ep.94 「お前は、この国の秩序に反した」
やべえ、と認識する。
部屋すべてどこか、下手をすればこの王宮を覆ってさらうように黒い何かが流れている。
反射的に足を上げて、椅子上に避難するけど、とてもじゃないけど対処できない。
わたしが作成したあの道、あれがこの床一面に成り代わったようだ。
黒いモヤのようなものが、絶えること無く高速で流れ続けている。
「シェリ、何が起きてんだ、これ!」
「ご、ごめんなさい……」
「はあ!?」
「まさか、もう起きてくるなんて……もう少し普段なら時間が……」
仮にも王族だからか、シェリは避けてる様子もない。
つけた足に絡みつくものは、何の影響も及ぼしていない。
けれど、その顔はそれこそ海洋モンスターを前にしたニキよりも青白い。
絶体絶命を、これ以上無く理解している表情だ。
「いいから、説明をしろよ!?」
「……これは、王の目覚めた証」
「どういうことだ!」
「永遠の王は、常に退屈をしている、これを止められずにいる、だから、普段であれば起き出すこともない。なのに、どうして……」
「いや、よくわからん! いいからこれを止めるなりぶっ壊すなり――」
吠えて文句を言おうとする言葉が、止まる。
それどころか動きですらも。
誰かに遮られたわけじゃない、自主的に、声が出なくなっていた。口から音が出て行かない。
王族、この国の上位層にいる人間であるシェリが、椅子を蹴立てるようにその場に跪いた。
テーブル上の茶器が動き、長細い私物を弾く勢いだ。
全身がガタガタと震えている様子が分かる
なぜそうなったかといえば、呼びかけられたからだ。
それは、言葉としては「久しいな」と言っていた。けど、それがそんな意味だとは思えない。
呪詛を煮詰めたものが叩きつけられたと思えた。
「どうした」
それは、歩いていた。
それは、直立していた。
それは、決して人ではない。
クラフトと呼ばれる縞模様の頭巾を被っているけど、王と呼ぶにはふさわしくない嘲笑を口元に浮かべていた。生きとし生けるすべてを嘲笑うそれは、くろぐろとした姿をしていた。
肌の色としての黒じゃない。
暗闇を人の形へと固めた異形だ。
「俺は、久しいな、と言った。頭を下げ、俺に従え、俺を肯定しろ。それがこの国の秩序である」
一歩進むごとに、固めた暗闇がほどけて地面を伝う。
巨大に広がり、この王宮をさらう。
わたしは声も出せない。
ただそれを睨みつける。
「俺の国において、死こそが力となるのだからな」
真っ黒な、この国の王を。
おい、シェリ。本当に、なに考えてやがる。
スフィンクスが味方したところで、こんなのに勝てるわけないだろうが。
そういう軽口の文句ですら、言葉に出せない。
そこにいたのは、「死の集合体」だ。
フェダール国の長きに渡る歴史すべての、死の集積だ。
直感的に、それを理解した。
+ + +
いろいろと、敵わない相手と対峙したことはある。
そのどれも甘くみたことなんてない。わたしの方が有利だなんて勘違いはしない。
けど、これはそもそも違う。
レベルどころか存在が異なる。
これはもう、神と呼ばれるのに近い。
争って勝とうと考えることすら不遜。
こうして見るという行為ですらも、滅びへと直結しかねない。
「……」
この王宮に、他の人の姿がないわけだ。
こんなバケモノが定期的に現れるような環境では、とてもじゃないけど生きていけない。
どれだけ魔力耐性があっても焼け石に水だ。
それこそ、アマニアの防護でようやくだ。
呼吸を行うことすら、恐ろしくて仕方ない。
「俺に逆らうか、ならば――」
わたしを見るその視線には、どこか喜ぶ様子がある。
きっとコイツは、手軽に茶菓子でもつまむように、人々の命を摘み取り続けた。
そう、この王様とやらは、今シェリがそうしているように、わたしに頭を下げて平服することを要求した。だが、
「わたしは、このテティシェリ・ファラオに「客人」としての役割を与えられました。これを撤回されるということでよろしいでしょうか」
だからこそ、口答えをする。
嘲笑の形が、わずかに引っ込んだ。
言い返されるということが、めったにないのかも知れない。
「……命に逆らうのか」
「あなたは王だ。王であるあなたに、聞いているのです。わたしは何者であるか。どのような役割を持つものであるかを」
それは、濃い黒い影に目鼻をつけた形だ。
その目が、眇められた。
敵として認識されたことを理解する。
命に従わない愚か者であると。
思わず笑う。
一国の王様に、それも神様に近い位置にいる奴に敵視されるなんて、滅多にできない経験だ。
「なにを笑う」
「いいえ、妙なことになったということへの自嘲です。この先に決して味わえないことを体験している、そのおかしみの表れでしかありません。さて、わたしは変わらず客人である、それでよろしいでしょうか?」
今わたしが生存してるのは、この細い糸だ。
ここは厳法と役割の国だ。
それは、たとえ王であっても逆らえない、それに賭けた。
わたしが「客という役割」を続ける内は、罰することはできないと。
「なるほど、お前は客人だ。そのような役割を担っている。一方的に命じられるがまま平服する立場ではないと、そう言いたいのか」
「はい、わたしは役割に従っています。これは、この国のやり方を尊重することでもあるはずです」
「小賢しいな」
言いながら、その王は近づき、座った。蹴立てるようにその場に平伏したシェリ、その彼女が残した椅子に。
「どうした。お前が客だというのなら、俺が歓待してやろう。この国の王としての役割である俺がだ。どうした? その珍妙な格好が客として受け入れる姿勢か?」
まだ地面では黒いモヤのようなものが流れている。そこから逃れるように、わたしは椅子上に足を乗せていた。
「……失礼しました」
居住まいを正し、わたしは座り直す。
つけた足先が、凍えるようだ。
冷たい、死そのものの感触を味わう。
「ふん……」
王は、わたしをじろじろと眺める。
まるで珍しい動物でも見るかのような視線だ。
「やはり、よく似ているな」
誰にだ、と聞こうとしたが、ただ頷くだけに留める。
「そうですか?」
「ああ、あの下らない、お前の母親にそっくりだ」
「あ?」
瞬間、恐れを忘れた。
あるいは、わたし自身の現状ですらも。
「まさかと考えたが、見て理解した。貴様はあのアバズレの子供だ。ならば――」
「それがこのフェダール国のものの言動か。客人をなぶり貶めるのが、この国の王か!」
「中途にて口を挟むな愚か者がッ!」
ずるり、と力が吸い込まれる。
「お前、この俺に王であることを要求しておきながら、話の中途で口を挟んだな? 客としての役割を放棄したな?」
やべえ。
「お前は、秩序に反した」




