008 プロボーク
眉をひそめるナッシュにシーリスが真剣な表情で口を開く。
「このラダーシャ大天領はあの場所からそう遠くはない。緑翼団が終わった原因のあの遺跡。あたしは距離を取ったが、あんたは挑み続けてたんじゃあないのかい?」
その問いにナッシュが眉をひそめてから口を開く。
「まあ、そうだな。あの時の到達地点までは探索し終えている。ただ、それ以上はな。信頼できて、あそこに挑める実力があるクランってのはなかなかハードルが高いんだよなぁ」
「へぇ」
「だから……そのことについては」
「お、ナッシュじゃん。その子、新しい彼女?」
ナッシュが続けて何かを話そうとしたところに、横から声がかかった。
「おい、ふたりで話してるところを邪魔すんな。すみませんナッシュさん。こいつもう酒が回っていて」
「気にすんな。元同僚と飲んでるだけだ」
そうナッシュが返すと、酔っ払いの方の男がシーリスを見て「ああー」と声をあげた。
「この女、シーリスじゃん。偽ドラスレの仲間の。まさかナッシュにイカサマを頼んでんのか?」
「おい、バカ言うな。シーリス、手を出すなよ?」
ナッシュが慌てて酔っ払いを止める。かつての頃を思い出せば、次の瞬間には血の海になってもおかしくないと顔を青ざめさせたナッシュであったが、シーリスは「やんないわよ」と返した。
「お、おお。シーリス、君……大人になったんだね?」
「今あんたをぶっ飛ばしたくなったんだけど」
「止めて」
顔をひくつかせるナッシュに「やれやれ」という顔でシーリスはカウンターの椅子から降りた。
「もう行くのか?」
「飲みたいって雰囲気じゃあ無くなったからね」
「じゃあ、また時間を作っておくよ。シーリスたちがここを出る前に」
「うん? 分かった。それと忠告しておくよナッシュ」
「?」
首を傾げるナッシュにシーリスがこう口にした。
「ルッタと戦うのであれば初っ端から全力を出しな。でないとアンタは実力を出す前に終わっちまうよ」
その言葉に周囲から笑いが漏れる。
「おいおい、ナッシュに全力出させたら一瞬で試合が終わっちまうぞ」
「いくらなんでもあんなガキ相手に大人気ないだろ」
「風の機師団ってのは子供の虐待でも推奨してんのか?」
そんな声が出る中、ナッシュが困惑した顔でシーリスを見る。ナッシュとてルッタがただの子供であるとは思っていない。面白い試合になるとさえ考えている。けれども、シーリスの認識はナッシュの想定しているものから大きく離れているように感じた。
「なあシーリス。それ本気で言ってるのかい? 今回別にそちらは勝つ必要ないんだ。相応の実力さえ見せれば認めるってギルド長は言ってるんだよ?」
だというのにナッシュが本気を出して実力も見せずにやられてしまっては、善戦したという判定も下せなくなる。けれども、そんなナッシュの反応をシーリスが鼻で笑う。
「ああ、ナッシュ。アンタは勘違いしてるよ。本当にね」
「それは……どういう」
「悪いけどね。ウチの中じゃああの子がアンタに何分何秒で勝つかで賭けてんのよ」
「な!?」
絶句するナッシュにシーリスが挑発的な視線を向ける。
「アンタがどれほど強くなったかは知らない。けどあたしもこの五年を遊んで過ごしてきたわけじゃない。そんなあたしが勝てない相手にアンタは楽勝だとのたまうわけ? 勝って当然と考えているわけ?」
「……!?」
真剣な眼差しのシーリスにナッシュが眼を見開く。
舐めているつもりはなかった。ルッタを実際に見て、それなりにできる相手だとはナッシュも察していた。ただドラゴンに対してだけはマユツバと思っていた。やはりシーリスたちの助けか、罠を張った等して倒したのだろうと。それを餌にクロスギアーズの参加権を得ようと動いていたのだろうとも。
それを悪いことだとは思わない。剣闘士なんぞ目立ってなんぼだ。承認欲求を拗らせた人間がなるものだ。そんな世界に身を置くナッシュであれば、ルッタの行いを否定はできない。けれどもシーリスの言葉はそんなナッシュの認識を吹き飛ばすものだった。
「へぇ……なるほどねえ」
「おいナッシュ。そこまで言われて……うっ」
ナッシュが笑っている。けれども全身から湧き上がる闘気は周囲から人を遠ざけるほどのもので、実際にこの場にいた人間たちはその闘争の気配を前に一歩引いていた。
「やれやれだよ。どうやら瞬殺は免れそうだね」
「そこまで言い切るか。まったく、僕にここまでやる気を出させたんだ。シーリスのソレが拗れたショタコンの妄想じゃないことを祈るばかりだよ」
その言葉にシーリスの額に青筋が浮き出たが啖呵を切った手前「やれば分かるさ」とだけ返して店を出た。
なお、後日ショタコンがナッシュに喧嘩を売ったとの噂が港町に流れたことであの時ぶっ飛ばしておくべきだったと、最低でも否定しておくべきだったとシーリスが後悔したのはまた別の話である。
ショタコン:
ショタール・コンプレックスの略。
ショタールとはルイルイ・ニンジンの名著『ショタールインワンダーワールド』の主人公にして半ズボンが似合う美少年の名である。当初は彼に傾倒した読者をショタコンと称していたが、今は少年愛の人を指す言葉として広く定着している。
なおルイルイ・ニンジンは腐った女性の異邦人とも言われており、知性持ちのグールである可能性が指摘されている上に、彼女は著書の販売を布教とも言っていたために邪教信仰の疑いも囁かれている。