国境の暗く長いトンネルを抜けるとそこは。
ここに悪党を護送する刑事が二人いる。彼ら二人の間には前科十数犯の凶悪殺人犯が座っている。
「おい、次の駅で降りるぞ。起きろ」
若い方の刑事が俯いている護送犯に声をかけた。
「ああ、起きてるよ。喉が渇いたな」
護送犯は顔をあげた。短髪で右の目尻には大きな傷跡がある。悪党らしい顔だ。
「降りた駅で何か買ってやるから、しばらく我慢しろ」
老刑事の方が答える。
「悪いな、刑事さん」
この会話からはさほど悪い奴に見えないが、もちろん極悪人である。何処で手に入れたのか小さなガラスの破片が手中にあり、寝たふりをしつつ小一時間ほど前から腰縄の切断に精を出していた。
すなわち彼はこの状況からの脱出を目論んでいる。
その為には何人を殺そうがまったく厭わない、そんな心持ちで。
そこから車両の後方へ数席離れたところに恋人達が座っている。
「次の駅で降りて、歩いてホテルに向かおう。ルミちゃん」
丸っこい男性が声をかけた。丸い顔と丸い身体、声さえも丸みを帯びて、とにかく彼は丸かった。
「…そうね。少しだけ疲れたわ。美味しいものを食べてゆっくりしましょう」
空手2段のルミちゃんは返事をするが、内心彼女は旅の途中での別離を決めている。
(鈍行列車に安ホテル、多分これから食べるものもB級グルメでしょうね)
「うん」
彼の返事は彼女の耳にはそう聞こえる。
(ああ、いやだ。子豚ちゃんだわ)
しばらくの間とはいえ、どうしてこんな男に関わってしまったのか、自分でも不思議だと思えるくらいにその心は醒めている。子豚は可愛いかもしれないが、自分の彼氏にするのは話が別だ。綺麗に別れようとは思っていない。子豚が少しだけ傷つく別れがあるのならそちらの方がいい。
彼の丸い目から空手2段のルミちゃんは目を逸らした。
ドアの近くには地元の女子高生が三人で座っている。
「ひょうのぶひゃふもひんろかっらわへ」
音楽の才能があるお下げ髪が欠伸交じりで二人に話しかけた。
「ホント、ホント。澤村先生ってレギュラー組ばっかり贔屓するしね」
短髪狐顔の女子高生は膝の上のスポーツバッグを一発軽く叩いて文句を言った。
その打撃音ではなくバレー部顧問の名前が出たところでピクリと隣のポニーテールが肩を震わせる。
「早く春休みにならないかなあ」
歌唱力には自信のある狐顔が浮かない顔で呟く。
「芸能界デビューとか夢みたいな話はないかしら」
彼女は顧問のことなど、どうでもよかった。ひたすら部の先輩が嫌いだった。
大人しそうな外見とは裏腹にダンススキル抜群のポニーテールは頷くだけで黙っていたが、部活がしんどいことと顧問に大いに不満があること、春休みが待ち遠しいこと、そしてデビューは憧れであること、すべてに同意してひとつずつ頷いた。
まだ1月である。列車の窓の外には雪が舞っている。つまり春休みまではだいぶ日がある。
三人が三人とも放課後の部活動にウンザリしているが、その理由はそれぞれ少しずつ違う。
女子高生のふたつ横の席に二人の年輩男性が向かい合って座っている。
「先生、次の駅で降りますんで」
くたびれた赤いネクタイを首にぶら下げ、怪しい形の銀縁眼鏡をかけたこの男は東京の小さな芸能プロで働いている。
「ふむ。そこから歩くわけか、この私江の川が」
先生と呼ばれ、尊大な態度で腕を組んでいるのは演歌歌手の江の川大作である。彼は20年ほど前『那珂川慕情』というご当地ソングで局地的な小ヒットを飛ばした。それが唯一のチャートイン曲だ。
その頃よりも腹回りや態度はずっと大きくなったが、反比例して彼の人気や営業成績は縮小減退衰弱の一途を辿っている。それでもこの見せかけの威厳とやはり見かけは豪華な舞台衣装を維持することが自らのアイデンティティであると彼は信じて疑わない。
「はい、先生。申し訳ありまへん。リサイタル会場まで少しだけ歩いてください」
(タクシー代さえ会社からは出なかった。まったく期待されていない)
銀縁眼鏡はどこまでこの元スターを甘やかしていいものか迷っていた。出来うるならば今は売れていなくても今後が期待できる、そんなアーティストを担当したいと彼は切に感じている。会社にはその希望を伝えているがそもそも彼の会社にそんなホープはいない。つまりどのみち将来にわたって彼に希望はない。
惰性でもってこのロートル演歌歌手をあたかも大スターのごとく扱ってはいるが、彼は江の川のことが大嫌いだ。
連結ドアの近くに浅黒い異国人が立っていた。
大柄ではないが目つきは鋭く、引き締まった筋肉をしているし、他にも足下をよく見れば恐ろしい秘密を持っていることが判るはずだ。ただしそれは彼が纏うロングコートがほぼ覆い隠し、今現在は誰かの目を引きつけるまでには至らない。
今のところ彼の正体は不明である。何処の国から来て何処へ行くのか、いい人なのか悪い奴なのか。だが彼のロングコートの内側に一丁の拳銃が入っていることも確かである。
彼は呟く。
「Ungangibamba ngize ngigoduke ngibulale zonke izinja zikahulumeni?」
悪い人間に決まった。
列車がトンネルに入り、車内の灯りが薄暗く点灯した。
凶悪犯も別れたい女もバレー部の女子高生も売れない演歌歌手も正体不明の(悪い)男も、すべての乗客の顔が薄暗い蛍光灯のせいで憂鬱さを増す。
次の瞬間、ガタンと一際大きく列車が揺れ、停止した。
アナウンスが入る。
「ぇ申し訳ありません。ぇ原因は不明ですがぇ停電のため、ぇしばらく停車いたします。ぇそのままお待ちぇください」
大雪で送電線が異常をきたし、列車が停止することはこの地方ではさほど珍しくない。だから誰もそれほど慌てなかった。そんな日常を知らぬ異国の男さえも。
だが、次の事態は誰にとっても想定外だったかもしれない。
照明が一斉に消え、トンネルの中にある車内は漆黒といっていい程の暗闇に落ちたのだ。
「あ」
「きゃ」
「え」
「お」
「ま」
「ららら」
「Hmmm」
乗客達はそれぞれ大きな、あるいは小さな声をあげる。
この時間は誰かにとってはチャンスであり、誰かにとってはピンチだっただろう。
刑事たちが慌てる。
「おい、動かずにいるんだぞ…あっ!」
「どうした」
「先輩、…腰縄が外れてます。逃げられました」
「何だと!馬鹿な」
「いつの間に縄が切れたんだ」
恋人たちは諍いを起こす。
「ねえ。私と別れて。ううん、スッパリ切れてほしい」
「ぶひ?な、何だい、ルミちゃん。いきなり」
「この暗闇がチャンスだと思ったの。私、本当はあなたみたいなB級男が一番嫌いだわ」
「意味がわからないよ、ルミちゃん。こんなに楽しい旅行の最中に」
「そんなに楽しい旅行中なのはあなただけなの」
女子高生達は顧問の悪口で盛り上がる。
「顧問の澤村先生を嫌いなのはあなただけじゃないわよね」
「澤村の話はやめて」
「まあ、まあ、聞いて。あの顔で不倫てどう思う」
「ええ?不倫?あのゴリラ顔で。誰と?ゴリラと?」
「アハハハ、馬鹿ね」
「やめようよ。そんな話」
「ちょっと待ってって、モエ。あのゴリラが誰と?」
「それがね、部員の一人じゃないかって、サチが」
「ぐえええ。うっそー。キモーい」
「やめてってば。ホントに」
「さっきからモエは何でそんなに暗いの」
演歌歌手は我が儘である。
「おい。何でこんなに暗いのだ。どうした」
「どないも何も停電ですがな」
「うーむ、この私江の川は貧乏なのと暗いのは苦手なのだ。何とかしなさい」
「どうにもなりまへんがな。無茶言わんといてください」
「そこを何とかするのがマネージャーの仕事だろう。この役立たずが」
「…何ですと」
「まったく。お前なんかと一緒に仕事してるせいで運が落ちたようだな」
「…わかりました」
「うん?」
「これからはお一人でやりなはれ」
「何を言い出したんだ、お前は」
「あんたとはやっとれんわ。ほなサイナラ」
「お、おい!こら!待て!どこへ行く?」
恋人と別れたルミちゃんはトイレを探し、刑事は逃げた犯人を追う。
「トイレはどこへ行けばいいのかしら」
「くそ、暗くて何も見えん。お前ら、どけ!」
「警部、そっちで奴の声が聞こえませんか」
「うむ。絶対に逃がすな」
「くそっ、捕まってたまるか。どけ!邪魔だ!」
犯人はルミちゃんと謎の外国人を押しのけようとした。
「何よ。あんた。エラそうに」
「Wena mfethu!」
「お前だよ!どけ!殴るぞ、こいつ!」
パンッ
響く銃声と誰かの倒れる音。
「銃声だ!警部!なぜ?誰が?」
「Ungasondeli kimi izinkawu yellow!」
マネージャーが音に気づいて騒ぐが、喧噪の中かき消される。
「何や何や。今の音は。ただ事やないで」
女子高生達はまだ何も知らない。
「…何か騒がしいわね。でも顧問と部員の不倫なんてただ事じゃないわよ」
「不倫の話はもうやめて。…えっと、それよりさ、今日カラオケ行く?」
「カラオケ?行く行く!」
「カラオケ楽しみ!モエも歌うよね」
「いいけど、私アンナほど上手くないし」
演歌歌手と刑事の会話がなぜか噛み合う。
「まったく…あんなに上手くいかんとは。馬鹿マネージャーめ。何だ、あの態度は」
「あの態度に騙されました。護送中静かでしたから」
「だが、銃は持っていなかったはずだ。誰か撃たれたのか?」
「む、そういえばこんな時、闇の中で歌う歌手の動画があったな。誰もが心を打たれていた」
「だがまずは現状把握だ。下手に騒いだら車内はパニックになる」
撃たれた犯人は何とかヨロヨロと立ち上がって、ルミちゃんにすがるのだが。
「ここは何処だ。俺は誰だ。いかん、パニクるな。うう、俺の腹が血で濡れている」
「ま、まだ濡れてないわよ。トイレの場所を聞いただけなのに失礼ね!」
「ぐわっ」
犯人は奥歯を折られて、また通路に倒れこんだ。
「殴っちゃった。ごめんね。でもトイレのドアにもたれかかってるあなたがイケないのよ」
「ううう」
「ようやく辿り着いた。…あっ、トイレの中側から鍵が」
演歌歌手は歌い出す。
「では皆様、お聞きください!私、江の川大作で那珂川慕情(なかがわぼじょう)という絶妙な歌でございます」
「いかん、幻聴か。妙な歌が聴こえる。血が流れて…」
犯人は通路を這いずって進んだ。
「♪あなたの涙が酒場にしみるぅ~ 流れぇ流れて阿字ヶ浦の浜へ~」
「vele kumele ngiphume lapha…」
謎の外国人は謎の言葉を呟いた。
「胸も痛い」「騒がしいな」
犯人は息も絶え絶え、しかしベテラン刑事はその姿を見失っている。
「♪胸騒ぎのぉ 大洗(おおあらい)の浜にぃ~」
演歌歌手のご当地ソングは絶好調である。
ルミちゃんは何度もトイレをノックする。
「ねえ、このお手洗い、誰か入ってるの?教えて」
マネージャーは何度目かの苦悩をする。
「ホント教えてほしいでんな。何であんな曲が売れたんだか」
「アンナは演歌もイケるよね」
女子高生はまだ何も知らない。
「こっちは?このトイレはイケるの?もうピンチなの!あぁ!」
るみちゃんのピンチ。
「不倫でピンチの澤村か。あいつって、ヤバくね?」
ルミちゃんもピンチならバレー部顧問もピンチ。
「この出血はヤバい。…奥歯も折れてる。あの女…」
そして犯人は死をそろそろ死を迎える。
「もう漏れそう。心も折れそう」
ルミちゃんもそろそろ限界を迎える。
「誰か助けてくれ…」「助けて、お願い」「ngisize」
犯人とルミちゃんと外国人、魂の叫び。
「お助けしましょう。わかりました。何曲でも」と演歌歌手。
「何という難局」とベテラン刑事。
「僕の心は今、南極の氷のように冷えてる。ルミちゃん…」とフラれた男。
「Phuma lapho. Isilima wena」と謎の外国人。
「ふう。身体が冷えていたせいかしら…。間に合ってよかった」
ルミちゃんセーフ。
「ワシの人生やり直し、間に合うやろうか?本物のスターを育てたいんや!」
マネージャーの決心はセーフかどうか。
謎の外国人と空手二段のルミちゃんが出会った。
「Abantu bakuleli lizwe bayahlanya…」
「何よ!またトイレの前で!本物の痴漢なの?」
「kumnyama kakhulu」
「外国人?触らないでってば!!えいっ!」
「wow!ubuhlungu…」
ドタッ。ルミちゃんの突きで気を失う外国人。
「あら、またやっちゃった。…悪い!」
女子高生達の会話も核心へ。
「何が悪いって、やっぱり不倫はねえ」
「もう言わないで!」
「どうしたの?モエ」
「澤村先生の相手って…その」
「まさか」
依然として刑事は犯人と銃声の元を捜している。
「まさかこんな状況になるとは。犯人はどこに行った」
「銃はどこだ。誰が撃った」
演歌歌手の妙なご当地ソングはクライマックスを迎える。
「♪捜し物は何ですか それより僕と取手(とりで)に行かないかぁい~」
「もうトイレには行ったわ。大きなお世話よ」
ルミちゃん、そうだけど。
「大きな汚点となるかもしれぬ。ベテラン刑事として」
刑事は心配になる。
「ベランダで掲示を…掲示を一人きりでしていたら、澤村先生が来て…」
女子高生の告白。
「キャーーッ♡!」
「悲鳴だ!誰か撃たれたのか?!」
刑事の勘違い。
「悲鳴も出るわよ。容疑者はモエちゃんだったのかあ」
女子高生は不倫の犯人を確定する。
「容疑者?そこに犯人がいるのか?どこだ?」
刑事は女子高生に惑わされる。
「容疑者って言わないで。真剣だったの…2学期までは」
「楽器がないのはキビシーが、要は喉をしっかり開けることだ」
歌い終わった演歌歌手はいきなり歌唱アドバイスをする。
「開けたのは誰だ。窓を開けた奴がいるぞ!」
若い刑事は謎の外国人が倒れているのに気づいた。
「警部!警部!こっちです!拳銃を持った男が倒れています!」
「むむむ。こいつは何者だ」
「拳銃を持った男が倒れていて、護送犯はいない。くそ、意味不明だ」
「♪すべてを受け入れてぇ~ それで駄目なら~いいじゃないのぉ いばらきぃ~。こんな具合だ」
演歌歌手の講義は実地を交えて続いていた。
犯人は列車の床をはいずり、ついに振られた男の席近くで息絶える。
「ハアハア、…もう駄目だ。…この奥歯は…やるよ。何だお前…丸いな…ガク」
女子高生達の話は刑事の誤解を招き、歌声はマネージャーの耳にとまる。
「奥歯にものが挟まったような言い方ね。結局モエは澤村とどうしたいの」
「殺してやりたいわ。あんなの、ううう」
「どこだ?殺しか?犯人はどこだ。俺はもう泣きたくなってきた」
「泣かないで!泣かないで、モエ」
「そうよ、モエ。何なら今から歌おう!元気が出るよ、きっと」
「そうよ!三人で歌います!曲は『赤いカーネーション』!」
「ルミちゃん、僕はこのままバケーションに行くよ…あれ?何だ?ポケットの中に何か」
フラれた男がようやくポケットの中の奥歯に気がつく。
「♪ポケットの中の切符はつくばエクスプレス 線路に咲いた 赤いカーネーション~」
「♪赤いカーネーション~」
女子高生の歌声が車内に響いた。
ルミちゃんは生き別れの父に巡り会う。
「うるさい娘たちね。さっきの人の方がよかったわ。特にあのイントネーション」
「私江の川のことかい?」
「わっ。そこにいたの?ビックリさせないでよ。あの歌、私の母が好きだったかも」
「20年前の曲だ。生き別れの娘が3歳の頃だからな」
「20年前なら私も3歳よ。偶然ね。胸に響くものを感じたわ」
「私の故郷、大洗が舞台でね、思い入れがあるのだ」
「…私も大洗出身よ」
「ほう、なんという巡り合わせ」
「5歳で母が離婚してひたちなかに越したの」
「川向かいに移動しただけだな↗!うん?5歳で…か。まさか」
「え?」
「お前はルミなのか?」
「私はルミよ。…どういうことなの?」
「真っ暗で何だかよく判らんが、間違いない。ルミ、私だ。お父さんだよ」
「あ、あなたが私のお父さん?」
「どうりで私の声に響くものがあったはずだ」
マネージャーもまた歌う女子高生達に巡り会う。
「…巡りあった気がする。この歌声…君たちか。心に響くもんがある」
「やだあ、この関西の人、こんなところでスカウト~?」
「これは運命なんやろか…。よろし!三人まとめてデビューや!この後東京行きの準備やで!」
「えええええ!?ホントにスカウト~!」
刑事は謎の外国人がスカートをはいていることに気づく。
「ええ!?本当にスカートだ!警部、この外国人、コートの下にスカートを」
「…それは…とりあえず置いておこう。それより奴の行方だ」
ベテラン刑事は考えることの多さにウンザリしていた。
その時、ようやく列車の照明が復旧し明るさが戻った。
列車はゆっくりゆっくりと前へ進み始めた。人が歩むほどの速度で列車が動く。
刑事二人は自分たちが確保している異国人を改めて見て驚愕した。
「有名な国際手配テロリストではないか」
「私も手配書で知っています。驚いた。アフリカの民族衣装だったんですね、このスカートは」
「ukuzilibazisa nje…」
さらに二人は連結器付近の死体を発見する。護送していた筈の男だ。銃痕はテロリストの仕業だろうか。
「しかも何でこいつ顔を殴られてるんだ。お前がやったのか?」
国際指名手配の男が首を振る。
「Akumina」
若い刑事は顔を顰める。
「何語なんだろう」
それでも顔をあげ、老刑事に笑顔を向ける。
「護送犯の死亡は痛いところですが…こんな大物捕まえましたし、署長賞出ませんかね?」
出るわけないだろ、とベテラン刑事は思うが口には出さない。
「始末書に何て書いたらいいんだ」
芸能プロダクションのマネージャーは照明の下で三人の女子高生の素顔を確認して、失礼なことを言い始める。
「あら…いまひとつやな」
「何ですって!」
「ギャーギャー」
「どうしよう。芸能界だなんて」
「ギャーギャー」
「サインもらわなきゃ」
「ギャーギャー」「ギャーギャー」「ギャーギャー」
「ギャーギャー言わんとき。ああ、もう喧しい。しまった、またおかしなのと関わってもうた」
「何よギャー」「デビューよギャーギャー」「サインの練習しよっと♡」
「何でワシのコートにマジックで!やめなはれ!」
「キャー怒られた♡」「キャー♡」「澤村のバーカ♡」「バレー部なんかやーめた♡」
江の川大作と娘がひしと抱き合い、涙を流す。
「悪かった、娘よ。私江の川は目が醒めた。真面目に働いてお前に恥じない人間となるよ」
「お父さん、私こそ性悪女でした。これからは真心を大事に、お父さんの『女の真心 いばらき一本勝負』のように生きていくわ」
「おおう。それは私の10年前の最後のCD。24枚しか売れなかったのに知ってるのか」
「お父さん、あれはひどい曲よ。でも死んだお母さんが20枚買ってきたのよ。あの時は何でこんなクソみたいなCD買うのって思ったけど」
「…お、おう」
恋人に別れを告げられた男が一人、車窓の外を見つめる。
「…明日は知床まで行ってみよう。愛する女性に(一方的に)別れを告げられた僕だが」
失うものもあった彼だが、停電の最中に得たものもある。
彼のポケットには誰かの奥歯が入っている。
「どうして僕のポケットに奥歯が入っているのか、まったくわからないけれど」
暗闇の中で誰かが入れたのであろうが、それよりも大切なことは。
「誰が入れたかはともかく、大切なことはその虫歯跡にダイヤらしきものが」
なぜか大粒のダイヤが詰まっていた。
この旅で恋人に捧げる予定であったプロポーズ用のものと見較べる。
「多分本物のダイヤだ。この輝き。そしてメッチャ大きい」
自分は幸運なのか不運なのか。
次の駅で降りたらば、彼女と行く予定であったB級グルメへ行こう。
「とりあえずミソラーメンを食べに。ぶひ」
若い刑事がハッとして言う。
「そうだ。窓を開けたのは誰なのですか」
「うむ。誰かが外へ出た可能性がある」
芸能プロの社員がそれに答えた。
「開いた窓はこっちの、ほらこのへんでっせ」
彼は自分の座っていた席近く、奥の方を指さす。
「いきなり誰かが開けて、寒いがな!言うて文句いうヒマもなく」
「ギャーギャーギャー」
「もうあんたら、ギャーギャー言わんといて!頼むから」
「そうです。誰かが出て行きました」
演歌歌手と手を繋いだ演歌歌手の娘ルミちゃんが手を挙げて証言した。手が多い。
「?」
ダイヤ入りの歯をポケットに入れた丸いフラれ男が周りを見渡す。
「でも、みんないるよ」
演歌歌手の娘は現在実は金持ちになっているフラれ丸男を睨んだ。
「私が嘘を言ってるっていうの?フラれた腹いせ?この貧乏B級男」
「うちの娘を侮辱する者はこの江の川が許さん」
「誰だあんたは。あんたこそルミちゃんの何なんだ。ぶひぶひ」
「気安くルミちゃんなどとお前こそ」
ため息をつきながらベテラン刑事が言う。
「トンネルの向こうはわりと高い鉄橋だったはずだが」
若い刑事も頷いた。
「いやな予感がしますね」
列車はゆっくり進み、トンネルを出る。そこはすぐに鉄橋。
「誰かが落ちてる!」
演歌歌手はコブシを回して息を吞んだ。
真っ暗なトンネルから走り出て落ちたらしい。
ゴリラ顔の男が仰向けに倒れて、口から泡を吹いている。
「誰だ?」
「知らない人でんな」
「死んでるか」
「いやピクピク動いてます」
「あれ?」
「澤村先生!」
「不倫ゴリラの澤村だわ」
「あれはゴリラなのか」
「いや一応人間だ」
「何でこんなところに」
「それ誰?」
「誰なの?」
「誰なんだ」
「不倫…?」
「I-WHO?」
列車が少しずつスピードを増す。
「ぇ大変ご迷惑をおぅかけ致しました。ぁ列車はこれよりぇ通常運行をぇ致します。ぇご乗車の皆様には、ぁ大変ご迷惑を」
読んでいただきありがとうございます。大好きなドタバタ群像劇を書きましたが、うまくまとまったでしょうか。どうでしょうか。