メガネはアイデンティティを二次創作する装置? ファッションや漫画の文化装置としての役割
インテリキャラといえばメガネ。この発想はどこから来るのでしょうか?
ファッションはある意味「アイデンティティの二次創作」と解釈できます。メガネ一つで知的な印象を与えられるように、装いを変えることで、私たちは新しいキャラ(自己イメージ)を発見し、表現することができるのです。この自由なアイデンティティの操作は、自己表現力を高める上で不可欠な要素であり、メガネはその象徴的な装置といえるでしょう。
この考え方は、漫画作品と社会の関係にも通じるものがあります。
先日のワールドコスプレサミットでお会いすることができた、尊敬する明治大学国際日本学部の藤本由香里教授 @honeyhoney13によると、少女漫画は「この社会で見えていないこと、ないことにされている感覚や感情を、物語として見えるものにしてくれる装置」と言えるそうです。(日本経済新聞)
ファッションがアイデンティティを彫塑として模るように、作品は社会規範や固定概念を再形成する可能性を秘めているのです。幼気な女の子たちが、少女漫画を通じて、従来の女性像の束縛から解放され、新たな自己実現の蓋然性を模索するように。
さらに、ファッションと作品世界の融合として、コスプレという文化があります。コスプレは、まさにアイデンティティの二次創作を体現したものと言えるでしょう。
また漫画作品は、アイデンティティ(個性)のみならずセクシャリティ(他者性)にも触れ、心の獣を解放し寄り添います。
藤本教授は「一般的に他国に比べて日本の表現が自由なのは、日本が戦時中に言論統制という苦い経験を経ていたから」ではないかと述べています。そして、「倫理、道徳を守る国民性だからこそ、”妄想”は一種のガス抜きとして許容されてきた面もあるかもしれません」とも。
しかし、BLなどの表現に対する規制が示すように、日本の作品における表現の自由は危殆に瀕しています。忍び寄るポリティカルコレクトネスと言う世俗的な操作によって握り潰されようとしているのです。
アートのエッセンスは革新性と時に過激さや鋭利さにあり、二次元世界には三次元の倫理が必ずしも通用しません。いえ、通じてはいけないのです。現実世界の倫理観から 隔離された創作の世界が、逆説的に感情の啓発という一筋の光を与えてくれているのですから。
オタク文化は単なるサブカルチャーではなく、アートであり、社会の鏡であり、そして社会を変革する可能性を秘めた文化装置です。
それを理解しないまま"健全な妄想"の必要性と尊さを蔑ろにし、無闇に不健全図書などの規制を強化してしまうのは、オタク=犯罪者などと言う、オタクという存在の曲解に満ちた恐ろしい思想と同様であると言えるでしょう。