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名もないあなたへ

プロローグ

      春の訪れ



 人生で一番の衝撃だった

 

 はなびらが舞うほどに


 後にも先にも、これほどまでに夢中になったことは無かった


 すぐ追いかけたいほどに


 いつまでも忘れられない月だった


第一章

    つきあかりのもと



 寒い冬があけ、積もっていた雪はもう見る影もなくなっていた。この歳になると時の流れが意外と早いことを実感し始める。今日は来月の入学式に向けてスーツの買い出しに来ていた。

「雫ももう大学生なんて大きくなったねぇ。」

 おかぁが喜ばしいように、でもどこか悲しげに口を開いた。

「もう疲れた~適当に決めちゃおうよ。」

 そんなことは気にせず私が続く。だって、「どれがいいかな、あれなんていいんじゃない?」みたいなのを二時間ぐらい続けている。うちのおかぁはいつもこうだ、昔っからイベントごとには当人以上に気合が入っている。

「いいじゃない、こうやって言えるのもあと何年あるかわからないんだから。少しは付き合いなさい。」

 でも~と言おうとするとおかぁがそれに口をかぶせてくる。

「後であそこのクレープ買ってあげるから。」

「ん、でもあと二、三着で決めてよね」

 私はあきらめて従うことにした。

 やっとスーツが決まって、クレープ屋に向かうと行列ができており仕方なく最後尾に並ぶ。このショッピングモールはここら辺では一番大きく、結構人でにぎわっている。その中でも有名なのがこのクレープ屋さんだ。一度テレビで取り上げられるほど人気があり、なかでも女子高生たちに人気で最近流行のインスタグラムに投稿している気がする。

 無事クレープを確保し、食べながら駐車場に向かう。外は夜風が気持ちよく吹いて花びらが舞っている。

「あ、おかぁ今日は月がきれいだよ」

 今日は満月にはなってはいない月だが、私はこの形が好きだ。よく例に挙げられる満月や三日月なんかも綺麗だと思うがなんというか、完成されていない形、不完全ではあるがだからこその美しさや尊さというものがあると思っている。私は今の月のような少し歪な形の方が綺麗だと感じる。

「確かに満月じゃないけど綺麗に出てるわね」

 視線を月から戻した瞬間音が消える。風景が消える。何も考えられなくなる。それほどまでに見惚れてしまった。私の隣を横切り、さっきまでおかぁと一緒にいたショッピングモールに向かっていた。その背中を思わず目で追ってしまう。

 今まで見たどの月よりもきれいだった、、、


第二章

    色づく世界



 あの衝撃から二,三週間がたつ頃、私は大学の入学式へと足を運ばせていた。

「しずくってば!」。

「ん、綾香どうしたの?」

 隣を歩く絢香が私を大声で呼ぶ。

「どうしたの?って、何度も呼んでるのにしずくが無視するんじゃん!」

 だいぶ呼び掛けていてくれたのか結構怒っていた。

「ごめんごめんちょっと考え事してた」

「なんか最近ずっとそんな感じだよね。通話でもたまに返事ないし」

「ごめんて」

 あの日こと、私は今まで感じたことのない気持ちを必死に理解しようとする。名前も知らない、顔も今では思い出せない。後ろ姿だけは覚えていて、静かでどこかはかない印象だった。それからというものの、ずっとその人のことを考えている。あの人はどんな人だろか。

 絢香とは幼馴染で今までずっと、小中校と同じ道を歩んできた。ちなみに大学も同じところに行く。特に示し合わせたわけではないが、学力が同じぐらいなため自然とこうなった。

「今日から大学生活か、楽しみだなぁ!」

 絢香がそう言うとさらに続けて喋る。

「どっかに良いひといないかな。雫、一緒に彼氏づくり頑張ろ!」

「確かに楽しみだね。私はいいや、あんまり興味ないし絢香頑張ってね」

「もう!また雫はそういう事言う。こんなに一緒にいるのに今まで浮ついた話の一つも出ないなんてつまんなーい」

 そんなことを話していると大学まではあっという間についた。

 大学の入学式は今までのとはだいぶ雰囲気が違い、割と自由におしゃべりができた。そのおかげで友達も何人かできたし、なかなか良い滑り出しだと思う。連絡先を何人かと交換した後は絢香との待ち合わせの場所に向かう。もし仲いい人できたら呼んでいいよとは言っていたが向こうも誘って大人数になるのは嫌だったんで一人で向かう。

 集合場所にした学園長の像の前までくると絢香はまだ来ておらず、少し寄りかかって待つことにする。

 流れる人混みをぼーっと眺めているとすぐに上体をもとに戻す。

 そこには、あの夜に目で追った彼の後ろ姿があった。スーツを着てないところを見ると新入生ではないだろう。しかしながら驚きを隠せなかった。前とは違いがやがやとした音はよく聞こえ、どくん、どくん、という早いリズムで鳴る音は身体中を響き渡っていた。

追いかけようとしたところ腕をつかまれ大声で名前を呼ばれる。

「しずくってば!」

「あ、どうしたの?絢香」

 そこには少し怒った顔をした絢香がいた。

「どうしたのじゃないよ!てか、このやり取り今日二回目なんだけど!」

「そう」

 上の空な返事だったからか絢香はさらに怒ってくるが、それを無視して私は口を開く。

「絢香」

「ん?なに!」

「私、好きな人できたかも」

「え?急にっ!!!!????」

 今まで人を好きになったことがなかった。だからあの夜から抱いている気持ちが分からなかった。今でも名前はつけられない、つけたくない。名前をつけたとたん薄っぺらいものに変わりそうだから。だけどこの胸の高鳴りは、熱さは、何だったのか理解できた。

 私は私にとって唯一の月を見つけたんだ。

 それから二人でいろんなサークルを見る。

「ねえ雫はなんのサークルに入りたいか決めた?」

「うんうんまだ。絢香は?」

「んーいくつか候補はあるんだけど文芸サークルが気になってるんだよね」

「あー絢香小説とかよく読むよね。あとは?」

「あとはスキーサークルとか合唱サークルなんかもいいよね!どっかの運動系のマネージャーとかもいいし、、、」

 結構あるのね。私もどっかサークルは入っとこうかな?

「絢香決まったら教えてよ。同じところに入るから」

「いいけど、好きなことしなくていいの?」

「試食サークルなんかがあればいいんだけど」

「何そのサークル」

「料理研究サークルとかが作った料理を食べるの。すごくおいしそうじゃない?」

「太りそうだし、そんなに食べたいなら料理研究サークルに入ればいいじゃない」

 確かにそうだけど

「面倒ごとはいや」

「もうどこにも入れないわよ」

とりあえず気になったサークルのチラシを片っ端からもらって帰路につく。

夕日になる前のさす日に雲が軽くかかっていて、くすんだ空気を現す。その景色はとても薄めいていて、黄昏時よりもさらに夢と現実の狭間を思わせる。きっとあの夜から私はこの世界を彷徨っていたんだろう。だけど今日、はっきりと現実に変わった。

「それで、どんな人なの?好きな人って」

「いやそれが良くわかんなんだよね」

 笑いながら答えると、絢香は「はぁあ?」と言ってきたので、あの日の夜のことと、今日その彼を大学内で見つけたことを伝えた。

「悪いことしたわね」

「何が?」

「いや、私が腕をつかんで止めたとき追いかけようとしていたんでしょ?だから邪魔しちゃったなって思って」

 なんだそんなことかと思い声をかける。

「多分追いかけたところで声はかけれなかったから、そんなこと考える必要ないよ。何も考えてなかったし」

 続けて私が言う。

「悪いと思うなら、化粧とかファッションとか教えてよ」

「それはいいけど」

 じゃあ!と絢香がこぶしを出してきた。

「なにこの手は」

「彼氏作ろう同盟だね!」

 とびっきりの笑顔を向けてくる。

「だね!」

 その笑顔につられるように私も笑顔になる。

「ということで今日から勉強会ね!とりあえず私の家に来て、今まで買ってきた雑誌とかあるし」

「え~今日からやるの?疲れたし明日からでもよくない?」

「だ~め!ただでさえあなたは他の子に比べて遅れてるんだから、善は急げだよ!!」

 しぶしぶ承諾すると絢香は照れくさそうにぼそっとこぼした。

「それにやっと親友とこういう話で盛り上がれるようになったんだから、楽しみなのよ」

「もう絢香大好き」

 そう言いながら抱き着くと困ったように「恥ずかしいから離れなさい」と言ってきた。

 ほどなくして絢香の家につく。玄関入って真正面の階段を上がる、するとドアが四つあるので一番奥の部屋へと進んでいく。幼少の頃から何も変わらない構造、幼少の頃からだいぶ変わった絢香の部屋。絢香の部屋はベットとテレビ、本棚と勉強机が置いてあり、床には円形のカーペットが敷いてある。全体的に白色で統一されており、ところどころピンク色で飾られている。枕元にはぬいぐるみが置かれており、本棚の中には雑誌だらけかと思いきや文庫本しかない。

「ぐへへ、これがおなごの部屋か」

 なんてことを言っていると後ろから頭をたたかれる。

「何馬鹿なこと言ってるの。今、ママにお菓子とお茶お願いしたから、先に勉強会の準備しちゃいましょ」

 そう言って絢香がクローゼットを開けると、中には箪笥と幅が狭く背の高い本棚が置いてあった。そっちの本棚には大量の付箋が貼ってある雑誌や教科書などが並んでいた。

「絢香って意外と努力家だよね」

「意外とって言われるのが嫌でクローゼットに隠してるの」

 そう言いながらてきぱきと準備を終えると、ちょうどよく絢香のお母さんがクッキーと麦茶を持ってきてくれた。

「春香さんありがとうございます。」

「ありがと、ママ」

 二人でお礼を言う、春香さんは「よかったね絢香」と言うと追い出されていた。「雫ちゃんもゆっくりしていってね~」という声が小さくなりながら聞こえた。 

 それから夜まで二人で勉強会をした。結局今日は私が絢香から色々メイクを教えてもらうだけで精いっぱいで他のことは後々やっていくことになった。最後に絢香と春香さんに別れを告げ、「お邪魔しました」と言い家を出る。自分の家までは歩いてすぐにつくが、少し立ち止まって今日のことを思い出す。 

 人混みの中見つけた彼は夜とは違う雰囲気をまとっており、昼間に浮かぶ月のような特別感を出していた。普段は見落としてしまうのに、一度見つけたらその人の視線を釘付けにする。この月が見えているのは自分だけかもしれないと錯覚させるほどに。

 ふと夜空を見上げると月は雲に隠れていた。


第三章

    失われない想い



 月は雲に隠れたまま季節は巡り、あの夜から何度目かの春がまたやってきた。今日は喫茶クローバーに絢香を呼び出して相談をすることになっている。この喫茶店は四人姉妹とそのお父さんが店を回していて、姉妹そろって美人と噂されているのだ。窓際にテーブル席が三つと厨房側にカウンター席が六つほど置かれている。カウンター席の上には亡き妻の写真が大事そうに飾られていた。

 先についていたのでコーヒーを飲んでいると絢香が到着し、手を振ってこちらに誘導した。絢香と会うのは大学を卒業してから二年ぶりだ。というのも絢香は大学を卒業してからすぐに東京にでている。一方私はと言うと、地元にとどまっていたのでなかなか会えなかった。

 軽く雑談をしていると絢香がしびれを切らしたのか聞いてくる。

「それで、相談って何?また例の人のこと?」

「うん、そのことだけど」

「あんた、いい加減忘れなさいよ!付き合ってる人いるんでしょ!」

 そう声を荒げた絢香が今は喫茶店にいることを思い出し、「すいません、すいません」と周りに誤っている。

 私は大学四年になった時、一年生の頃から言い寄られていた人の告白を受けることにした。こんなに想ってくれるならひとなら、あの人に変わる月になってくれると思ったから。でも違った。何度言葉を交わしても、身体を重ねて愛を確かめ合っても、あの人を想って勉強した化粧もファッションも、身体にしみついて忘れることを許さない。きっと地元に残ったのも、あの人にもう一度会えるかもしれないという淡い期待を抱いていたからだろう。

「うん、もう少し気持ちの整理を付けたら彼にも話してみるつもり。そろそろ前に進まないといけないから。今日は相談っていうよりもその誓いを、親友である絢香にしたかったの」

「そう、それならいいけど。頑張りなよ雫」

「あと、声荒げて悪かったわね」

 その言葉に私はくすっと笑い、返した。

「いいの、絢香がそうやって怒ってくれる時はいつも私のためだって知ってるから」

「それならいいけど」

 ほんとに絢香は私にとって太陽みたいな人だ。私が道を間違えそうになった時や悩んでいるときは、いつもこうやって照らしてくれる。ほんとに良い親友だよ。

 それからはお互い思い出話や卒業してからの出来事などに花を咲かせていた。そうして程よく時間をつぶすと、懐かしの店や公園、学校などを見に行き、気付いたころには周りは暗くなっている。

「絢香今日はありがとね。楽しかった」

「こちらこそありがと。またこうやって遊ぼうね」

そう言ってお互いの道を進む。今日絢香と会えてよかった、話せてよかった。おかげでより頑張らなきゃって思ったり、ちゃんと気持ちにけじめをつけなければと決意できたから。ほんとに良い親友だ。そう考えながら空に浮かぶ三日月を見つめた。

 それから数日後、今日は彼とのデートの日だ。お互い仕事をしてからはなかなか時間が合わず、今日は久しぶりなのだ。私はいつもより少しだけ気合の入った装いをし、デートへ向かう。

今日は遊園地に行く約束をしている。その遊園地はここら辺では唯一の遊園地で昔からデートだったり、みんなでワイワイ遊ぶ時の定番地とされていた。特に変わったところはないが、夏に上がる花火の一発目を観覧車の一番頂点で見たカップルは末永くお幸せになるとかいう噂があるが本当かどうかは未だに分からない。というかどこが頂上なのかはしっかりと確認するのは無理だろう。

 まずは先に乗るのはコーヒーカップでゆったりと慣らしていく。次にジェットコースターだ。ガタンゴトンとゆっくりと上がっていきそしてちょうど頂点に着いたところで一回止まり一気に加速する。

「なんでジェットコースターなんてものがあるのかな?しかも登ってる時が一番緊張するのに走り出したら走り出したで気が休まらないのはどう考えてもおかしいと思うんだけど」

「雫そんなに怖かったんだね。早口になってるよ」

「うるさい!」

「はいはいあとはゆっくりできるものを回ろっか」

「うん、そうする」

 そこからは絶叫系には乗らず少し暗くなって観覧車に乗った。

「やっぱりここからの景色はいいよね」

「そうだね、俺昔っから好きでたまに一人で乗ってたよ」

「観覧車に一人で?」

「わかってる変て言いたいんだろ。よく言われるよ」

「うん変なの」

「うっせ」

 そうして二人でケラケラ笑う。

 でも街灯の灯やらなんやらで本当に綺麗な景色だった。こうやって上から町を見るなんてことはあまり経験したことなかったから新鮮でなんだか少しテンションが上がっている。

観覧車から降りると次はお高そうなレストランへと行く。中は少し薄暗く、ウェイターさんの言葉遣いはどこまでも丁寧だった。そんななれない空気に緊張してると隣の彼も同じだったらしく、少し躓いていた。そんな様子を見ていると可笑しくて笑ってしまう。

「なにやってるの」

「こんな店なかなか来ないから緊張してるんだよ」

 全く、おかげで緊張はどこかにいっちゃった。

「こちらの席でございます」

 そうして通された席は窓側で綺麗な景色が見えていた。窓から見える景色は奥を見ると夜空と町の風景が重なりそうで重ならない。そんな景色になっていて非常に幻想的だった。

ご飯を食べ終え、初めて会計をせずにお店を出た。最後に夜景が綺麗に見えるところへ行く。今日は晴れていて本当に星空がよく見える。

レジャーシートを引き二人で横になる。星は全く詳しくなく、星座の名前とかも全然知らないがその景色に見とれてしまった。

「なんだか今日は綺麗な景色ばかり見ている気がする」

「そうだな。本当に今日は晴れてよかった」

「そうだね」

そうして夜空しばらく堪能しているとふいに彼から言葉を投げかけられる。

「少し立ってくれるかな」

 なんだろうと思い、言われるがままに立ち上がる。そうすると彼が片膝をつき始め、ぽっけから何かを取り出し、私の前に差し出してくる。

「雫、何があっても絶対に幸せにする。だから、あの月のように俺の生きる指針になってほしいんだ。結婚してください」

 そう言いながら手に持っていた箱を開けると中からダイヤモンドの指輪がきらりと姿を現す。

 突然のプロポーズに私は戸惑い頭の中は真っ白にって、気が付いたら涙を流していた。うれしいからではない。プロポーズは確かにうれしかったが違う、理由はさっきまで見ないようにしていたものを意識させられてしまったからだ。

「ごめんなさい」

 私は嗚咽を吐きながら誤って、逃げるようにその場から立ち去った。

 あともう少しで整理がつきそうだったのに、あと少しで。もしも今日じゃなかったら、もしも夜空の見える場所じゃなかったら、もしもプロポーズの言葉が違ったら、そんな言い訳が頭の中をぐるぐると回る。

 急いでその場から離れた後、気付けば涙は枯れていて、足取りはゆっくりとなっていてことり、ことりとヒールの音を鳴らせながら歩いている。ふと月を見上げると、こちらの気など知らないと言わんばかりに綺麗な顔を覗かせている。あの夜と同じ顔を。

 そんな私を照らすのは電灯の灯だった。 


第四章

    月明かりの下



 あれから何年がたつだろうか。また、この季節がやってくる。世界が色づいてからはあっという間で、私は自分の歳を考えるのも嫌になっていた。周りは次々に結婚していき、絢香も二児の母となっていた。東京に出てから仕事は順調で後輩からも慕われている。あの人に出会って努力をし、行きついた先がこの場所だ。だから毎年この季節になると、感謝の気持ちを込めて、月を見ながら彼を想う。

 仕事が定時で終わると、後輩からご飯に誘われた。普段なら喜んでご一緒するところだが、今日は先に決めていた予定があるので直帰する。

 家についてからシャワーを浴びるとドレスコードを装い、濃いめに化粧を施す。今日はこれから、行きつけのバーに行くところだ。そのバーはテラス席が設置されており、今日みたいに夜風にあたりながら飲みたいときにはちょうど良い。

 家を出て、ヒールであの時と同じ音を奏でながら向かう。ほどなくして目的地に着くといつものように立ち止まり、月を見上げてから中に入る。今日の月は私の好きな形をしていた。

 中に入ると一番奥がカウンター席、その手前側にテーブル席、左に行くとテラス席に出られるようになっている。カウンター席にいるマスターに声をかけるために歩み始める。がすぐに足を止める。その理由は簡単明白でカウンター席の一番右、そこには夢にまで見たあの後ろ姿があったのだ。

 その瞬間、あの時の感覚が再び呼び覚まされる。音が消え、風景が消え、何も考えられなくなり、その後ろ姿に釘付けになる。しかしその時間はあっという間で、きらりと光るものが目に入るとすぐに我に返る。再び歩み始め、マスターに声をかける。

「アメリカーノを一つ。それと、あそこの彼にベルベットハンマーをお願いするわ」

 何かを察したのかマスターは、「かしこまりました」とだけ言いやさしく、そして悲しい笑顔を浮かべカクテルを作り始める。

「お待たせしました。こちらアメリカーノでございます。」

「ありがと」

 そう言い、カクテルを受け取るとテラス席へと向かう。

「こちら、あるお客様からです」

 その言葉を背中で聞き、外に出る。

 月明かりに照らされながら、あの夜に舞っていた桜を思いだす。名前も知らない。いつまでも綺麗で忘れられない月を想いながら。

今宵も、月が綺麗ですね


エピローグ

      訪れない春


 人生で唯一焦がれた月だった


 その月に近づけるように


 同じように


 美しくなりたかった


 美しくなれた


 けれど私に許されたのは


 水面にその姿を想いうかべるだけだった


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