参.難問
その頃柚月は、清名の後を追いながら、何をやらかしたんだろう、と考えていた。
が、これといって思い当たる節がない。
答えがでないまま、清名に追いついてしまった。
「俺、何かしました?」
柚月は清名の顔を覗き込んだが、清名はため息のような息を漏らしたきり答えず、とうとう宰相補佐官の執務室に着いた。
清名の部屋だ。
清名が入ると、柚月は戸の前で立ち止まった。
入りたくない。
だが。
「入れ」
やはり促される。柚月がちらっと上目遣いに清名を見てみると、清名の厳しい目が柚月を捉えていた。
ここでぐずぐずしては、かえって叱られる。
柚月は勇気を出して一歩踏み入れた。
室内は、部屋の主そのままに整理整頓が行き届き、余計なものは何もない。雪原の部屋とは大違いだ。
だが、その整然とした感じが、余計に緊張を誘う。
「閉めろ」
柚月は言われるまま戸を閉めた。閉めながら、絶対説教されるんだな、と何にか誰にか分からないが、救いを求めたい気持ちだ。
だが。
「気にするな」
背中から聞こえた清名の声は、打って変わって優しい。
柚月が驚いて振り向くと、清名は労わるような目で、柚月を見つめていた。
「ただのひがみだ」
橋本のことだ。
清名はあの場から引き離すため、柚月を呼んだのだ。
厳しく堅物のような男だが、そういうところがある。
――気ぃ遣ってくれたんだな、清名さん。分かりにくいけど。
柚月は思わず苦笑しながらも、一瞬にして説教への恐怖吹き飛び、清名の気遣いに胸が温かくなった。
「大丈夫ですよ、分かってます」
ヘラっと笑う柚月に、清名は四角い板を差し出した。
「え?」
柚月は目を丸くしたが、清名は構わず、その板をずいと柚月に押し渡す。
「外国語を勉強しているのだろう」
見ると、板に見えるそれは、本だ。それも海外製の。
装丁がこの国の物のように柔らかい紙ではなく、紙は紙のようだが、硬い。
更に、そこに描かれている絵も、文字も、この国の物ではない。
「子供向けの絵本だ」
確かに、随分かわいらしい絵が描かれ、文字も大きい。
「くれるんですか?」
「文字を学ぶには、ちょうどいいだろう」
清名は柚月の手に、ポンと絵本をのせた。
薄い板の様だ。
開いてみると、見開き一杯絵が描かれ、そこに文字が添えられている。紙とインクの独特な匂い。
柚月は夢中でページをめくった。
すべてが目新しい。
文字はもちろん、絵も、字体も、紙の感触さえ、この国の物と違う。
これまでも、海外製の本は雪原にいくつかもらった。
だが、雪原も「難しいと思いますよ?」と言ったように、どれも難しく、なかなか読み進められていない。
本自体も分厚く、見知らぬ文字がびっしり敷き詰められていた。
だが、これなら読めそうだ。
「ありがとうございます」
柚月の目はキラキラしている。新しいおもちゃを得た子供のようだ。好奇心に満ち溢れている。
その顔に、清名はふっと短く、ため息のような息が出た。
「何でも話せとは言わないが、あまり一人で抱え込むな」
「え?」
柚月は夢から半分冷めたような顔で清名を見上げた。
清名の言葉の意味がよく分からない。
雪原が、清名の息子、証を、柚月に会わせたい、と言い出したのは、二月ほど前だ。
清名は、なぜ証を、と疑問に思った。
わが子をこういうのもなんだが、特に剣技に優れているわけでも、学問に秀でているわけでもない。
むしろ、剣術の稽古もしょっちゅうさぼって抜け出す、いつまでも幼さの抜けない息子だと思ってる。
雪原は清名の頭の中を察したのだろう。最近の柚月の様子が気になるのだと話した。
いつもと変わらないようで、時折、ひどく沈んだ顔をするのだという。
それについても、清名は、そうだろうか? と疑問に思った。
柚月はいつも通りのようにしか見えない。明るく、少々子供っぽい。
だが最近では、雪原が言っていたことが分かるようになってきた。
清名から見ても、柚月の様子がおかしい。
いつもと変わらないようで、時折、何か思うところがあるのか、ひどく沈んだ顔をする。
それが、日毎ひどくなる。
消え入りそうなほど、頼りなくなる。
確かに、年の近い証になら話せることもあるだろう。それに何より、証の性格からして、無理やりにでも柚月を外に連れ出し、気晴らしをさせられるにちがいない。
「柚月。お前さえよければ、うちの道場にも来たらいい。お前がいたら、証も少しは稽古をするだろうしな。なんだか知らんが、あいつは随分お前に憧れている。それに外国語なら、愛音が詳しい。あいつもいつも道場にいる。習えばいい」
「あいね?」
柚月は初めて聞く名だ。
「娘だ」
清名の淡々とした口調で教えた。
証の言う「姉上」か。柚月は、証の話にたびたび出てくる「姉上」のことを思いだした。なぜか、証は苦手そうだったが。
「道場か」
柚月はそう漏らすと、何を思ったのか、ふと沈んだ顔になった。
ふわっと消えてしまいそうなほど、弱々しい。
それが、簡単に命まで投げ出してしまいそうに見えて、清名は怖い。
雪原も同じことを恐れている。
「柚月」
清名は引き止めるように、声をかけた。
「柚月、自分を大事にしないのは、自分のことを大事にしてくれている人を、大事にしていないのだぞ」
清名の声は、諭すような響きがある。
だが、柚月には意味が分からなかった。
「…どっかの、ことわざかなんかですか?」
でなければ、早口言葉か。柚月はきょとんとしてしまっている。
その様子に、清名の語調が強くなる。
「自分のことを、もっと大事にしろと言っている。お前は、自分のことに無頓着すぎる」
柚月はなお、よく分からない、といった顔だ。
「そう…ですかね?」
頬を掻いている。
「お前が思っているよりも、周りの方はお前のことを心配しておられる。そのことは、忘れるな」
そう清名が念を押すと、柚月はやっと思い当たったように「ああ」と笑った。
「鏡子さんですか? 鏡子さんが心配性なんですよ。この前も、ちょっと擦りむいただけなのに、包帯でぐるぐる巻きにされちゃって」
笑いながら、清名が渡した本をパラパラとめくりだした。
なぜ、こうも伝わらないのか。清名はわずかにいら立った。
「そうじゃない」
清名の声が急に厳しくなり、柚月は驚いて顔を上げた。
清名は真直ぐに、柚月を見つめている。
真剣な目だ。
絵本をめくっていた柚月の手が止まった。
驚いた顔のまま、柚月もまた、清名を見つめている。
「お前を心配しているのは、鏡子殿だけではない」
鏡子が心配性だからでもない。
「雪原様も、椿殿も」
清名はそうまで言うと、ためらうように、わずかに間をおいた。
「私もだ」
清名のまなざしが、優しいものに変わっている。
心配している。
その気持ちが、伝わってくる。
柚月は驚いた。
思ってもみなかったのだ。
柚月は「そんな」と漏らすと、すっと沈んだ顔になった。
「心配なんか、しなくていいですよ」
俺のことなんか。
そう言いたげに苦笑する。
「じゃ、本、ありがとうございます」
柚月は急に明るい声を出すと、部屋を出て行った。
清名はその姿を見送りながら、もしも瀬尾義孝がいたら、とふとよぎった。
戦の中、行方知れずになってしまった柚月の親友。
おそらく、もう――。
だが、柚月は今もなお、義孝はどこかで生きていると信じている。
柚月自身、その思いを頼りに生きているかのように。
「詮無いことだ」
清名は自身の考えを断ち切った。
灯りの乏しい廊下を、柚月の頼りない背中が遠ざかっていく。