十四.語らい
雪原が別宅に着くと、鏡子が玄関に飛び出してきた。珍しく、狼狽している。
「やっぱり、何かあったのですね?」
鏡子が「やっぱり」と言ったのは、柚月の帰ってきた時の様子が明らかにおかしかったからだ。うつむいたまま、消え入るような声で「ただいま」と言ったきり、自室にこもってしまった。
何かあったに違いない。そう思っているところに、雪原まで来た。
ただ事ではない。
鏡子の心配は、頂点を超えている。
「どうしたのです? そんなに慌てて。心配するようなことは、何もありませんよ」
雪原は、鏡子を安心させるように微笑んだ。だがその微笑みが、どこかぎこちない。
鏡子は、それで察した。
やはり何かあったのだ。
だがそれは、自分が触れるべきことではない。
鏡子は、すっと一歩下がった。
「柚月は?」
雪原はできるだけ落ち着いた声をだした。その顔を、鏡子はただただ、心配そうな目で見つめている。
「自分の部屋におりますよ」
雪原はまた微笑んだが、やはり、どこかぎこちない笑みになった。
渡り廊下を歩きながら、雪原は悩んだ。
なんと声をかけてやればいいのか。
何も浮かばない。
答えが出ないうちに離れについてしまった。
角を曲がれば、柚月の部屋の入口だ。
足が、自然と遅くなる。
すると突然、部屋からバタバタっと音がして、雪原が驚いているうちに柚月が廊下の角から飛び出してきた。
「雪原さん!」
柚月は心配と不安から、泣きそうな顔をしている。
「大丈夫でしたか? 剛夕様と、揉めたりしてませんよね? 雪原さん、様子がおかしかったから。俺、なんか余計なこと言ったのかと思って」
飛びついてきそうな柚月の勢いに、雪原は圧倒されてすぐに声が出ない。
柚月は雪原の顔をじっと見上げている。
必死な顔だ。
雪原は、その顔に、なぜかほっとした。
「揉めたりしませんよ。それより、今日は月がよく見えますよ」
にこりと笑うと柚月を促し、部屋の入り口の前で二人、並んで腰を下ろした。
空は足早に雲が流れてはいたが、確かに月が良く見える。
「すみませんね、黙っていて」
雪原は空を見上げたまま、徐に口を開いた。
「なんだか、柚月には言えなくてね」
柚月が振り向くと、それを感じたのか、雪原も振り向き、微笑んだ。その微笑に、謝罪の気持ちがにじんでいる。
柚月は、申し訳ない気持ちになった。
「いえ」
うつむくと、胡坐の上で、指をこすり合わせる。
「俺の方こそ。小姓なのに。迷惑かけて、すみません」
雪原は胸が痛んだ。
義孝の墓など見せられて、柚月はひどく傷ついているはずだ。なのに、ずっと雪原のことを気にかけている。
柚月はいつでもそうだ。
こんな時でさえ、他人のことばかり。
「いいのですよ、そんなこと」
雪原は顔を逸らした。胸の痛みが顔に表れ、耐えるように、眉間に拳を当てている。その拳をはずすと、再び柚月の方を向いた。
「柚月」
「はい」
柚月も顔を上げた。
雪原が、真直ぐに柚月を見つめている。強く、だが、優しいまなざしだ。
「柚月、もっと、自分を大事にしなさい」
柚月の目が、わずかに見開かれた。
また、この言葉だ。
「それ、流行ってるんですか?」
「え?」
柚月の意外な反応に、雪原の口元がわずかに緩む。
「清名さんにも、鏡子さんにも言われたんです」
そう言うと、柚月は自信なさげに目を逸らした。また、うつむいてしまっている。指をこすり合わせ、ぴたっと止めた。
「ねえ、雪原さん」
「なんです?」
柚月は一瞬考えるような顔をしたかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、雪原を見た。
「『自分を大事にしないのは、自分のことを大事にしてくれている人を、大事にしていない』って、どういう意味ですか?」
柚月はその言葉の意味に相当悩んだのか、困ったような目をしている。だが、懸命に答えを求めていることは、雪原に伝わった。
「何かの本にでも、載っていたのですか?」
雪原の声は、小さな子供に話しかけるように優しい。
「いえ。清名さんに言われたんです。どっかのことわざかなと思ったんですけど、鏡子さんも知らなくて。でも、二人とも、自分を大事にしろっていうんです。」
言い終わるころには、柚月はまたうつむいていた。
「自分を大事にって、どういうことなんですかね」
指をすり合わせ、それをじっと見つめている。
雪原は驚くと同時に、胸を抉られるようだった。
そんなこと、考えるまでもない。
この国の人間すべて、富めるも者も貧しい者も皆、自分を第一に考えているではないか。
ましてあんな、私利私欲にまみれ、妬み嫉みの坩堝のような城に出入りして、よく染まらずにいる。
――いや、だからこそ、苦しむのか。
染まってしまえた方がむしろ楽だ。
例え、悪しき風習、思想であっても。
「考えなさい」
雪原の諭すような声に、柚月が顔を上げた。
雪原の優しい微笑が、柚月を見つめている。
「考えなさい。その答えは、自分で見つけなさい」
雪原には、清名が言おうとしていることが分かる。
柚月と義孝を入れ替えると分かりやすい。
もし、義孝ではなく、柚月の方が行方不明になっていたら。おそらく、義孝も柚月と同じように柚月を探し回り、心配し続けるだろう。きっと生きていると信じて。
自分に何かあれば、そうして、自分のことを大事に思ってくれている人に、心配や迷惑をかける。
心を痛ませることになる。
だから、自分を大事にしないということは、自分のことを大事にしてくれている人を、大事にしていない、と清名は言ったのだろう。
そして何より、だからこそ、自分のことを大事にしろ、と言いたかったのだ。
だが、今の柚月にそれを言ったところで、本当の意味では理解できないだろう。柚月自身が、自分を認められていない。まるで、自分は存在する価値がないと思っているかのように。
それ故、ふわっと消えてしまいそうな、弱々しさがある。
雪原は優しく柚月の頭撫でた。
その手。
大きく、温かい。
柚月は一瞬にして懐かしさに包まれた。
すっかり忘れていた、子供の頃の記憶。
父の記憶。
頭をなでてくれた大きな手。
優しい笑顔。
柚月は自然と、子供の頃のような笑顔になっていた。
「はい!」
柚月が元気よく答えると、雪原は嬉しそうに柚月のわしゃわしゃっと撫で、また二人で空を見上げた。
月がきれいに見える。
その周りを、足早に雲が流れていく。
やがて雲が増し、夜が更ける頃には、すっかり月は隠れてしまった。




