ep.79 たとえ幽霊となったとしても
静かな夜だ。
この時期の島であれば聞こえていた虫の音色ですらしない。
風が行き渡ったところで、梢が鳴ることもない。
しゃらしゃらとした砂のこすれる音ばかりがするだけだ。
アマニアはただ呆然と見上げる。
顔の左右には、クレオの両手がある。
見下ろすクレオの表情に、偽りや冗談の要素は一切ない。
月明かりの影となり、シルエットばかりがあるが、その目はたしかにアマニアを捉える。
ただその口元は、薄く笑っているように見えた。
クレオ自身が意識せず、自然と出ている笑みだ。
支配者が、支配すべき対象を捉えた顔だと、そう思えた。
「ぼくは――」
「お前のそれがどうなっているのか、わたしには詳しくわからない。だが、わたしであれば突破できるんだよな? だったら、お前が完全に支配下に入れば、それは解除される」
だって、わたしのなんだからな、と続けた。
「――」
アマニアの視線は、自然とその胸元に入るネズミに注がれた。
完全にその支配下となったそれは以前とは変わったものの、「損なわれた」という様子はない。
クレオの支配下に入るということは、きっとそんなに悪いことではない。
「ぼくは、君に触れている間は、このスティグマが解除される。君だけが突破できる。なら、ぼくが君のものになるのであれば、その触れているという状態がずっと続くも同然だ。そういうことですか?」
「さあな。けど、直感的に上手くいきそうな気がした」
「それは――」
素晴らしい話だ。
断る理由はない。
支配といっても形だけのものなのだから。
むしろ、支配している側に尽くすのがクレオという人間のあり方だ。
「……」
しかし、なにかが引っかかっていた。
言語化できないものが、拒否していた。
心のどこかが、「それだけはしてはいけない」と言っていた。
救済の道であると同時に、絶望の道でもあると。
アマニアの懊悩など知ったことではなというように、クレオは薔薇を取り出した。
アイトゥーレ学院生の証である薔薇、そこから花弁の一枚を千切り、そっとアマニアの口元に当てた。
「食え」
返事はできない。
「デスピナのやつは、仲間に血と花弁を与えることで知性を獲得させた。どういう作用かは知らないが、魔術的なつながりを強くする効果くらいはある」
魔力供給のために、アマニアはすでに血を飲んでいた。
「これを食えばアマニア、お前はわたしのものになる」
生まれてはじめて薔薇の香りを嗅いだ。
本では知っていたことを、自らの経験として初めて感じた。
いつまでも、永遠に嗅いでいたと思えた。
これを口にすれば、いったいどうなってしまうのだろう?
「……」
それは、本当に耐え難い誘惑だ。
だって、これを飲み込めば、いままで諦めていたものすべてが手に入る。
普通の人間として、生きることができる。
不本意に着込んでいる分厚い鎧のすべてが砕け散る。
全身を襲う震えは、ほとんど飢餓にも似た渇望のためだ。
真剣なクレオに見下され続けながらも思い出す。
マリナ・メルクーリという学院生がいる。
誰からも愛される学院生として有名だ。よく笑い、よく落ち込み、よくはしゃいでいる。
まったく理解できない生命体だとアマニアには思えた。
――これを食べれば、ひょっとしたら自分も、あんな風に生きることができるのでは?
そんなことはない、という冷静な声と。
ああいう風になりたい、世界全てを鮮やかに感じたい、という希求は同時に発生した。
きっと他の人にはわからない。
どれだけ求めても欲しても、絶対に届くことがない歯がゆさは、クレオにだって理解できない。
この分厚い障壁をベロリと引っ剥がして、ようやくアマニアの人生は始まる。
そのためのチケットが手渡された、なにを迷う必要がある?
唇の間の花弁を、唇で挟む。
緩やかな風が花弁を揺らす様子すら感じ取れた。
生きたい。
アマニア・アンドレウはこの世界で生きていたい。
そのためならば、この毒にも似た花弁を飲むことくらい、どうってことはない――
……毒?
なぜ毒だと考えた。
こんなにも甘く、軽やかな香気を、なぜそんな風に?
「どうした?」
クレオの声は優しい。
しかし、その全身からは支配欲を発散していた。
アマニアが飢えているように、クレオもまた飢えている。
支配できる対象を探し求めている。
なら、それを癒やさなければ――
――本当に、それでいいの?
理性の奥の、もっとも冷たい声が聞こえたのは、ちょうど花弁に歯が当たる瞬間だった。僅かにでも力を込めれば砕けてしまう一歩手前だ。
冷静な声は告げる。
どうしようもない飢え、憧れ、クレオの助けになりたいという想いですらも駆逐しながら。
――本当にこれは、アマニア・アンドレウの願いを叶えるもの?
当たり前だ、と心からの返答をする。
なんの問題があるというのか。
――それは、書かない、ということ。
なにを言っているのか。
これを口にしても何も変わらない。
書くことそのものに支障は……
「……っ!」
目を見開き、クレオを見る。
そこには支配者としての顔とは別に、不安もまた揺れていた。
「ぼくは……」
「ああ」
「ぼくはクレオ、君を書きたい。本として永遠にしたい」
「そうだな」
「これを口にし、君の支配を受け入れれば、それができなくなる」
「そうか?」
「支配下にあるものが、支配者について書いたところで、ただの称賛だ。真実にはならない」
他の人間は知らない。
だが、アマニアにとってはそうだ。
無心でクレオについて書くということができなくなる。
あるいは、形だけの支配であれば違うのかもしれない。
だが、これは魔術的にも繋がりのある「支配」だ。己の一番深い苦悩を救われてもいる。そんな人間が書くことは、どうやったってただの称賛だ。
永遠に残せるものには、決してならない。
「……」
クレオはただ見下ろす。
アマニアの目尻からは勝手に涙がこぼれる。
「なにより、これを口にすれば、ぼくたちは友だちではなくなる」
「そうだな」
デスピナの例とは違う。
一時的なものではなく、永久的な支配だ。
完全に固定化された関係は、それまでのものとはまるで異なるつながりとなる。
「クレオ、ぼくはぼくが救われることよりも、君の友だちであることを選ぶ。君を書き残すぼくでありたい」
血を吐くかと思えた。
心と呼ばれるものが悲鳴を上げていた。
亡者が生者にすがりつくように、理性以外のすべてが「嫌だ」と叫んでいた。
なぜ、どうして。
友情? 真実? そんなもの、どうだっていいじゃないか。
ただ当たり前に生きることを、なぜ否定しなければいけないのか。
アマニア・アンドレウ、お前は石ころの価値のために、己の人生を棒に振るつもりか。
だが、たとえ幽霊となったとしても、己が生きていると信じられないとしても。それでも。
「わかった」
唇に張り付く花弁が取られた。
それは、当たり前の生が離れて行く様子だ。
「お前は、ダチだ。わたしは全力でそれに応えることを誓う」
それでも、わずかに微笑むクレオの顔は、きっと支配を受け入れては見れなかったものだ。




