それはとても幸せなことなんじゃよ その6
思わず体が動きそうになった。どうしてだか分からない。この話だけでファントムを信用するなんてどうかしてる。これまでファントムの酷い行いを何度も見てきたじゃないか。でも、体の奥のほうで、地球に行ってみたいという欲求が芽生え始めていることを、僕は自分自身に隠せなかった。
どうして?
自分が『先祖返り』で火星人じゃなくなったから?
虐げられる対象じゃなくなったから?
そんなのはあまりにも身勝手だ。
ヨミ。
僕の脳裏にヨミの顔が浮かんで、僕の思考は停止してしまった。
カウントは差し出した手を下ろして、テーブルの上のカップの欠片を拾うと、自分の空のカップにことり、ことりと落としていく。
「まだ時間はある。考えておいて。でも、これに交換条件や付帯条件は無しだよ。どういうことか分かるかな」
「つまり、僕が地球へ行くことを条件に西部地区を消滅させる計画を反古にしてはくれないということか」
「仮にそういう計画があったとしてだけどね」
カウントは破片で満たされたカップのふちをなぞった。
「私は『先祖返り』としては初めての火星管理官なんだ。火星の記憶はないけど、できるだけ火星の人たちのことは気にしてきたつもりだ。でも、今の地球では火星人に人権を与えてないんだよ。残念ながらね。いや、むしろ地球では火星人を恐れている、といったほうがいいだろうね」
それでも――。
「それでも、彼らは、いや僕たちはここで生きているんだ」
自分でも驚くくらい、僕の声は弱々しかった。
「地球に行けば、君は何にでもなれるんだよ。たぶん君なら自分が望むもの、なりたいものになれる。それに、地球で高い地位に就けば、これからの火星の方針を自分で決めることもできるんだ」
カウントは立ち上がってボディスーツを着用し始めた。
「地球でも私たちはTBと呼ばれている。でもそれはThrowbackという意味じゃない。地球古来の文明はもう黄昏を迎えていて、このままだといずれ暗黒の時代が訪れる。だから私たちはTwilight Breakers、黄昏を破る者と呼ばれているんだ。未来への希望を込めてね。シル」
「はい」
「今のデータは消去するよ。すまないけど」
「分かりました」
空間に表示されていた画像が消えていく。シルの顔が残念そうなのは気のせいだろうか。
「任期終了に伴う管理官の交代は一か月後だよ。忘れないで。また連絡する」
ヘルメットを被ると、カウントは部屋を出て行った。
僕はしばらく動けず、ただテーブルの上の、欠片が詰まったカップをじっと見つめていた。




