ep.51 「そなたは、吾が求めるものをすべて手にしている」
断片的に得た情報によると、どうやら人間には悪魔というものがいるらしい。
それは人に害を与え、堕落させ、おおよそ思い描くすべての邪悪を行う存在だ。
ならばそいつは――クレオ・ストラウスと呼ばれているその人間は、ネズミにとっての悪魔である。
ネズミでは悪魔に勝てない。
狡猾なそいつの攻めをかいくぐり続けるよりは、別に新天地を求めた方が良い。
それなりに膨れ上がったネズミの集団、それが安全に生存できる場所は――
「やはり、学院か」
現在地の上、地上しか思い付かない。
入念な準備を重ねた。
まずは夜会と呼ばれるものへと紛れて参加した。
令嬢と呼ばれるものの中にはろくに喋らず、ただ黙っているだけのものもいるから問題がない。
そう思っていたが、そうはならなかった。どういうわけだが「初参加者」であることがバレた。バレたその上で、褒められた。
「貴女の人形、とても良いわね」
裏表のない、素直な感想だ。
本気で言っていると、わかる。
人間でいえば10歳児程度の、ろくに魔力が充填できていない構築を指しての言葉だ。
おそらくは、どこかの子供がこれをしたと考えたのだろう。
馬鹿にされたと激昂すべきだ。
人間が不遜なことを言うと憤るべきだ。
だがその意に反して、顔はこれ以上無く赤くなった。身悶えしたくてたまらない。いますぐ逃げ出して寝床に潜り「わー!」と騒ぎたい。けど、できない、したくない。
コロコロと笑いながら撫でつけられ、「すごいすごい」と褒め称えるその人の前から、離れたくない。もっと褒めて欲しい。
思い返されるのは、最初の、自意識が発現したときに聞いた声。
どこかの子供に向けて言っていたもの、これは、それに近いものだ。
もっと欲しい。
もっと、もっと、「自分が在ることを感謝する声」が欲しい。
ああ、と気づく。
きっとこれだ、これこそが行くべき道だ。
他に道などありはしない。
世界すべてがこのネズミを――デスピナ・コンスタントプロスに感謝する光景を求めた。
すぴすぴと鼻を動かし、その夢に耽溺する。
+ + +
地下の悪魔からの逃走、地上の喝采の感涙、この二重生活は順調だった。徐々にデスピナは受け入れられた。
もっとも、一般的に学院生となれる年齢にはまだ届かない。
それだけの人形を作成できない。
焦らず慎重にやらなければ――
「馬鹿な」
すべて吹き飛んだ。
すべて台無しにされた。
自分たちの住処を襲う悪魔、その姿は憶えている。
そのニオイも記憶している。
あれは悪魔であり、断じて許すことができない大敵ではあるが、それでも地下に生息する生物のはずだ。
なぜか、いた。
子供ばかりが集う会合。夜会ですらないそこに、そのニオイがいた。
「ん? お前、わたしと会ったことあるか?」
「否……」
「そうか、そうだよな、知り合いとかいるはずないか。なんかお前、懐かしい気がしたんだよな」
どんな会話をしたのかは覚えていない。
やけに気安い、話しやすい奴だったという印象ばかりが残っている。それは、意識が完全に空白化し、形ばかりのやり取りを行っていたからこそだ。
何度見ても、何回確認しても、地下下水で出会ったのと同一人物だとは思えない。
だが、それでも、この人間は、あの悪魔だ――
実体としての、ネズミとしてのデスピナはふらふらと巣へと戻った。そこまでの道のりすら記憶していない。
ただ、周囲のビー玉や宝石や普通よりも硬いナッツなどを眺めた、自分の場所だ、ようやく築き上げた居場所だ。
副官からは気遣う声をかけられた。
思い出す。
気楽な様子、ちょっとした不満、あるいはこちらに笑いかけるその姿。
まるで、まるで、当たり前の子どものような、そのあり方――
「キィィイイイィイイイイイッィイィィっ!!!!」
爆発し、壁へと頭を叩きつけ、声の限りに奇声を上げた。
おろおろと心配そうにかけよる副官の様子など気にもとめられない。
ふざけている、ふざけすぎている。
己は、生き残りをかけて抗った、どうにか褒められたいと願った。すべて必死だ、すべて決死だ。冗談なんかで行っていない。
だというのに、どうしてだ、なぜだ。
なぜ、自分たちを殺して回っているやつが、のうのうと舞踏会に参加している?
許せない、許しがたい。
殺戮者は殺戮者の顔をしているべきだ。
そんな奴が褒められていいわけがない。
可能な限り蹴落とされ、貶められ、唾棄すべき悪として扱われるべきだ。
あれは、あの悪魔は、自分たちの群れを殺した奴だ。
「――!」
沸騰する頭の奥底に、何かが繋がった。怒りが血の巡りをよくさせ、普段は関連しないものを連結させた。
地下下水で嗅いだニオイと、つい先ほど嗅いだものは同一だ。
だが、それ以前、デスピナ・コンスタントプロスが意識を生じた瞬間に嗅いだそれとも、同じだった。あのとき、あの薔薇園の主から褒められた相手が、クレオ・ストラウスだった。自意識を生じてはじめて覚えた相手、心底から羨ましいと思えた人間だ。つまり――
「すべてか……」
きっかけであり、求めたものであり、怨敵でもある。
「お前は、いや、そなたは、吾が求めるものをすべて手にしているのだな――」
栄光へと続く道に、巨大な岩が転され、塞がれた。
目の前も見えないほどに大きなものを。
そのような感慨があった。どうにか、これを破壊しなければならない――
+ + +
とはいえ、その機会が巡ることがないまま日々は続いた。
地下下水で倒すことができないからだ。
それだけクレオには油断がなく、倒し切ることが難しい。
怪我を負わすことは可能でも、殺傷までは至らない。
デスピナ自身が表に出て戦えば、可能だったかもしれないが、そこまでしても殺しきれなければ、それはデスピナ自身の破滅を意味する。
魔力とは、個々人により異なるものだ。
どの程度の頻度かはわからないが、学院に顔を出すような人間に見つかるわけにはいかない。
絶対の保証がなければ、行えない。
だから、彼女が就寝している最中に襲おうとしたが、これもできなかった。強固な結界が張られていた。
下級職員が使用する部分はさしたる障害もないというのに、屋根裏へ行こうとした途端に弾かれた。
クレオが「ふわぁ……」と呑気に欠伸をしながら通ったというのに、その後ろをデスピナが毒瓶を背負って行けば跳ね返された。
ならばと思い、手紙を出しておびき寄せようとしたが、これも完全無視を決め込まれた。
殺傷計画のすべてが、事前に潰されている。
誰かが、彼女を守っている。えこひいきをしている。
それは、デスピナが決して敵わない相手である。
なにせそれが張った結界にすら、歯が立たない。
おそらくは、あの薔薇園の主だ。
絶対的な力を持つものに、クレオは守られている。
つまりは――クレオ殺害の難易度がさらに上がった。殺傷すればその「敵わない相手」からの報復を受けることになるかもしれない。
誰がやったかわからないように、あるいは、その介入が行えないような形で殺す必要が出た。
これはもう、ほとんど不可能だと言っていい。
慰めがあるとすれば――
「クレオ、そなたは下級職員。吾は学院生、しかもトップだ。この違いは明白……吾、すごく頑張った!」
この事実である。
そうとも、あんなのを相手にする必要なんてありはしない。
大岩が立ちふさがっている?
だったら無視するか回り込めばいいだけだ。
最初から相手をするだけの価値もない。
それよりも、どうにか配下となるネズミの居場所の作成をしなければ。
餌となるものは潤沢に得ることができるようになった。廃棄される予定のものを掠めて持ち帰ることができた。
豊富な食料により数は増えたが、同時にクレオが狩る速度もまた熟達した。
だが、あと少しだ。
あと少しで――
「ボス」
「どうした?」
この頃になると副官は夜会のあちこちに顔を出していた。
注意を払った侵入は、未だ誰にもバレていない。
その副官が、ひどく険しい顔で告げた。
「クレオが、夜会に現れました」
その手には、あの悪魔が常に身に着けていたネックレスがあった。
立ちふさがり邪魔する大岩が、ふたたび道を妨げていた。




