ep.57 脳の何処かが、きしみを上げました
ぼくは、ときどき考える。
いつからこうだったのか。
あるいは、いつからぼくは――アマニア・アンドレウは、クレオ・ストラウスに執着していたのでしょうか。
その答えは、すぐに出ました。
辞書で欲しい言葉を探すよりも、ずっと簡単に。
彼女が、ぼくを殴ったからです。
+ + +
アンドレウ家は魔術の家系でした。
それも、広く浅く、さまざまな魔術の収集を続ける類の。
魔導の奥義へと至り、いつしか神の位へと至る――そうした「一般的」な野望など持たずに、ただただ収集を続けました。
目的と手段の逆転した、ということです。
蒐める、という行為そのものに耽溺し、いつしかそれが目的となりました。
だから、存分に収集行為ができる立場こそ、欲しました。
国営図書委員という立場はそれに最適であり、館長の座を巡って一族間は血みどろの争いを繰り広げました。
ぼくに対して、厳重な防護対策が取られた理由がそれです。
生まれたばかりのぼくは、明確な弱点と成り得たのです。
「……」
暗くした室内。
光差さないその窓枠へと腰掛け、手を掲げ見ます。
肌すべてには薄っすらと、魔術的しるしがあります。
日の下では見えず、月明かりのもとではわかるこれは、スティグマです。
腕だけではなく、全身に、あるいは身体の内部にすらも彫られています。
烙印、刻印とも呼ばれるこれは、防護に特化したものです。
各所に出て行き、収集を行う、その対策としてアンドレウ家の始祖が開発したものですが、赤ん坊の頃から彫り込まれた例は、今までありませんでした。
きっとこれからも無いでしょう、ぼくのような人間を、二人も三人も作るような馬鹿がいてほしくありません。
情勢としてそれが必要だったことは認めますが、もう少しくらいは考えて欲しかったものです。
お陰でぼくは子どもの頃から、自分のことが人間だとは思えずにいます。
分厚く、重く、防護が張られている。
それが常態であり、それが日常です。
現実と呼ばれるものは、その分厚さの向こうにあるものでした。
ぼく自身でも解除できないこれに命を助けられたことは数え切れませんが、そのたびに思うのです。
毒液を浴びせられ、信じていた人間に剣を振られ、灼熱の豪炎を食らったところで平然としている、そんなぼくは――果たして本当に人間なのかと。
勝手に逸れる攻撃は、まるで間抜けな劇を見せられているかのようです。
現実から離れた、ただの映像です。
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「立派な人間になりなさい」
親という立場の人からは、繰り返しそう言われました。
心にまるで響かないそれに従ったのは、半ば惰性です。
生きている実感が無いのも、親がぼくと目を合わすことすらないのも、あるいはテロからぼくだけが生き残り、その巻き添えとなって死んだ子供の親から罵詈雑言を浴びせられることも、未だにぼくが「立派」ではないからです、そうに違いありません。
その立派さに至る道程を求め、ぼくは本を読むようになりました。
その中で生きる人々は、現実の者たちよりもよほど感情豊かで、真摯で、親切に見えました。
どうして、こうなっていないのでしょう?
こちらの方が、本の中の世界の方が、よほど住みやすそうなのに。
繰り返し、様々な本を読む程に、その思いは強くなりました。
あるいは、やはり、本の世界こそが本当なのでは……?
「アイトゥーレ学院へ行きなさい」
10歳の頃そう言われたのは、周辺の国々のきな臭さも原因でしょうが、それ以上にぼくが目障りだったからです。
彼女自身が考案して施したスティグマが――自動防御魔法機構が、ぼくという子供の精神的発育を阻害していると判断されたのです。
彼女自身の失敗から目をそらすかのように、ぼくは放逐されました。
素直に無感動に「はい」とぼくが頷いたことすら、どうやら気に食わなかったようです。
閉めたドアの向こうから、大きなため息が吐き出ていました。
どこに行っても変わらない。
なにも変化しない。
ぼくは分厚いベール越しにしか、世界を把握できない。
それは――クレオ・ストラウスと出会っても変わりませんでした。
+ + +
その人のことは、とても印象に残っています。
どこかぎこちなく、どこか不満そうに、けれど周囲の目も気にせず気楽に振る舞う様子がありました。
その全身を彩る魔力量の濃さが、彼女のうつくしさを底上げし、とても目立つものにしています。
異物、ではあるのでしょう。
彼女は禄に礼儀を知らないように見えました。
たとえば「金で位を買った」と揶揄される者の子女であれば、そうした物を知らない所作となります。
けれど、同時に「素の育ちの良さ」のようなものも垣間見えます。
礼儀知らずで、育ちがいい。
きれいだけれど、動作が粗野である。
膨大な魔力量だけれど、禄に制御ができていない――
相反する要素が、彼女の扱いを迷わせました。
またそもそも、10歳という子供が、その暴力的な魔力を適切に対処しろという方が無理です。
「なあ、ちょっといいか」
「はい」
「これ、どう食えばいいの?」
例外は、ぼく以外には数人程度でした。
彼女が無意識に放つ魔力は、ぼくを苛むことがありません。
「……古代料理を再現したものですね、手づかみで食べるべきものです」
「まじで!?」
恐る恐る、骨付きのその肉を手に取り、両手で咀嚼する様子。
目を閉じて、味わい笑う幸せそうな姿。
脳の何処かが、きしみを上げました。
その姿が、ぼくに圧力を与えます。
矛盾がぼくの思考を捻ります。
おまえ、本当に人間か?
おまえみたいな者は、ここにいちゃいけないんじゃないか?
なあ、本から抜け出しちゃ、ダメじゃないか、ここは「本物」が来ていいところじゃないんだ――
「ん?」
笑いかけるその指は、肉の油がついていました。
汚れてしまっている。
それを認識し、何も考えず、ぼくはその指を手に取り、舐めました。
「へ」
あれ、という疑問が湧きます。
それはぼく自身の行動ではなく、感触が――
「いや、やめろって」
彼女は笑いながら、ぼくを軽く叩きました。
あるいはデコピンだったのかもしれません。
けれど、『ぼくに触れ』たのです。
生まれてから一度も解除されること無く、常にあった防護で機能せず、なんの障害もなくぼくへと触れたのです。
人間に、はじめて触れられた。
続くものが、さらにぼくを襲います。
それですら、初めて知ったものでした。
彼女は、ぼくのことを叩いた。
それはとても軽いものだったけれど、たしかな痛みをもたらしました。
はじめての、痛みです。
苦痛、というものを最初に与えたのは、彼女でした。
「ほら、まだ肉は残ってんだから、食えよ。わたしの指とか食べたらだめだろ?」
「うん……」
痛みは泣きたくなるほど辛く、それでいて忘れられないほど繰り返し、ジンジンといつまでもその箇所を苛みます。
けれど、それをどう表現すればいいのか、ぼくはわかりませんでした。
ただ渡された肉を、食べます。機械的に。
そこには味というものがありません。
毒対策としての防護でした。
形式ばかりの食事という動作をしながら、先程の指の感触を思い返します。
接触のそれと同様に、そこには「味」がありました。
ものを味わうという経験をはじめて行ったのです。
「このドレス、窮屈だよな、動きにくい」
「はい、そうですね」
「いっそ、自由に――」
続く会話を、ほとんど憶えていません。
ただ、彼女の動作から目が離せませんでした。
その目から、その顔から、その指から、その表情から、そのすべてから。
だって、彼女はぼくは触ることができるのです。
それどころか、叩き、痛みをくれます。
現実離れした、立派からはほど遠いぼくを、正しい方向へと戻してくれる。
触れて、味わって、嗅ぐことが。
視覚以外のありとあらゆるものを、彼女が与えてくれる。
――もう一回、叩いてくれないかな……
そう願いながらその日は終わり。
そして、地獄のような日々が始まりました。
彼女の姿が、どこにも見当たらなかったのです。
一度は希望を与えられ、その後、そのすべてを失いました。
続かない
間章は4話ほどの予定
そして、アマニアは実はこういう奴
人形経由であっても本体に届くダメージは無効化する仕様です
ただし、クレオだけは素通し




