十二.昼下がりの報告
昼下がり。
たまたま秘書室の前を通りかかった清名は、秘書官たちが話す声が耳に入った。
「柚月様、今日はいらっしゃらないのだろうか?」
一人が言い出したのを皮切りに、ほかの者も続く。
「柚月様が来てくださると、助かるのにな」
「あの重い書類を、文句も言わずに何度も運んでくださって」
「いや、本当に」
「茶もうまいしな」
笑いが起こった。秘書官たちの声にも言葉にも、棘も角もなくなっている。
清名はその足で雪原の部屋に向かい、報告した。
「あれは、柚月の人柄の成すものでしょうか」
感心している。
雪原も、嬉しそうな顔だ。
「そういえば、遊郭でもなかなか評判がいいようですね。私のお小姓さんは」
「はい。酔っ払い同士の喧嘩を諫めたり、白玉屋以外の者からも、困りごとを訴えられると、足を止めて聞いていやっているそうです。遊郭に通うのを揶揄する者もいますが、少なくとも、楼主や遊女たちには評判がいいようです」
雪原はその光景が目に浮かんだ。
自然と口元が笑んでいる。
「巷でも、評判は上々です。宰相の小姓といっても、本人がそれを笠に着ませんから。町の者からしても、親しみやすいのでしょう。ただ柚月自身に自覚が薄いのは、困りものですが」
言いながら、清名の眉間にしわが寄っている。
「そういえば、先日何を叱っていたのです? 随分大きな声を出していましたが」
「ああ、あれは」
清名は先日の出来事を思い出し、困ったものだ、といいたげな顔になった。
「柚月が泥だけの袴で登城してきたのですよ。ここに来る途中に、スリを取り押さえたようでして」
その際膝を道についた為、膝から裾にかけて袴が土に汚れてしまっていたのだ。
「せめて泥を払ってこいと申しましたら、廊下の縁に立ってパッパッと払っただけで戻ってくるものですから。つい、大きな声を出してしまいまして」
清名の「いいからその袴を脱げ!」と怒鳴りつける声は、雪原の部屋にまで届いていた。
雪原は一瞬、何事だろうと思った程度だったが、同じくその声を聞いた秘書室の者は、一同ビクリと肩を震わせ、恐る恐る声の方を覗き見た。
当の柚月はというと、なぜそんなに咎められるのかよく分からない。だが、清名があまりに怒っているので、抵抗するのは得策ではないと考えた。素直に従って袴を脱ぎ、慣れない着流し姿で一日過ごすと、夕刻、汚れた袴を小脇に抱えて帰っていった。
雪原は、話の途中からすでに笑っている。
「あの無頓着さは、どう言っても治らないようでして」
清名はため息混じりに首を振る。
「特に、自分のこととなるとね」
雪原はすっと笑いが収まり、視線を落とした。
――あの子はどうも、自己犠牲が過ぎる。
雪原の顔が曇っている。その様子に、清名も言葉を無くした。
清名は、柚月を心配すると同時に、柚月を思う雪原のことも案じている。
ふいに、何か思い出したように雪原が顔を上げた。
「そういえば、今日はまだきませんね」
柚月が蘆からの報告書を持ってくる日だ。いつもなら昼前には来るのに、もう太陽がてっぺんを過ぎている。
「そういえば」
清名がそう言った、ちょうどその時。廊下をバタバタと足音が近づいて来たかと思うと、部屋の前で止まり、「失礼いたします」と、柚月が現れた。
雪原が応えると清名が脇に退き、入れ替わりに、雪原に報告書を渡した柚月が、清名が先ほどまで座っていた場所、雪原の前に座った。
「今日は遅かったですね」
報告書に目を通しながら、雪原が何気なく口にした。
責めたわけではない。
だが、なぜか柚月は返事をしない。
妙な間だ。
雪原は不審に思い、報告書から目を放して柚月を見た。
柚月は雪原から視線を逸らし、雪原の横、部屋の端の方をじっと見つめている。
何か言おうとしているのか、口元がもごもご動いているが、声が出ていない。
「どうしました?」
雪原は思わず聞いた。何かあったのかと、心配になる。
柚月は「いえ、あの」と漏らすと、また口を噤み、観念したようにやっと口を開いた。
「すみません。その…。帰ったのが、その…、朝、…でしたので」
柚月は雪原の顔を見ることができない。
何と言われるだろう。いや、どれほどからかわれるだろう。
雪原の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
恐怖だ。
だが、柚月の思いに反して、雪原はわずかに驚いた顔をしたが、すぐにふふっと笑うと、また報告書に視線をもどした。
「そうですか」
穏やかな声だ。いつものようにからかうものではなく、温かい響きさえある。
雪原はそれ以上何も言わず、聞きもしない。ただただ報告書に目を通している。
その間が、柚月はいたたまれない。
「違うんですよ!」
柚月はたまりかねて口を開いた。
「昨日は遅くなったから、それで」
雪原がまた顔を上げたので、柚月はうっと黙った。
「はいはい」
雪原は優しく柚月に微笑んでいる。すべて承知している、という笑みだ。
だが、雪原のその笑みと、「はいはい」と言う言葉が、柚月を更に焦らせる。
誤解されている気がしてならない。
「いや、だから…! 昨日は白玉屋に行くのが遅くなって」
「はいはい」
柚月の懸命さとは対照的に、雪原は穏やかに微笑み続けている。これはこれで、雪原は柚月の慌てっぷりを楽しんでいるのではないか、と思えるほどだ。
「なぜ遅くなったのだ。柚月お前、昨日、昼過ぎにここを出ただろう」
静観していた清名が、冷静に割って入った。その言葉に、柚月はぎくりとしてまた言葉を詰まらせると、雪原から視線を逸らし、そのままじっと部屋の隅をみつめる。
雪原と清名は顔を見合わせた。
わずかな間。
雪原と清名が見守るように見つめる中、柚月は言いにくそうに切り出した。
「…門のところで、枇々木様に呼び止められて」
「枇々木殿に⁉」
一瞬にして、雪原の顔色が変わった。
雪原だけではない。
清名もだ。
立ち上がりそうな勢いで雪原を見た。
「枇々木殿が、どうしたのです?」
雪原は前のめりになっている。詰め寄るように聞かれて、柚月はわずかに狼狽した。
「え…、どうって」
言いかけて、柚月はまた黙った。
脳裏に、昨日のことが蘇ってくる。
雪原の目が、射抜くように強く、柚月を見つめている。
その目が、怖い。
だがそれ以上に、柚月にとっては、続きを口にすることの方が。
枇々木に呼び止められて。
それから。
それから――。
その先が、喉から出てこない。
柚月はゴクリと唾を飲みこむと、ふっと雪原から視線を逸らし、遠くを見るような目になった。
そして。
「…義孝。…墓、あるんですね」
柚月がうわごとのようにそう漏らした瞬間、雪原が勢いよく立ち上がった。
その顔、怒りに満ちている。
柚月は驚いて、一気に現実に引き戻された。
目の前の雪原は、どこかに行こうとしている。
「え⁉ 雪原さん?」
柚月が思わず出した声も、聞こえてはいない。
雪原は驚き慌てる柚月の横を通り抜け、清名が止めるのも振り切って、部屋を出て行った。




