、いいことあるぞみたいな、この手の偶然を私は信じないのですが、
徹夜明けでさすがに疲れていたのか、臆病になっていたのか、私はひとつ軽く頬を叩き、
正気を還らせ、自宅へと急ぎました。
駅からアパートまでの道すがら、立ち寄ったスーパ―で購入してきた半額菓子パンを2個、
部屋に入り腰を下ろすと同時に口に入れ、1個を明日の朝食にと手の届く棚の上に置きました。
この頃になると、私はすっきり冷静さを取り戻し、とにかく気にしないことを決め込みました。
そして半額菓子パンを食べた後、ごろりと横になり、テレビ番組をカチカチ変えながら見たり、
見なかったり、風呂に入ったりして、ごろりと万年床で横になり、読みかけの小説を開いていたら、
疲れがどっと出たのか、そのまま朝まで寝てしまいました。
翌日、漫画家W氏から無理矢理手渡しされた若き日の奥さんのプロマイドを、
すでに読んでしまっていた小説10冊の中の1冊に挟み、近所の古本屋に売りに行ってしまいました。
とにかく私は教わりました。
ファンでもない、身内でもない、知人でもない人の写真は決して受け取ってはならない。
★病気……。
正岡子規をはじめ国木田独歩、樋口一葉、梶井基次郎、宮沢賢治、中原中也、織田作之助などが
若くして結核で亡くなっています。
昨今の漫画家、ヘルプで知り合った漫画家、スタッフ、さらには出版社主催のパーティーで
知り合った50過ぎの漫画家たちの悩みといえば糖尿病と痛風です。
とにかく漫画家は机の前にしがみついていなければお金にはなりません。
運動不足です、人気が出なければ掲載されません、原稿料が貰えません、
毎日毎晩眠れない夜が続きます、安酒の量が増えるのです。
インシュリン注射を打ちながら漫画を描いていた漫画家がいました。
残念ながら、いまは実家に戻り、親元で静養しているそうです。
またある漫画家は、ある日、見上げた空に霞が見え、ビルを見ても、通行人を見ても、
もやもやした霧が見える。……?、瞳に異変を感じた彼は病院へ行ってみたら糖尿病と判断されたが、
ときすでに遅く、治療の甲斐もなく、数ヶ月後には自宅アパートで亡くなっていたそうです。
またある漫画家は最近、どうも疲れやすく、会話するにも言葉が出てこないなと思っていたら、
ある日、スクッと起き上がった瞬間、後ろ向きに倒れ、帰らぬ人となってしまったそうです。
人ってすっといなくなってしまうのですね。
昨今、出版社側もあまり漫画家に無理をさせないようにかなり配慮していると聞きます。
現在60代、70代の漫画家たちから連載当時の話を聞けば、締め切り間近、
鬼の形相をした編集者が「締め切り」という魔除け札を握り、毎晩、夢の中に出てくるほど
怖かったと語っています。
それほど毎週、締め切り前は心は枯れ、思考は腐り、枕花一倫口に咥え、
漫画家としての責任感だけを背負いし、真っ白な原稿を回すように、
回すように無心に楽しくもなくGペンを走らせていたそうです。
与謝野晶子がはじめてオリンピック会場に足を運んだときにスポーツに順位をつけることに
猛反対したそうです。順位をつければ、必ず、不正する人が出てくる。
スポーツは身体を動かす楽しみを教えるだけで充分だという考えから、
与謝野晶子は自分が日本で初めて男女共学の学校を作った時にスポーツはダンスしか
取り入れなかったそうです。
現在60代、70代の漫画家たちもしみじみ語ります。
「最初は漫画を描くのが好きだったんだ、楽しかったんだ。
貧乏でも生活出来れば十分だったんだ。ところが、出版社側が漫画は売れる、
どう利用すれば売れるのかと理解した瞬間、漫画家の息の根は止められてしまったのかもしれない」
「いま私自身が10代、20代だったら、絶対に商業誌で生計建てるような漫画家を目指さないね。
週の半分バイトして、週の半分好きな漫画を描いているよ」
60代、70代の漫画家たちは、いまの同人誌、kindle、booth……、
出版社に関わらない漫画環境がうらやましいと語っていました。
そして昨今、今も現役バリバリ60代後半の漫画家T氏が言っていたのですが
「最近の編集者、漫画家の身体のこと心配していて気持ち悪かったよ、無理しないでくださいねだって」
「昔なんか締め切り間近、30分だけ仮眠させて下さいなんていったら、
一生寝かせてやろうかとかなんて、平気で笑えないジョーク飛ばしていたんだぜ」
―40年以上第一線を走り続けてきた漫画家がいうのですから、
本当に漫画編集部は変わりつつあるのかもしれません。
確かに私もヘルプの経験上、ここ10年、編集者は漫画家に優しくなったのかもしれません。
締め切り間近、原稿を取りに来たのに漫画家のデスクの上にある雪山の如くまっ白い原稿の数を
見た瞬間、ブチ切れた編集者を何人見たことか……。
漫画家の耳元で「殺すぞ」と小声でつぶやいた編集者、
ベランダに出て、ビル群に向かって漫画家の名前を口にし「〇〇のバカ野郎―っ」で大声で
叫んだ編集者、
すぐに電話口に編集長を出し、代わりに漫画家を叱ってもらった編集者、
締め切り当日、完成原稿の枚数を見た瞬間、差し入れで持ってきた大量のサンドイッチ、ドリンクを
無言のままひとりで食べはじめた編集者……、
あげればきりがないが、読者に面白い漫画を届けたいのは編集者も漫画家も同じはず。
とにかく私がヘルプに入る締め切り間近は激怒する編集者、疲れ切っている漫画家、スタッフ。
まさに天魔波旬蠢く憐憫たる死臭漂う仕事部屋に洞穴のような眼の奥に漫画への情熱と不機嫌さを
走らせる人々。これを修羅場と言わずしてなんというのでしょう。
そんな人間の愚かさ、滑稽さ、愚直さを直視し、ときには思索してきたヘルプの私は
退行性変性を続ける連載漫画家たちの超人ぶりには驚き、呆れ、尊敬の念しかありません。
それでいて原稿料が安く、人気がなければ極貧、……40年前、20代の頃にヘルプで知り合った
スタッフのひとりは、すぐに夢に見切りをつけ、あまり興味をもない会社勤め人となりました。
情熱、好奇心を殺しながら泥道をトボトボと歩いてきた結果、家族を持て、退職金、年金を
いただきながら、いまでは悠々自適に好きだった趣味を楽しんでいるとのこと。
片や夢を追い続け極貧ながら売れない漫画を描き続け、50代という若さで孤独死という結末を
迎えることになった漫画家もいます。
悲憤慷慨。
40年以上漫画業界の片隅で声を上げていた無名漫画家の私としては今思えばであるが、
(売れる売れないが正義)商業誌に掲載目指したのは無理をしていたのかなと思います。
才能がないのだから、若くしてプロを諦め、仕事をしながら、余暇で好きな漫画を楽しんで
描きたかったかなと思うこともあったりします。
思った以上に長い屁が出ても誰も笑わぬ開静時、ひとり想起するのでありました。
★若くして傲慢……。
漫画界では20代にして億万長者となる漫画家もいます。昨今ではキャラクター商品の
売り上げが大きいともいえます。
金銭的余裕がありスタッフがしっかりしている仕事部屋には、まずヘルプの仕事依頼は来ません。
連載をはじめたばかりの漫画家、スタッフの急病でオロオロする漫画家、
急の増ページでてんてこ舞いの漫画家のヘルプに行くことが多かったと思います。
ヘルプに行って半年後、1年後には単行本が売れまくり、まるで超高速エレベーターに
搭乗しているかのように一夜にして人気作家になった漫画家を何人見てきたことか……。
私見ではありますが、売れる漫画家の特徴として、とにかく漫画を描くことが「好き」という
オーラが凄いです。
真っ白な原稿用紙を前に冷然、厳然、寂然とGペンを握る孤独の高み、ゆっくりとゆっくりと
狂気が原稿の上を力強く疾走するところを私は幾度となく目撃しました。
その集中力や14歳少年のひとり上手の如し。
そのたびに私はこれが無名漫画家と人気漫画家の差かと思ったのでありました。
しかし極まれに漫画描きはそれほど「好き」ではないが、要領のいい、運のいい漫画家も
いることはいます。
オリジナル漫画を描きたいのに運悪く出版社の都合で読み切りという形で原作付きの漫画を
描かざる負えない漫画家のヘルプに行ったときの話です。
「こんな設定ないわ」
「こんなに薄っぺらいセリフで女が恋心沸くか」
……なんて薄ら笑いを浮かべながら私に話しかけていました。
仕事中、ずっと原作に対しての不快と絶望を縷々と語っていた漫画家。
しかし読み切りが思わぬ人気となり、2か月後には連載作品となり翌年には単行本まで
発売される運びとなり、単行本になった途端、爆売れ。
どこぞの雑誌コメントに
「原作を手にした瞬間、ヒットすると思っていました」
みたいなことが書かれていて苦笑い(まぁ、ヘルプごときに本心は言わないといえば
それまでだが……)。いまでは乗りに乗りまくって描いています(素晴らしい)。
仕事場へ行ったときはオリジナル作品への思いを熱く語っていたのは私の幻想というこに
しておきましょう。
まさに原作者との相性がよかったのか、漫画家の才能が花開いた瞬間であります。
商業誌、売れれば官軍である。
愚痴を言いながらも行動を起こす。
描くのである。
これが無名漫画家、スタッフには出来ないのです。
編集者に「キャラが弱い」「テーマが見えない」などと明々白々たる手垢のついた決まり言葉で
作品を評価されると、まず「言い訳」を考え、出来ない理由を考えるのです。
私見であるが人気漫画家は人の話を謙虚に聞けるのです。
そして解決策を考え、出来ることをするのです。
行動するのです。
無名漫画家、スタッフ、そして私も怖いのです。
人の話が謙虚に聞けないのは臆病で(くだらない)プライドが高いのです。
アルチュール・ランボーではないが気むずかしさが原因で私は一生をふいにしたのです。
私の場合、貧であるため、どうしても貧の話にアンテナがいき、貧の漫画家、
スタッフに興味が沸くのです。
★評論家……。
漫画評論家なる職業があるのです。
私はこの手の人々の書籍をまず読んだことがないので知らないのです。
映画も試写会を好み、予備知識なしで鑑賞するのが好きなのです。
プロデューサー、監督、俳優の名前で映画館に足を運ぶことはあるがテレビCM、
評論などを参考にして映画館に足を運ぶことはまずありません。
評論家の話になると私は真っ先に坂口安吾の「感想屋の生まれですために」、
さらには太宰治の「ダス・ゲマイネ」比較根性の愚劣を思い出します。
ヘルプに行くとスタッフの中にもの凄く漫画好きがいたりします。
ある特定の漫画家ひとりを神のように崇め、少しでもその漫画家を悲観するような言葉を言えば
金切り声を上げ、攻撃してくるスタッフが少なからずいます。だから私のように漫画を
描くことは好きだが、あまり漫画を読んでこなかった者は本当に
恐ろしい思いをすることもありました。
漫画家の仕事場なので、当然、流行の漫画作品の話をすることも少なくありません。
ソクラテスではないが、他人を批判することが一番簡単なのです。思考をしないのでいいので
楽しいのです。
他人の作品を褒めるには知識と教養、あるいは体験が必要だから決して簡単ではないのです。
こんなきなスタッフもいました。
―書店、コンビニに並ぶ漫画雑誌ほぼ購読しているというスタッフM氏のアパートに
お邪魔したことがあります。
最寄駅から徒歩20分以上という超不便な田舎町に昭和建築、6畳平屋の木造アパートがぽつん。
アパートの前はトラックがひっきりなしに駆け抜けていく、所々にファミリーレストランはあるが、
日常に大切なコンビニ、スーパーがない。
「車を持っていないので、完全に孤島暮らしですわ」
M氏はアパート生活の不便さを笑う。しかし本当の不便さは彼自身にあったのです。
玄関先からすでに漫画雑誌が積み上げられ小山状態。鼻先にうんこでもぶつけられたような異臭。
玄関先から狭い部屋の奥まで雑誌、雑誌、また雑誌なのである。
まさにゴミ屋敷ならぬ雑誌の墓場状態。
玄関先には住んでいる人の臭いが籠るというが、ここは人の臭いではなくゴミ捨て場の
臭いといった方が正解なのかもしれない。本来なら窓があり日差しが入ってくるはずなのに
高く積まれた雑誌のせいで窓さえも見えない。かろうじて水道の蛇口が見えるので、
あのあたりが台所であろうと察しはつくが、コンロなどは雑誌に隠れて見えない。
高く積み上げられた雑誌の数は6畳の狭い空間に、まるでゴミ置き場のようにこんもりと
小山を形成している。少しの振動で崩れ落ちるような危なっかしさがある。
しかも雑誌特有とでもいうべき紙が、水が腐敗したような異臭に一向に私の鼻が慣れない。
部屋の奥を覗こうと玄関口に足を踏み入れ、部屋の奥を覗こうとすると、やはり臭い。
いつまでも臭い。いまだ鼻先にうんこを塗りたくられたようだ。この部屋のどこに逃げても臭い。
結局、私たちは部屋に入らずに玄関先で立ち話をすることになりました。
「気にするなって、何年か前に来た知人も、部屋を見るなり『無理』って叫んで、
そのまま帰っていったよ」
M氏は笑っていました。
「凄い雑誌の数だけど廃品回収には出さないの?」
と私が尋ねれば、彼は即答
「不規則なスタッフ生活をやっていたらゴミ指定の時間には出せないんだ。
近所の人たちのチェックが厳しいのよ。昔ね、1度、夜中に帰ってきてこっそりゴミと
雑誌の束をまとめて出したら朝方、玄関先にゴミと雑誌の束がそのまま置かれていてね、
それ以来、雑誌は部屋の中、ゴミはこまめにコンビニのゴミ箱に……」
「あの部屋だと自分の作品を描く場所がないじゃん」
「スタッフをやっていたら自分の作品なんて描けないよ。
毎日12時間労働で締め切り直前週2徹夜で、休日は週イチだけど徹夜帰りなので寝て、
洗濯して、風呂行って、買ってきた漫画雑誌を読んで
1日終了。また漫画家の仕事場に行っての繰り返し」
「そんな生活20年も続けているの」
「22年、今年で23年目」
―もしかしたら彼は私だったのかもしれないと思いました。
反面、漫画家根性がなくて漫画家のスタッフを2か月でやめたことに安堵したということも
正直な気持ちです。
彼のような人を見るとやはりスタッフは漫画家に一番遠い存在なのだと思ってしまうのでした。
自由奔放に生きている様で不自由さに束縛され、孤独を楽しんでいるはずが
孤独に怯えている彼らのような人たちに接すれば心の深淵を覗き込むほど私自身怪物にはなれないが、
ぼんやりとした影、臭いを感じるのです。
まるで私を見る様で10年後、20年後の孤独死が過る。
絵画、音楽、舞台、映画などに比べれば、まだまだ歴史の浅い日本独自の漫画文化、
振り向けば死屍累々たる鼻先に夢をぶら下げられ走り続けた虎にもなれない
漫画家、スタッフたち。
我もそのひとりなり。
―私は60歳を過ぎ、他人と比べない、なるべく関わらない生活を送っている。
……漫画雑誌に埋もれていた彼は今、どうしているのだろうか?
★漫画家とスタッフ……。
漫画家とスタッフの関係は芸人や落語家などの師匠と弟子のような関係……とは違うと考えています。
事務所を構えるほどの漫画家のスタッフと、ぽっとでの漫画家のスタッフでは天と地ほどの違いが
あります。事務所を構えるほどの漫画家の仕事場ではお金と人と時間の余裕があるから
育ててもらえる(可能性もあります)。
ぽっとでの漫画家の仕事場ではお金と人と時間もないから、漫画のノウハウを基礎から学ぶことは
まず出来ない。いきなり即戦力を求められます。
しかもぽっとでの漫画家は人気がなければ、すぐにスタッフは解散です。
雇用保険の手続きをしていないし、退職金も出ない(ところが多い)。
出来れば本当に漫画家としてやっていきたいのなら、なるべく事務所を構えるほどの
漫画家の仕事場がいいと思う(私見)。
事務所を構えるほどの漫画家の仕事場には多くの編集者がやってきては常に
ムック本、雑誌、辞典などのイラスト、カット、漫画、挿絵などが描ける人を
探しているということもあるからなのです。私の知る限りでは漫画家としてヒット作はないが、
教科書や雑誌、地方紙などのイラスト、カットなどを描き続け一軒家まで建て、
現在も裕福に生活している漫画家がいます。
また出版社の編集者はテレビ局との繋がりもあり、著作権の厳しいテレビ局では
タレントやアイドルの似顔絵などの仕事がひっきりなしに来るということもあります。
ただし、私も経験があるのですが24時間、いつ発注が来るかわからないので常に
自宅待機出来ている人向きだと思われます。しかし原稿料が雑誌の10倍だから
深夜3時に発注が来てもムキッと布団から飛び起き、机の前に座れると思います。
金の力は恐ろしい。
★デジタル環境……。
デジタル環境のおかげでスタッフを自分の仕事場で働かせる漫画家も少なくっているようです。
データのやり取りで顔を合わせずに仕上げを頼む漫画家も増えています。
お弟子さんのようなアシスタント関係ではなく、まさに企業、会社と個人との関係。
とある編集者の話では本当に漫画家の成り手がいないって嘆いていました。
10代、学生時代に1回思い出としてデビュー出来たらそれで満足、
出来なければ同人誌で楽しみたい、あとは普通に就職しますって人も少なくないらしい。
いまのように多くの情報に触れるたびに漫画家の原稿料の安さ、
24時間労働が当たり前の仕事環境、電子書籍運営の中間搾取状況
(安売り、値下げサービスなど)……が話題になるSNS。
絵画、音楽、舞台などに比べると圧倒的に歴史が浅い漫画業界。
これからまだまだ変化し続けると思うけど私の経験上、漫画家の原稿料は安い
(外野から売れろ!とか声が聞こえてきそうですが……)。
すそ野が広くない文化は滅びるしかないのかとふと思う。
★信じられないこと……。
「明日の昼までに印刷所に(完成原稿)を持っていかないと落ちるぞ」
漫画家H氏が握っている電話口から編集者の怒号が聞こえました。
ヘルプに入って2日目。
1日だけのヘルプで入って、原稿が上がらず2日目になる、よくあることです。
スタッフたち2名はすでに1週間仕事場に泊まり込み(入浴なし)。
漫画家H氏に聞けば明日の早朝6時には原稿を取りに来るそうだ。
今から約9時間後、残り原稿は26枚、そのうち真っ白が9枚。
漫画家H氏もスタッフも(2000年当時では珍しい)長髪、髭面というよりも明らかに
床屋に行く時間がないというのが正解だろうというほど伸ばしっぱなしでした。
週刊誌と月刊誌がともに増ページ、しかも週刊誌は表紙カラーと重なってハードな週と
なってしまったそうです。
漫画家H氏はやる気と眠気のしのぎ合いで睡魔が襲うたびに頭から冷水を浴びに
バスルームへと走る。
外は東京では珍しい雪景色。
部屋の中が暖かくなると眠くなるということで暖房はなし。
一歩間違えれば凍死するかと思われるほど寒い。
スタッフ2名も奥歯をガタガタ言わせながら仕上げをしている。
「寒い……」
熱湯で入れたブラックコーヒーが数分で冷めてしまう。
漫画家H氏のお気に入りのメタリカが大音響で流れる。
しかしいまはメタル・マスターが子守歌に聞こえる。
締め切り最終日に参加したヘルプの私はどうにか人間らしさを保っていられるが、
悍ましいのが毎週、毎週締め切り地獄に堕ちているスタッフだ。顔色は土色、目は焦点が定まらず、
唇は青紫、呼吸をしているのが信じられないほどの虚脱感。
言葉を忘れた生きた屍が指先だけ動かしている……。
ピンポーン
朝方、仕事部屋の呼び鈴が鳴り担当編集者が差し入れを持って駆け込んできた。
そしてまったく出来上がっていない原稿を目の当たりにしてブチ切れた。
「今からじゃ間に合わないんだよ、外にタクシー待たせてあるんだよ、どうなってんだよ……」
漫画家H氏の頭の上で編集者が怒鳴り散らす。
H氏は編集者を無視するかのように黙々と原稿にGパンを走らせる。
編集者が自分の携帯電話を取り出し編集部に電話
「〇〇さん、今週、堕ちますので、差し替えお願いします……」
「昼までには」
今まで沈黙していた漫画家H氏が口を開いた。
「みんな、お昼までには上げような」
そういって、また原稿にGペンを走らせる漫画家H氏。
すると編集者が漫画家H氏の耳元で
「ちょっと表に来て」
……漫画家H氏と編集者が仕事部屋を出るとスタッフと私は顔を見合わせ、
椅子の上で大きく背伸びをした。
「こんなことよくあるの?」
私がスタッフに尋ねると
「毎週、こんな感じです」
と苦笑い。
漫画家H氏は身長160センチ前後の小太り、編集者は身長170センチ前後の
肩幅が広いスポーツマンタイプ。まさかね……、と漫画家特有の妄想が浮かぶ。
30分ぐらいしてからだろうか、漫画家H氏と編集者が笑顔で仕事場に戻ってきた。
スタッフ、そしてヘルプの私は漫画家H氏を見て一気に目が覚めた。漫画家H氏はなんと
丸坊主だったのです(しかも床屋に行ってきたかのように綺麗に五分刈り)。
頭を撫でながら机の前に座った。
「まぁ、そういうことだから」
漫画家H氏は何度となく頭を撫でながら原稿にGペンを走らせる。編集者は部屋の隅に
立てかけてあった折りたたみ椅子を無言のまま漫画家H氏の横に置き、腕を組み、
どっかと座り、冬山の置かれた鬼瓦のようにじっと漫画家H氏の原稿を見つめていました。
12時過ぎ、まさに突貫工事のようなコピー、切り張りを駆使し、どうにか原稿は仕上がりました。
原稿の枚数を確認した編集者は
「お疲れさま、夕方には来週のネーム送っといてね」
と何事もなかったように軽い挨拶をし、煙のように仕事部屋を立ち去っていきました。
後で聞いたのだが、漫画家H氏と編集者の間で今度、印刷所を止めるようなことがあったら
丸坊主という約束はされていたとのこと。編集者は約束通り、バリカンを持ち歩いていたそうです。
「また今回みたいなことになったら、今度は下の毛を剃られちゃうんだよね」
漫画家H氏は笑いながら言っていました。
それにしても私は編集者が仕事場に入ってきたときに
「外にタクシーを待たせてある」
と言ったこのひと言が貧乏性の私にはとても気になっていました。
まぁ、経費で堕ちるでしょうだが、6時間以上待たせていたことになるのです。
★貧乏作家のヘルプ……。
専門性が高いほど徒弟制度(優れた人材を育てるための師匠と弟子の関係)が必要とされたが、
AI、技術の発展に伴い、その関係性も希薄になっていったように気がします。
例えば知人の寿司職人の話ですが、名のある職人の下で何十年と修行して出店するするよりも、
いまでは寿司職人の育成と就職サポートしてくれる学校に行けば3か月もすれば、
とりあえず寿司職人になれるそうです。
ドイツのデュアルシステムとはかなり異なった日本の徒弟制度。
というより私見ではあるが、漫画家では徒弟制度がまったく機能していないのではと思ったりします。
人を育て入るには時間がかかるのです。
人気漫画家ならいざしらず、ポッとでの漫画家にはスタッフを雇うことも出来ない。
聞くところによると週刊誌連載をした場合、スタッフ6人が平均的だという。
私見ではあるが、とにかく人件費にお金を掛ける、優秀なスタッフにはそれなりの
給料を支払う準備をして迎い入れる、週刊誌連載したら迷うことなく5人~10人程度は
スタッフをえていた人たちは成功していくような気がしました。
電子書籍ではありませんが、投資したらしたぶん、それなりの結果は出ると思います。
しかしポッとでの漫画家のところではせいぜい雇えてひとり、ふたり。
しかも連載しても無名なので目の色を変えてスタッフにさせて下さいと哀願している人もいない。
結局、素人に毛が生えたような漫画家希望者でも強引に即戦力として雇わざる負えないのです。
体験上、ポッとでの漫画家の仕事場にヘルプとして行ったときのことです。
明らかにどうしても漫画家になりたいといった二十歳過ぎの青年。
彼の作品を見せたもらったが、それなりの漫画作品として成立しているのですが、
丸ペンの使い方、背景が雑なのです。
一直線に綺麗な線が引けないのです。擦れてしまうのです。
ポッとでの漫画家の仕事場に来て2週間目。
丸ペンの使い方も遠近法も知らないまま、ポッとでの漫画家の描いた人物の背景にありゃりゃと
言わざる負えない街並みを鉛筆で下書きをし、その上を丸ペンで線を引いていくのです。
ポッとでの漫画家は締め切り、自分の描く人物たちのことで頭がいっぱい、
さらにスタッフに丸ペンの使い方を練習させている時間的余裕もない。
まさに負の連鎖です。
私もそうでありましたが、漫画家になりたいと願う夢人は自分の主人公、キャラが描きたい、
話が描きたい人であって風景が描きたいのではないのです。
最近では風景も写真をAIで加工したり、トレスしたりして、
それなりに読者に見せられるようになっていますが、私の知る限りでは
80年代のとある漫画家なんぞは頭の中にまるで今まで見てきた風景は写真に収めてあるかの如く、
資料なしにスラスラと描いてしまうのであります。しかもどこにもないオリジナル風景を
「このコマに松の木を描いてください」
漫画家の指定に私は漫画家の本棚から資料になりそうな雑誌、漫画を選んでいると
「松だよ、見たことないの?」
嫌味もなく真顔で聞かれてしまいました。
「見たことありますけど……」
「なら描けるでしょ」
とにかくその漫画家、喫茶店で打ち合わせていても、電車に乗っていてもスケッチブックを手放さず、
とにかく目の前のものをスケッチしていたのです。まさに24時間漫画のことしか考えていない。
―もちろん私は資料なしではなにも描けないヘルプ。手垢のついた漫画表現を模写して
松を描いたのでした。
★アル中……。
その昔、中年アル中漫画家Y氏の仕事部屋にヘルプで行ったことがあります。
漫画家Y氏は起きたら酒を飲み、編集者との打ち合わせでも漫画家Y氏の勧める酒を編集者が
口にしないと打ち合わせに入らない。要するに起きてから寝るまで飲酒しているのです。
―で誰が漫画を描くかというと優秀なチーフスタッフが漫画家Y氏の当たりだけついた
ネームから鉛筆で下書きし、Gペンを入れ、最終仕上げまでひとりで熟すのです。
あとは漫画家が一コマ一コマ出来上がるたびにチェックを入れるだけです。
とにかく酒臭い仕事場で下戸の私には辛い仕事場でありました。私がヘルプに行ったときは
久しぶりの漫画家Y氏の雑誌掲載作品のためか、頗るご機嫌であったY氏。
いつも以上に酒が進み、仕事中もご機嫌でありました。
初めて会った私に対し、とてもフレンドリーで、なにかと私に聞いてくるのでした。
「デビュー作は?」
「どんな漫画が好き?」
「年収いくら?」
「あそこの雑誌1ページ、いくら?」
……。
もちろん漫画家Y氏も直截簡明、自分の年収、原稿料なども教えてくれました。
出版社側としてはこういう漫画家同士情報交換が一番嫌なのです(しかし最近ではSNSで
若い漫画家たちはしっかり情報交換しているし、これからの漫画業界のために情報をネット上で
オープンにしている漫画家もいる)。
私より年配の漫画家たちの話は財産。人気漫画家の話は漫画や書籍で見られますが、
無名漫画家の話ほど貴重で面白いものはありません。
失礼な話、人間の愚かさ、醜さ話は深みのある文学に匹敵する。
成功者の話にはどうしても限界がある。
私との無駄話がよほど面白かったのか、その日、中年アル中漫画家Y氏の酒は驚くほど進んだようです。その横で酒臭い仕事部屋でチーフスタッフはまるでダンスを踊るように白い原稿の上を
優雅にGペンが跳ねていました。
まさにプロのお仕事。
どうしてこの人、自分でデビューしないのかと思われるほど不思議なほど描くのが速く、
上手なスタッフがたまにヘルプ先の漫画家の仕事場にいるのです。
漫画家Y氏が仕上げをしているヘルプにマシンガンのように話しかける。
チーフスタッフが迷うことなく主要人物たちを描き上げていく。
名前のある作家を欲しがる出版社……。
いろいろ考えさせられます。
それにしてもあんなにアルコール臭い仕事部屋ははじめてでした。
★ふと思ったこと……。
100人以上の漫画家の仕事場でヘルプをして、最近、思ったことがあります。
漫画家はよほど人気漫画家にでもならない限り10年も、20年もやっていけない。
そして経営者の顔も持っていないと存続できない。
カリスマ性のある漫画家の仕事場なら優秀なスタッフが門を叩くが、
それなりに頑張っている漫画家のところにはそれなりのスタッフしかやってこない。
私は40年近く、小学校からの夢であった漫画連載も出来、バイトもせずにヘルプとして
漫画業界に関わってこられたが、50歳を過ぎ、貯金通帳を眺めた時から将来が不安になり、
50歳後半からバイトを始めました。
10代、20代でヒット作が出なければ漫画家はやめておけばよかったと思うのです。
90年代、00年代のように新聞、雑誌が売れまくっている時代ならともかく、
いまなら正社員になり、余暇で漫画を描き、同人誌やkindleインディーズで作品を発表した方が
幸福感があったかもしれないと強く思います。
あのときああすれば、こうすればと悔やんでも考えるは今日と明日だけにして、
とにかく前に進まなければいけないので、カラ元気出して前に進みますよ。
……まだまだいろいろと、あんな話もあった、こんな話もあると書き足りませんが、
この辺で。
【本文 敬称略】
★ありがとうございました。
還暦過ぎの漫画ファン
吉浜幸久