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十.朝帰り

 (やしき)の前まで来ると、柚月は足が止まった。

 玄関の戸を上げるのが、恐ろしい。

 じっと玄関の戸を見つめながら迷った。


 裏木戸から入ろうか。

 いや待て。

 今の時間なら、鏡子は朝食の支度で台所にいるはず。

 椿がいたとしても、同じく台所にいるし、仮に雪原がいてもまだ寝ているはずだ。

 玄関からでも、こっそり入れば、誰にも気づかれずに離れの自室まで行けるはず。


 柚月は意を決して、そっと玄関の戸を開けた。カラカラカラッと小さな音とともに、戸にわずかな隙間ができる。柚月は恐る恐る、中の様子をうかがった。


 その瞬間。


 柚月は心臓が跳ね上がり、化け物でも見たような大きな声を上げた。

 すぐそこ、式台に、鏡子が立っている。


「きょ、鏡子さん…」


 柚月はまんまるに見開いた目で鏡子を見つめたまま、脅えたように玄関の戸にしがみついた。


「おかえりなさい」


 鏡子は柚月の大声にさえ驚いた様子はなく、いつもと同じ調子だ。

 それがかえって怖い。


「た、ただいま」


 習慣とは恐ろしいものだ。柚月はかろうじて返事をした。だが、まだしっかりと戸にしがみついている。


「お風呂の用意、できていますよ」


 そう言うと、鏡子はさっと奥に下がっていった。

 柚月はまだ心臓がバクバク鳴っている。落ち着かせるように胸に手を当てながら、一歩中に入ると、そっと玄関の戸を閉めた。


 草履を脱ぎながら、ふと、なんで風呂なんだろうと思ったが、鏡子の様子が不気味でたまらない。言われるまま、風呂に入った。


 湯船につかって一息つき、柚月はやっと落ち着けた気がした。


 ――なんか、朝から慌ただしかったな。


 湯気に(けむ)る天井を見上げていると、湯の温かさに気持ちも緩み、柚月は次第にぼんやりしてきた。

 自然と深い息が漏れる。

 体の力も抜け、どんどん湯に沈んで鼻までつかった。

 髪の裾が、湯に揺れている。


「お湯加減、どうですか?」


 突然、外から鏡子の声がして、柚月はまたビクリと跳ね上がった。

 心臓に悪い。


「ちょうどいいです!」


 不自然に勢いよく、大きな声になった。が、鏡子は気に留めた様子もない。


「朝食、もうすぐできますから」


 そう言うと、去っていった。


 鏡子の足音が遠のいていく。柚月はため息とともにうなだれた。

 悪いことをしたわけでもないのに、どうも気まずい。

 もう一度ため息を漏らすと、もやもやした気持ちをかき消すように、バシャバシャッと勢いよく顔を洗った。


 その時だ。


 突然、両手が血に染まって見えた。

 心臓が凍るような衝撃に柚月は息が止まり、反射的に両手を湯船に突っ込んでいた。

 パシャッと勢いよく湯が跳ね上がる。その音も、遠く、別世界のもののようだ。


 柚月は目を大きく見開き、一点を見つめたまま動けない。

 鼓動が早鐘を打ち、呼吸も乱れている。


 手を、見るのが怖い。

 柚月はゴクリと唾を飲みこんだ。

 恐る恐る、湯船の底から、ゆっくりと、手を上げる。

 水面に、近づいてくる。

 手が、湯から出た。

 ただ、湯に濡れているだけの手だ。


 柚月は安堵し、金縛りが解けたように体の力が抜けた。

 大きく一つ、息が漏れる。

 浴槽の縁に腕をのせ、その上に頭を預けた。


 たぷたぷと、湯が揺れている。


 柚月はしばらく揺れる水面を見つめていたが、ぐっと頭を起こすと、頬に湯をたたき付けるように顔を洗って、風呂を出た。


 鏡子が朝食の準備を終えたところに、柚月がのっそりやって来た。髪を拭きながら、ややぼんやりしている。


「朝食、できていますよ」


 鏡子が声をかけると、柚月はビクンと肩を震わせ、いそいそと朝食の席についた。

 いつものように、二人並んで食事を始めたが、鏡子は昨夜のことは何も言わず、聞きもしない。ただ黙って食事をしている。

 ふたりだけの部屋に、食器の音だけが響く。


 柚月の方はどうにも落ち着かない。飯をほおばりながらちらちらと鏡子を盗み見た。

 聞いてくれないと、言い訳のしようもない。


「あの、鏡子さん」


 柚月はたまりかねて、口を開いた。


「おかわりですか?」

「いえ。あの…」


 鏡子のいつもと変わらない調子が、柚月の出鼻をくじく。

 せっかく勇気を出したというのに。

 柚月はもう一度頑張った。


「すみませんでした、昨日…あの…」


 だが、だんだんはっきりしなくなってくる。


「その…連絡もしないで…えっと…、外泊…して」


 なんとか言い切った。


「遊郭に行っていたのでしょう?」


 スパッと言われて、柚月はまた肩がビクンとした。が、鏡子の方は変わらず箸を動かしている。


「旦那様から聞いていますよ」


 世間話のような調子でそう言うと、箸を止め、苦笑しながら柚月の方を振り向いた。


「ふつうは、朝帰ってくるものですよ?」


 鏡子は柚月を責めたわけではない。柚月の真面目さがおかしかったのだ。

 だが、柚月はその笑みに震えあがった。


「ち、違うんですよ! 昨日は行くのが遅くなって、だから、帰りも遅くなって。だから、だから、その…、大門が閉まっちゃって!」

「ええ、ええ、分かっていますよ」


 鏡子は微笑みながら頷いている。

 それが、さらに柚月を焦らせる。


「違うんですよ! ほんとに。ほんとにただ、帰れなくなって、だからちょっと、そのまま寝ちゃって。あ、いや、寝たってそう言う意味じゃなくて!」


 柚月は自分の言葉にまでうろたえ、ますます慌てて、自分でも何を言っているのか分からなくなっていく。

 鏡子はそんな柚月を静かに見つめ、ただただ微笑んでいる。


「ええ、ええ、分かっていますよ」


 その微笑に、柚月はうっと黙った。

 鏡子は絶対に誤解している。柚月にはそう思えてならない。だがその誤解を解ける気もしない。鏡子があまりにも動じない。


 柚月は座りなおすと、急いで飯を掻き込み始めた。


 違う、と言うほど、鏡子にはどんどん誤解され、自分は嘘をついているような気になってくる。

 いや実際、ちょっと危なかった。

 それだけに、柚月には後ろめたい気持ちがある。


 わずかに魔が差してしまった。そのことを、鏡子に見透かされているみたいで、気まずいやら、恥ずかしいやら、怖いやら。


 どうしようもない。


 鏡子は柚月の様子に、ふふっと笑った。

 鏡子は、柚月が仕事で十日ごとに遊郭に行くことを雪原から聞いている。そして町の噂から、柚月が通っているのは、「白玉屋」という見世の「白峯」という遊女のところだ、ということも知った。


 確かに、柚月は十日ごと、夕方に邸を出て、夜、夕飯を済ませて帰ってくる。だが、遊んで帰ってきたことは一度もない。


 遊女と遊んできたなら、白粉(おしろい)や口紅のような化粧の匂いくらいついているはずだ。匂いどころか、そのものが体についていてもおかしくない。


 だが、柚月はいつも、キレイな体で帰ってくる。

 風呂に入ってきた、という風でもない。


 いつも、出て行ったままの姿で、着物に微かなお香の匂いだけをつけて帰ってくる。

 それも、毎度同じ香り。

 おそらく、白峯という遊女が好んで焚く香なのだろう。


 つまり、柚月はいつも同じ遊女のもとに通い、ただ、食事のみをして帰ってきている。


 何をしに行っているのかは知らないが、鏡子にとってそれは重要ではない。雪原が「仕事」と言っている。それがすべてだ。


 柚月は黙々と飯を口に掻き込んでいる。

 鏡子はその様子に、弟が重なった。すでに亡くなっている。ちょうど、柚月くらいの年だった。


 もしもあの子が生きていたら、こんな朝を迎える日が来たのだろうか。

 あの子もまた懸命に、朝帰りの言い訳をしたのだろうか。


 鏡子がそう思っているうちに、


「ごちそうさまです」


 柚月は口いっぱいに飯を詰め込んだまま、自室に戻っていった。


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