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悲しいアニメは悟りを開くための修行?〜バナナフィッシュ②アッシュが我々にもたらしたもの

 前回の投稿で、悲しみのカタルシスについて触れた、バナナフィッシュの2回目です。今回はネタバレを含むのでお気をつけください。


ーーーーーネタバレ禁止ーーーーー


 さて、私たちはフィクション作品でのみ、死の不可知性を超え、主観的な死に触れることができます。僕の提唱する「アニメ療法」 を漫画・アニメを通した安全な位置での擬似体験とするなら、「死」を扱った作品は最もインパクトがあるでしょう。しかも『バナナフィッシュ』は、どのように死ぬかというアッシュの主観的な死を代理体験するだけでなく、英二の立場から相手の死を客観的に受け入れなければならないという、一粒で二度の情緒の破壊をもたらします。


 作中で触れられるヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」では、雪の上で凍り干からびた豹が、頂上へと辿り着くことなく孤独に死んでいくのを覚えているでしょうか。

 アッシュは欲しかった愛を手に入れ、彼なりの神の家へと辿り着き、満たされた最期を迎えます。アッシュにとっては幸せの形かもしれませんが、英二と共に「君は豹じゃない」と語りかけた私たちの「生きて欲しい」という懇願は届かないのです。


 他人の死生観や生き方に土足で踏み入れない切なさ、それを尊重するために自分の心の器を無理やり押し広げる苦しさ、もしあの時ああしていればという出口のない身を苛む後悔さえも、私たちは生々しく擬似体験します。


 今回Xで皆さんの阿鼻叫喚を見て興味深かったのは、誰もがこの別れを擬似体験ではなく、今なお傷が癒えない自分の原体験として語っていることです。当時の連載少女漫画雑誌の年齢層を考えると、本当の親しい人を喪うより先にアッシュを亡くしている人も多いからかもしれません。


 そして、フィクションの死の擬似体験は何度も追体験できるところが現実と異なります。新たな解釈を求めて読み返し、奇跡のアニメが出たからと見返し、時が癒した瘡蓋を剥がし、大人になった思考でより深く傷を抉ることができます。凍てついた変えられない運命の山道を、頂きの僅かな光を目指し彷徨って干からびる、私たち自身がキリマンジャロの豹になっているのでしょうか。


 前回の投稿で悲しみのカタルシス(浄化作用)について触れました。バナナフィッシュは アニメ療法 的であるとともに、私達読み手をより徳の高い人間へ導き、悟りを開かせるための修行であるとすら言えるかもしれません。


 考えればアッシュの人生は、仏教でいう八苦、愛別離苦(愛するものと別れる苦)、怨憎会苦(怨み憎まねばならないものと会う苦)、求不得苦(求めて得られない苦)、五蘊盛苦(総じて人間の活動による苦)に満ち溢れてますよね

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