ep.63 「やっぱり異常すぎない?」
「う……」
「おはよう、ねぼすけ」
寝間着姿で起き上がると、すでに太陽の気配が室内に忍び込む時間帯だった。揺れは穏やかで、窓からの強い日差しは船内の暗さを切り取る。
「あ、おはよう……」
「調子は?」
ニキ・デュカキスはその窓の下で書き付けをしていた。
顔を上げず、書類とにらめっこを続けている。
「あー、悪くはない、か?」
ぴたりとペンの動きが止まった。顔を上げ、ぼさぼさ頭のメイドを見る。
「本当に?」
「え、うん、嘘は言ってない」
「もう一度聞くけど、本当に? どこにも体調の変化はないの?」
「なんでそんなに疑うんだよ」
「4日よ」
「え?」
唖然としたその顔を見て、わずかな疑念すらも払拭された。
この下働きは、本当にいま起きた。
サボりたくて寝たフリをしていたわけではない。
「あなたが勝手に自分で睡眠薬を飲んでから、もう4日間が経過しているわ」
「ッ! わたしが睡眠薬を飲ませた学院生はどうなった!」
「平気よ、その日の夜には目を覚ましたから。あなたには感謝してたわよ」
「そっか……」
胸に手を当て、安心していた。
その様子ですら、ニキにとっては不審だ。
「ねえ」
「なんだ? あ、わたしの着替えとかどこにあるんだ、これ」
「それらしいものは、ハンモックの下にある収納に入れたわよ」
「そっか、サンキュ」
「……どうして、そんなにピンピンしているの?」
「は?」
眠りこけているメイドの世話は、一応は彼女がした。
綿に水を含ませて飲ませてやり、まだ新鮮な状態を保つ果物の果汁も与えた。
当然のことながら、それだけでは足りないはずだ。
人間はものを食べてエネルギーを得るように出来ている。
だが、まったく平気な様子でただ眠り続け、その上、生理現象による排泄ですら行わなかった。まるで冬眠でもするかのように、このメイドはただ睡眠を続けた。
「いやあ、マジでわからん」
平気で裸になって着替えて、軽いストレッチまでしている。
その動きには、衰弱死寸前という様子はまったくない。
「あなた、人間?」
「そのはずだ」
「モンスターが変身しているわけじゃないわよね」
「わたしは先生方でも上級職員でもない」
「そうよね」
何者だ。
その疑問がニキの脳裏で渦巻いた。
学院生の属性に合わせた魔術薬を作成できる技術がある。
それでいて、己が犠牲になることをまるで躊躇わない。
言動は粗野で、とてもではないが礼儀を習い覚えた様子がない。
何もかもがチグハグだ。
こんなやつが、普通のメイドのはずがない。
「身分を偽ってるわけじゃないわよね」
「ああ、もちろんだ!」
力強く頷いていた。
「……どうして今、明後日の方向を見ながら頷いたの?」
「ちょっと太陽が眩しかったんだ」
「ついさっきまで直視してたじゃない」
「よし、ちょっとわたし、サボりすぎだな、仕事してくる」
「待って」
いい笑顔で立ち去ろうとするメイドを引き止めた。
貴重な真水をコップに入れて渡しながら、ニキは腕組をした。
「お、サンキュ」
「その程度はいいわ、もともとそれは今日のあなたに上げる予定のものだったのだし。それより、聞きたいことがあるわ」
「なんだ?」
「……どうしていつでも逃走できるような体勢を取ってるの? いえ、念の為の確認よ」
自らのこめかみをもみほぐした。
これを質問する意味など無いと、ニキ自身も理解はしていた。
「通常、船にはいくつもの不衛生が蔓延するものよ」
「そうなのか?」
「ええ、食料を積めるだけ積んでいるのだから、ハエの一匹でも紛れ込めば大変なことになるわ」
このあたりの話は、それなりに仲良くなった船員から聞いた話だ。
普通なら、そろそろ発生してもおかしくない時分のはずだが――
「どういうわけだか、今回に限ってハエは出ず、悪臭も発生していない。「魔女」が何かをしたんじゃないか? そう聞かれたのよ」
「へぇ」
魔術はそこまで便利なものではない。
アトゥール島で多くの学院生が学ぶのは、夜会という下駄を履かせてもらった状態での魔術行使だ。
そこで魔力により世界を変質させる感覚をつかみ、学院外でも行えるようにする。
より強い「戦力」となれるように、己を鍛える。
たとえ学院内であっても、「食料の新鮮さを維持するための魔術」なんてものを使えるのは、ごく少数だ。
そんなことに精魂を傾けている余裕はない。
極端なことを言えば、島における教育とは「夜会なしで人形を使えるようにする」ことだけを目標としている。
決して、生活を便利にするちょっとした魔法を使えるようにするためではない。
「あなた、なにかした?」
「わたし、本当にずっと寝てたんだが。別に夢遊病とかでもないはずだ」
「そうよね……」
異常な奴が異常なことをしたのではないかという予想は外れた。
冬眠のような眠りが、他にも影響を与えたのではないかと疑ったのだ。
「わたしの魔力がヘンに暴走して迷惑かけた、ってわけでもないんだよな?」
「そういう様子はなかったわ」
「だったら、それこそ偶然じゃないか?」
「けれど、猫を乗せているわけでもないのに、ネズミすら出ていないのよね。こんなに快適な船旅は初めてらしいけど、原因が誰にもわからないから不気味だわ」
「へ、へぇ――」
空になったコップを返したメイドの顔が、なぜかひどく硬かった。まるで今の今まで気づいていなかったやらかしを、やっと発見したかのようだ。
「……どうして、そんな張り付いたような笑顔をしてるの? 似合わないわよ」
「やっぱり学院生には敬意を払わないとみたいな?」
「今更過ぎないかしら。あと、どうして妙にくすぐったそうにしているの?」
「なんかもぞもぞするんだよな、起きたばっかりで体の調子がヘンなのかもな」
「本当に?」
「ああ、もちろん!」
頷くメイドの襟首から、ひょっこりと現れるものがあった。すんすんと絶え間なく鼻を動かすそれは、どう見てもネズミだ。
そのまま素早く肩に乗り、当たり前の顔で鎮座した。
なぜかドヤ顔をしているようにも見える。
「ねえ?」
「……なんだ」
「どうして、ここにネズミがいるのかしら」
「な、なんでだろうな?」
「そして、どうしてそのネズミをあなたは熱心に撫でているのかしら」
「わ、割りと可愛いだろ」
「ええ、そうね、けれどそのネズミ、まるで「とても頑張って仕事をしたのだから褒めてくれ」と言っているような顔をしているわよ?」
「不思議だな?」
ニキはにっこりと笑う。
令嬢らしい優雅な、それでいて有無を言わせぬ笑顔だ。
「吐け」
呪殺系の魔術の用意もする。
毒と薬が紙一重であるように、呪いと祝福も紙一重だ。
メイドの世話を熱心にしていたのは、与え続けた祝福を、いつでも呪いへと転用できるようにするためでもある。
「こいつ、わたしの友達」
「で?」
「たぶんだけど、わたしが寝ている間、船内の環境を良くしてくれたんだと思う」
その言葉に、嘘はなさそうだ。
本当に知らなかったし、本当に今気づいた。
「それなら……」
「諾」
「……なにか今言った?」
「ダークって言った、ほら、ここ暗いからな」
明らかに別人の声がしていたが、見渡してもそれらしき人影は無い。
いるとすれば、メイドに顎下を撫でられて心地よさそうに目を細めている白ネズミくらいのものだ。
ただし、そのネズミの口を塞ぐようにしているメイドの動作は、とても不審だ。
「そのネズミ、悪さはしないわよね」
「ああ、一緒に働いてる。別の言い方をすりゃ、リリさんの許可を既にもらっている」
上級職員の許可があるのであれば、学院生に口出しはできない。
「わかったわ。ただし、他の人に見られないようにね、特に一般の船員には厳禁よ。ただでさえ悪い噂が立っているのに、本当に魔女扱いされるわよ」
「サンキュ、班長」
「誰が班長よ」
「主任って呼ばれ方が嫌そうだったからな」
「ランクダウンしてるじゃない」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
「普通にニキとでも呼べば」
「そっか、わかったよ、ニキ」
異常な奴が異常なことをしたから、今の異常がある。
そのことに彼女は少し安心していた。
船が揺れるかのように、世界の法則が揺らいだわけではないのだ。
「そういえば、あなたの名前って――」
なんだったかしら、という問い掛けは空気だけを揺らした。
少し目を離した隙に、メイドはあっという間に姿を消していた。
「やっぱり異常すぎない?」
船内の環境が良くなったのはメイドのおかげだが、常識はずれが起きているのもまたメイドのせいだ。




