ep.50 それは、ひとつの歴史だ。
夜会が広がる。
夜会が静かにそこにある。
静寂に満ちた、どこか峻厳な雰囲気すらある空間は、特性のためだ。
わたしが開いたそれは、ものすごく簡略化して言ってしまえばダメージゾーンの作成だ。
常に魔力が蒸発し、拡散し、消え失せようとする。
地下下水を対象とした夜会の全領域で、「己自身を支配していないもの」にペナルティを与えている。
その完璧を壊すかのように、わたしのトンカチとデスピナの剣は鳴る。
「ふっ!」
「くっ……!」
打ち合い続ける。
互いに魔力を構築し、他へと逃さぬようにしながら武器を叩きつけ合う。
そのたびに、こぼれるものがある。
激突して弾かれた魔力が、この夜にほどけて消えてゆく。
「――ァアアあッ!」
人形の肩に乗るネズミが鋭く吠える。
悪夢にも出てきそうな声は、けれど、脅しにもならない。
それは、わたしがわたしを支配することを越えられない。
「テメエ自身を律することができていない! わたしの形見のネックレスを持ちながらその程度かよ!」
「口を閉じ黙すがいい!」
ここで、この夜会で必要なのは、ただ支配のみだ。
「喰らえッ!」
「望まぬっ!」
回転しながらトンカチを送り込む。
その金属部分に魔力を充填させて打ち込む。
反撃の攻撃をギリギリで回避し、その余波を保有魔力で抑え込む。
中央で流れる小川、その飛沫ですらも完全にシャットアウトする。
それは――わたしがこの下水でいつもしている行いだ。
汚濁防止のために全身に魔力を張り巡らせ、一撃で倒すべくトンカチを振る。
わたしはわたしを生かすために続けた。この仕事をこなした。
「ぐっ……」
他方、デスピナもそれに似たことを続けた。
人形を操り、人と同じように振る舞い、その上で優秀さを見せつけた。
知識としても経験としても周回遅れのネズミの身で、学院生に追いつき、ついには追い越した。
だが、それでも隙がある。
そのモチベーションは喝采であり、他から認められることだ。
今ここには、誰もいない。
何も無い。
デスピナの夜会は学院全体に張られている。
この地下ですら、その対象内だ。
わたしのそれに被さるような形で展開されている。
だが、悪意や罵倒を送り込んでいた学院生はもちろん、ネズミの群れですらも散っている。ただ二人きりでの争いだ。
豪奢な色彩と意匠は広々と、楽曲すらなくただ剣戟が響く。
ここには、デスピナが求めるものが、カケラもない。
「――」
求めるように、探すように、デスピナが周囲を見るたびにこぼれて剥がれるものがある。
魔力供給源としての喝采は、どれだけ探してもありはしない。
「吾はッ!」
それでもネズミは、わたしに殺意を向け続ける。
「クレオ、そなたを罰すッ!」
「やれるもんならやってみろ」
剥がれる、落ちる、消えていく。
デスピナからの魔力が蒸発し、夜会へとばら撒かれる。
そこには、情報も乗っていた。ある一匹のネズミの過去を覗き見る。
わたしの支配下にあって把握できたそれは、ひとつの歴史だ。
+ + +
最初に見たものは、花の群れだった。どこまでも、果てなどないかのように広がる薔薇園。そこで呆然と目覚めた。
産まれ落ちたのは、きっともっと以前のことだ。
それでも、外界をきちんと認識したのはその瞬間だ。
そのときに、その一瞬をきっかけに、意識が生じた。
外部の刺激に反応を返す生物ではなく、己として存在した。
鼻を動かせば、かぐわしい香りがある。
口元は濡れていて、口内いっぱいにそれがある。
食べたのだ、と気づいたのはもっと後になってから。
隠された薔薇園で、ネズミは薔薇を口にした。
それが、自意識を生じさせた。
己がここにあると認識させた。
遠く、声がする。
果てなどないような暗闇は空に広がり、それに反発するかのように地上は薔薇の光に包まれている。
その底で泣き声がしていた。
ネズミは、思う。
これは人間だ。
人間のものだ。
自分たちを見つめては喚いたり殺そうとしてくる奴ら。
その子供が、どこかにいる。
赤ん坊、ではないだろう。
特有の甲高さがない。
いくらか成長した後のものだ
鼻が動き、そのニオイを憶える。
種族としてあまり良くない視力では、その姿を捉えることはできない。
「ああ、やっと……」
別の誰かの声を聞く。
ぞくりとした震えは、生命危機のためだ。
ありとあらゆる感覚器官が「これに見つかってはならない」と絶叫していた。
こちらを意識していない。
こちらを認識していない。
子供にばかり注意を払っている、だからこそ、まだ生きていられる。
他に、この怪物の領域に侵入してなお生存できた根拠はない。
「長い時を越え、生きてまたあなたと出会えたことに感謝します――」
可能な限り音を出さず、だが、全速力で逃げ出した。
しかし、それでも意識の隅に「生きて在ることを喜ぶ声」が焼き付いた。
その何かが、子供に光るものを渡そうとしていることも、視界の端で捉える。
どちらも、寿ぐためのものだ。
それはネズミとしての自分がこの先、決して得ることができないものに違いない――
そうして――逃げ出した先で、ネズミはネズミとして生き続けた。
それは単純なネズミとしてではなく、彼らを率いる王としての生き方だ。
より広く、より多く、より安全に生き続ける。
その望みは、しばらくの間は続けることができた。
栄光の日々だ。
今思い返しても、あれほど不安なく生を謳歌できたときはない。
「ぼしゅ?」
「ボスだ、せめてそう吾を呼べ」
幼馴染と呼べるものにも、意識が生じた。
それは落石による怪我を負った際、この幼馴染が必死に彼女を舐めて治そうとしたからだ。
2ml――それだけしか出血できないネズミという生物が、どうにか生存できたのはそのおかげだったが、同時に知恵もまた分け与えた。
あの園で食べた薔薇、その成分がいまだ血に残存していたのかもしれない。
「ぼしゅしゅ……?」
「ボス、だ」
もっとも、薄れたためか、あまり確かなものではない。
その知恵が、その意思が確かなものとなったのは、そこから更に実験を実行してからだ。
幼馴染がそれを口にした途端、すべてが変わる。
「これは、どいうことですか」
「ふむ、成功か」
気づけば近くにあった薔薇。誰に言われずとも「己のものである」と確信できたそれの花弁を分け与え、食べさせたのだ。
胡乱にたゆたうそれが、明確な意思へと凝縮した。
「吾に協力しろ」
「いつもしてますが?」
「もっとだ、足りない」
己の血と、薔薇の花弁、この2つを与えれば意思あるネズミを作れる。
そう確信はできたが、これをこの副官以外に行うつもりはなかった。完全に味方と言える幼馴染であればともかく、下手をすればライバルができる。
なにより、同レベルのものが周囲にいっぱいだと、褒められないじゃないか。
「なぜ不足が?」
「敵が現れた」
それは、人間だ。
通常の場合、下水へと魔術を放り込むだけで終わらせる「退治」ではなく、わざわざ乗り込んで直越叩く奴が出た。
どれほど連携しようと、どれほど知恵を凝らそうと、すぐに突破し追い詰めてくる。
強敵ではある。難敵である。
ネズミ退治の専門家だ。
だが、さらに悪い情報もある。
その専門家は、どうやらまだ幼体だ。
部下からの目撃情報、足跡の大きさから見て間違いない。
この先、さらなる成長をされればどうなるかなど、わかりきっている。今でも苦しいというのに、さらに生存が難しくなる。
「吾らは、この下水を離れなければならない」
苦渋の決断を迫られていた。




