4.彼は公爵閣下
三大公爵家とは、その始まりを建国史にまでさかのぼることのできる名家中の名家である。
建国史の最後の場面―悲劇の女神ロウェーナが三人の弟子達に願いを託して逝く―その弟子達がそれぞれに興した家が現王家のアッティラ家、南東の覇者ランドット家、北西の王フェードラ家の御三家なのである。
彼らは女神の意思を継ぐ者として、ファーストネームとファミリーネームの間にそれぞれの先祖の一文字を代々受け継ぎ、今も絶大な権力を誇っていた。
まさに雲の上の人。
会話どころか視線を交わすことさえ恐れ多い。
あの方は、そんな方だったのだ―。
「先ほどは大変失礼をいたしました。どうかご無礼をお許しください、閣下。」
私が"名を持つ方々"への挨拶にふさわしい最敬礼をしてそう言うと、ティーカップを持つ彼の指がぴくりと反応した。
「…へぇ。気づいたんだ。」
どこか面白くなさそうな声だ。
でも、分からない。
もしかしたらずっと不機嫌で、たった今隠していた不満を表に出されただけかもしれない。
そうだとしたら…とても恐ろしいことになる。
「…申し訳ございません。その…気が、動転しておりまして。閣下の御前であのような…」
「ルイス」
「…は、はい?」
聞き間違いだろうか。
ご自分の名前を言われたような…。
「ルイスでいいよ。閣下なんて面倒だから。」
「ぃえ、…っと、でも…その…」
こ、これは、真に受けてしまっていいの…かしら。
名を持つ方々を敬称で呼ぶのは礼儀だ。
もしこれが冗談だったら、彼の『無礼』の一言で、わが男爵家なんてあっという間に潰されてしまうだろう。
それに私は家族以外の貴族男性をファーストネームで呼んだことがなかった。
「…では、その…ラ、ランドット様…と…」
ためらいながらそう呼ぶと、騎士様は美しいそのお顔で、にっこりと微笑んだ。
「ルイス」
美しさの、圧がすごい。
この圧力に抗える人がいたら、ぜひこの場所を変わってほしい。
もちろん、私は負けた。
「…ル、ルイス様…。」
彼は満足そうに紅茶を一口飲むと、カップを戻して、私に座るように手で示した。
少し疲れた私は客間の古いソファーに腰かける。何年も使われていなかったスプリングが、励ますように私を支えてくれた。
「さて、本題に入る前に、一応部下を紹介しておこうか。ガレキ。」
するとルイス様の後ろで立っていた彼がきれいなウインクをする。
「はーい。こんにちはミッチェル嬢。俺はロアーヌ騎士団副団長室付きのガレキ。こんな口調なのはいつものことなんだ、許してね。」
許すもなにも、ランドット公爵ご子息様の付き人である彼の方が、しがない男爵令嬢より権力を持っているだろうに。
でも、もう私は気にしないことにした。
「…はい。ガレキ様。」
「ああ、いいよガレキで!言いにくいでしょ俺の名前~この国の言葉じゃないから。」
やっぱり。聞いたことない響きだと思った。
さらに喋り続けようとする彼をルイス様が止める。
「ガレキ。もういいよ。」
「ちぇ、はーい。」
彼はまたハシバミ色の目でウインクを投げてきた。
私の方はどうしたらいいのか分からず、あいまいに微笑んだ。
確かに、彼に様付けはいらないかもしれない。
「さて、本題なんだけど―昨日の夜九つから明朝にかけて、君たちはどこで何をしていたのか教えてくれる?まずは侍女の君から。」
指名されて、私の後ろに控えていたマリーがおずおずと口を開いた。
「はい。その時間、私は友達2人とお店で飲んでいました。2人とも絵のモデルをしてるんですけど、よく行く店で自然と仲良くなって、以来飲み友達なんです。殺されたっていう彼女―クロエは友達の友達で、集まりにもたまに呼ばれたら来るくらいで…。私、彼女のことはそんなに詳しくありません。」
「あまり親しくないのに、彼女は酔った君を送ろうとしたの?」
ルイス様にそう言われて、マリーは少し困ったように髪をかきあげた。
「…そう言われたら、どうしてクロエが名乗り出てくれたのか分かりません。他2人も酔っぱらって頼りにならなかったせいかもしれませんし、飲む気分にならなかったから…とかかもしれません。
とにかく昨日、私が覚えているのは、クロエがお店からここまで肩を支えて歩いてくれたことと、玄関でおやすみと言われたことくらいです。」
「それを証明できるのは?」
無言でマリーが私の方を見た。
次いでルイス様の琥珀の瞳が静かに私を見る。
「私…でしょうか。確かに、私は日付けの変わる一刻前にマリーが帰ってきた音を聞きました。それと誰か女の人の声も。ですが、それがクロエという人だったかは…。」
私はどうして昨晩ベッドから降りて、マリーを迎えにいかなかったのか悔やんだ。
殺された彼女の去り際を一目見ていれば、マリーの潔白を強く援護できたかもしれないのに。
「そう。では同じように、ミッチェル嬢は昨晩何を?」
「私は自室で本を読んで、寝ました。証明できる方はだれも…。」
そっと目を伏せる。
だれも訪ねず、だれにも訪ねられない。
それがこの塔の主の日常だった。
「…なるほど。気を悪くしないで貰いたいんだけど、こういう事は関係者全員に聞かないといけなくてね。僕個人としては、君達は無関係だと思っている。」
静かにマリーが安堵の息を吐いたのが分かった。
でも、私はまだなんとなく緊張を解けないでいた。
彼の瞳が、声が、
そのどこかに剣呑な光を隠しているような気がするのだ。
「とはいえ、全く何も知らないとも思っていないよ。特にメイドの君のほうはね。殺された彼女と個人的に親交があったのは君達くらいなんだ。ひとまず早急に君のお友達に話を聞きたいんだけど、連絡をつけてくれる?」
「か、かしこまりました。」
目でマリーが外出の許可を求めてきたので、私は頷いて返す。
「ガレキをつけよう。それと、お友達から話を聞くのもガレキに任せてほしい。」
「おっしゃる、通りに…」
マリーは少し目を回しながらも、持ち前の利発さですぐに客間を退出した。その背中にガレキがついていく。
残されたのは私たちだけ。
寂れた塔の客間に、打てば響きそうな沈黙が満ちた。
でも、不思議に息苦しさは感じない。
私は一口紅茶を飲んで、気になっていたことを聞いてみようかと思った。
「…あの、ルイス様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「何かな。」
彼はカップに指をかけ、緩やかに微笑みながら頷いた。
「…その、ルイス様は、あの伯爵様が犯人だとお考えではないのですか。」
彼はますます笑みを深めて、答えない。
でも、それが答えだった。
私は、伯爵様を疑うには十分すぎると思っていた。
だって彼はマリーを勝手に犯人に仕立てあげようとしたのだ。
そんなことをして得になるのは、真犯人だけ。
それに殺されたメイドと同じ屋敷で暮らしていたのだから、殺す動機も機会もある。
けれどルイス様は伯爵様の悪巧みを知ってなお彼を捕まえず、部下に被害者の情報収集をさせているのだ。
すると、
「あの愚物は犯人じゃないよ。」
ルイス様は苦笑とも嘲笑ともつかない声でそう言った。
聞いたことのない声音に、私は目を見開いて彼を見る。
「もちろん、アリバイなんて安いものじゃない。
―理由を聞きたい?」
そして彼も私をみてふっと笑った。
とても美しく、とても残酷に。
「メイドの死体には拷問の跡があったんだ。
プロのやり方だった。
君は、ただの主人がプロを雇い、自分のメイドを拷問して何を聞いたと思う?」
私は答えられなかった。
ルイス様の、その酷薄な―
悪魔のような笑みを見て、気が引けてしまったのだ。
きっと、彼は私の様子に気づいたのだろう。
一度目を閉じると、すぐにあの―おそらく本来の―笑みをしまって、甘く穏やかに言葉を紡いだ。
「僕も最初は伯爵家の誰かが犯人だと思ったよ。でも彼らは彼女をただのメイドだと思っていたし、そこについては誰も不審な様子はなかった。」
「…それ、では、あの方は…」
「ああ。アレは屋敷の三男坊なんだけどね、彼はおそらく、自分の母を庇うつもりだったんだろう。父が若いメイドに目がなくて、殺されたメイドにも言い寄っていたと知っていたらしい。だから嫉妬に狂った母が、メイドを殺してしまった―なんて思い込んだのだろうね。」
「…奥様、でもないのですか?」
戸惑う私をルイス様は意外そうに見つめ返した。
「あぁ、そう思うよ。ゴードン夫人はよくいる本当に正妻らしい正妻だった。つまり後継ぎさえ作れば、2号でも3号でも放任という意味だけど。」
―よくいる
苦い薬を飲まされたような感じがした。
けれどルイス様は何でもないことのように話を続ける。
「実際、彼女は2人の愛人と5人の庶子を黙認して、自分でも愛人を囲っているからね。夫の愛人が3人になったところで、何も関心がないんじゃないかな。」
「…。」
…なんだか、ガックリする話を聞いてしまった。
これが世の中の夫婦なのだろうか。
なら私はますます正妻なんてやれそうもない。
「…そういう訳で事件に関しては、正直行き詰まっててね。わずかな手がかりも見逃したくない。君達には引き続き協力をお願いするよ。」
…そんな事になっているのなら、ルイス様の申し出は受けざるをえないだろう。
マリーはまだ一応犯人候補だし、殺されたメイドも現場もマテーラに関係している。
血生臭い事に関わりたくないと思っても、わが家はマテーラの領主一家。
許されない立場だった。
もう、うちは言われたことだけやって、後は全部騎士団でがんばって頂こう…。
「はい…お役にたてるのであれば。」
私がそう言うと、ルイス様は愛想よく微笑んでみせた。
あの悪魔のような笑みを見て以来、どうにもこの微笑が嘘っぽく見える。美しいとは思うけれど、あの息がつまるような凄絶さはないのだ。
そんな思いが顔に出ていたのだろうか。
「…君は、本当にらしくない令嬢だね。」
少し笑いながらルイス様はそう呟いた。
ひやりとする。
ルイス様にとっては何気ない言葉でも、私にとっては死刑宣告だ。
「そ、そのっ…!数々のご無礼、申し訳ございません。」
「ああ、違うよ。君を咎めたわけじゃない。ただ…君は、不思議な女性だね。」
不思議?
私は目を瞬いた。
ルイス様は赤い唇の端を上げて、愉しそうに言う。
「君の所作は洗練された上流階級の淑女そのものだ。なのに君は僕の顔も知らず、ガレキのあしらいに戸惑い、伯爵夫人の素行に動揺した…まるで地方のデビュー前の令嬢みたいにね。」
ずばりと当てられて、見透かされた不快感よりも恥ずかしさが勝った。
「…仰る、通りです…。私の身振りを褒めていただけたのは、単に昔ついて下さった先生が素晴らしかったからで…。
私自身は、社交界にも一度しか出られず…本当に世間知らずで、お恥ずかしいかぎりです…。」
「1度だけ?」
彼は驚いたようだ。
琥珀の瞳と艶やかな黒髪が、窓から差す光に映えて綺麗だった。
「はい…。」
「それはっ…君の、ご家族の方針なの?」
彼は少し言葉を選んだようだった。
この塔を見れば、私が主に一人で暮らしているのは明白だったろうから。
「そう、ですね。家族といっても両親は亡くなり、兄のみなんですが…兄はそういった場が堪らなく苦手みたいで…。」
"苦手"とはまだかわいい表現だ。
お兄様は社交の場を蛇蝎のごとく忌み嫌っている。正直、デビュタントにも連れていってもらえないかもしれないと思っていた。
するとルイス様は少し考え込んで、言った。
「…兄…ミッチェル。ねぇ、もしかして、君の兄上は、アールミン・ミッチェル?」
私はパッと顔を上げた。
「まさか、本当に?」
ルイス様にこくこくと頷く。
驚いてすぐに声が出てこなかったのだ。
"色彩の魔術師アルミー"は知っていても、本名の方を知っている人は少ないから。
ルイス様はどうしてお兄様を―
困惑する私をよそに、彼は深々と息を吐いてソファーの背にもたれた。
「…はぁ。なんだ、そうか。君は奴の妹か。」
そのため息で、彼はあらゆる疑問に納得したようだった。
「あの、ル、ルイス様はなぜ兄のことを…?」
「僕は、君の兄上の騎士学校時代の同級生だよ。彼はほとんどの授業をさぼった上、どの派閥にも属していなかったから印象に残っていてね。
あぁ、そうか。マテーラの芸術一家出身だと聞いていたのに…。実際に話した後だと、こう…彼が貴族だということを忘れてしまうね。」
「…。」
つまりお兄様は初対面で、彼に予備知識を吹き飛ばすほどの衝撃を与えたのだ。
間違いなく、失礼という名の衝撃を。
…大の貴族嫌いのお兄様が、三大公爵家のご子息様に何をしたのか、詳細は恐すぎて考えたくない…が、
気のせいかしら。
目の前のルイス様がだんだんと悪いお顔になっていらっしゃる。
も、もうとりあえず謝ってしまおう。
何に謝ったらいいのか分からないけれど。
この件を蒸し返してはいけない気がする。
「…兄が、その、大変、ご無礼をしましたようで…。」
「いやいや、無礼なんてことはないよ。初対面で"お前"呼ばわりされ、稽古の相手は断られたあげく、夜中に妹自慢を小一時間聞かされ、揉め事の始末を押しつけられるくらいは…無礼とは言わないよね?」
にっこりと黒い笑み。
あぁ…お兄様。
私は覚悟を決めた。
打ち首ね。
まず打ち首。よくて打ち首。結局打ち首。
天上におわしますお母様、お父様、先生、待っていてください。フィリアはもうじきそちらへ行きます…。
逃避しかけた私を、ルイス様の甘い声が現実へと引き戻した。
「フィリア。」
「…!」
急に名前を呼ばれ、びっくりして私は顔を上げる。
彼は背もたれに肘をついて、愉しそうに私を見ていた。
まるでティーカップの中に入ったハエが溺れていくのを見るように。
「実は今、僕はとても困っていることがあるんだ。察しの通り事件のことだけど…少し事情があって、僕は本来の身分を知られずに捜査を進めたい。」
「そっ…そんなこと…」
できる訳がない。
引きこもりで噂に疎い私ですら、初対面で彼のことを少なくとも上流階級の騎士だと察せたのに。
「もちろん、ある程度は仕方がないと思っている。ただ、ロアーヌ騎士団や三大公爵家の人間が動いていると周りに分からなければいい。」
…そんなこと、できるのだろうか。
他の人になりすます…とか?
でもうちは芸術にしか脳のない弱小男爵家だ。
三大公爵家のご子息に何をお願いされても荷が重い。
「で、ですが…!」
「いい案があるんだ。」
私の反論をルイス様は目で制して続けた。
「フィリア。僕を君の騎士にしてほしい。」
「………はい?」
すぽーんと言葉が頭のなかを突き抜けた。
騎士?
私を?僕の?
えっ…?
「簡単なことだよ。君は領地で起こった事件に不安を感じ、護衛を雇った。そして侍女にかけられた疑惑を晴らすべく、事件を調べることにした。これで注目は君にいく。僕は裏方だ。」
「えっ…、えっ…。」
「心配しなくても、捜査のすべては僕に任せてくれればいい。もちろん危険からは守ってみせるよ。」
「っと…その…。」
守ってみせるなんて、こんなに美しい男性から言われたら喜んで頷きそうなのに。
私の全身の神経が、これは危ないと言っている。
「でっでも、、私…!」
「あぁ、もしも君が断ったとしても仕方ない。もちろん、仕方がないことだ。僕はしばらく美しい君の事を忘れられないだろうけどね。パーティーで懐かしい友人にあったりしたら、きっと君のことを話すだろう。ついでに君の兄上との微笑ましい思い出も」
「―お願いします!!」
上の部屋まで聞こえそうな大きな声が出た。
はっと口を押さえたけれど、もう遅い。
―い、言ってしまった…!
どうしよう。ああ、どうしよう。
でもあんな事が公になったら、きっとその日の内に私達は塔から吊らされる。
ここは…もう…。
恐る恐る視線を戻すと、ルイス様は笑いながら私を見ていた。
琥珀の瞳を細め、少し癖のある黒髪を片手で支えながら。
―まるで悪魔のように。
その時、私は初めてこの方の本当の一部分を見た気がする。
…あぁ、私はなんて恐ろしい人と相対していたんだろう。
心を落ち着けるために、私はソファーに姿勢を正して座り直した。
そして深呼吸をひとつ。
「…もうひとつ。マリーの安全も、保障してくださいますか?」
彼はゆっくりと頷いた。
「もちろん。他には?」
私はうなだれるように首を振る。
それはルイス様を満足させたらしい。
「じゃあ、これからよろしくね。フィリア。」
ああ、やっぱり彼には黒い笑みの方が似合う―
どうかこれが夢であればいいと思った。