3.黒い外套の男
フィリアはもう何がなんだか分からなかった。
「なんだきさっ…ま…ま……ききき貴殿は!」
その人の顔を見た瞬間、伯爵は急に真っ青になった。
かと思えば次の瞬間、虫を払うように勢いよく私の腕を振り払う。
「…ひっ!」
―倒れる!
すると外套に包まれた腕が待ち構えたように私を抱きとめてくれた。
フードが落ちて、顔が直に外套に触れる。
あっ…。
微かに上品な香りがした。清廉で控えめな花の匂い―きっと上流階級の人だわ。
ほっとして、体を離そうとしたけれど、もう腕に力が入らない。
いまや外套の男を見る伯爵の顔は恐怖にひきつっていた。
指先までぴくぴく痙攣させて、今にも失神しそうになりながら、何とか言葉にしようとしている。
「なななぜ貴殿がこのようなところに…?」
それに応じるその人の声は低く、艶やかで、とても冷たかった。
「仕事ですよ。いけないとでも?」
「!いっいいえ!いいえ!とんでもございません。私などがそんなっ…。その…それは、お、お仕事熱心なことで…。はははっ…」
「…。」
きっと蛇に睨まれた蛙というのはこのことを言うんだろう。
私を支えてくれる腕はとても優しいのに、伯爵にはまるで怪物のように恐れられている。
この人は誰なんだろう。
とても恐い人には思えない。
―もしかして、単に顔がすごく恐い…とか?
彼は伯爵の方を向いているので、角度的にここから顔を見ることはできない。それでも好奇心に負けた私は不躾にならない程度にそっと上を見上げた。
「で、では…私は捜査のお邪魔にならぬよう、これで失礼を。」
「えぇ。……あぁ、そうだ。邪魔というなら、平民を脅して都合よく事件を解決しようなんて、今後、ゆめゆめ思わぬようにお願いしたいですね。なにか隠したい事でもあるのかと、邪推しますから。」
「…!」
「はっははは…そんな、滅相もないことで…」
伯爵はもう虫の息だった。
捜査。
聞こえてきた単語に、私はなるほどと心の内で納得した。
あぁ、この方はどこかの騎士様なのね。
それで伯爵家のメイドが殺された事件を調べてらっしゃるんだわ。
胸の中の不安が晴れていく。
この方がいらっしゃるなら、伯爵様ももう無茶は言ってこないだろう。
こんなにも恐れている騎士様に、自分のやろうとした事を全て見抜かれたのだから…。
まあ、どうしてそんなにこの方を恐がってらっしゃるのかは分からないけれど。
「…そうですか。では、早く行かれるといい。」
騎士様の投げやりな許しを得ると、伯爵様はもごもごとした挨拶と品のない礼をして立ち去っていった。呆気にとられていた彼の従僕達もあわてて、散り散りに人波に消えていく。
「…はぁ」
その背中を見送ると、自然とため息が漏れた。
あっ、そうだ、お礼を言わなきゃ―
「あの―っ」
振り向いた横顔に、私は目を見張った。
なんて綺麗な顔―
肌は白磁、髪は宵闇、目は琥珀…その色合いもそうだけど、目、鼻、口、その全ての造形を神様が手ずから整えたみたいだわ。
間違いなく、今まで出会った誰よりも綺麗な人だった。
こんな方が同じ国にいらっしゃったなんて―。
そしてふと、その琥珀の瞳が同じようにまじまじと自分を見ていることに気づいた。
―やだ!私ったら!
「ぁ!ご、ごめんなさい!」
私は慌てて体を離して、下を向く。
見とれていたことに気が付かれたかしら。
たぶん、きっと、そうよね…知られたわ…。
もう恥ずかしくて顔から火が出てしまいそうだった。
すると先の私の無礼には気づかない振りをして下さったのか、幾分柔らかな声が降ってきた。
「…きみ、怪我は?」
「…ぃっ、いえ…ありません。」
私は上ずりそうになる声をかろうじて抑えた。
嘘みたい―なんて素敵な声。
低くて、甘く、穏やかな波のよう。
それに私の失礼を咎めずにいて下さるなんて…本当に紳士な方だわ。
でもそう思ってしまうと…なぜか、ますます恥ずかしい思いがこみ上げてきて。
私はもうとにかく、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった。
「あの、どこのどなたか存じませんが、危ない所を助けていただいてありがとうございます。私はフィリア・ミッチェルと申します。もし差し出がましくないようでしたら助けていただいたお礼を致したいのですけれども」
早口で、ワンピースの裾をつまむだけの礼で、とにかくお礼を言うのに必要なことを言いきる。
すると、
「………。」
…早すぎて聞き取れなかったのかもしれない。
そのくらい長い沈黙があった。
「…あの、」
ちらりと目線を上げれば、相変わらず麗しいお顔が信じられないものを見たかのように見開かれていた。
ああ。私、またなにか変なことをしてしまったの?
顔色を窺う私に、彼はなぜかとてもいい笑顔で首を横にふった。
「…あぁ、いや、何でもないよ。初めまして、ミッチェル嬢。こういう揉め事の解決は僕の仕事だし、お礼なんてと本当は言いたいところだけど、―少し、用があるんだ。いいかな?」
本当に、穏やかで、シェリー酒のように甘い声。
もしも夜のバルコニーで聞いたら、うっとりしてしまいそうな。
けれどその琥珀の瞳の、鷹のようにぎらりとした光が甘いシェリーには浸らせない。
「…は、はい。」
さあっと夢から覚めていく心地がした。
そうだわ、身内が犯人にされてる時に、こんなことを考えている場合じゃないでしょう。
しっかりするのよ、フィリア。
お兄様はいない。マリーを守れるのは私だけ。
彼女は事件とは関係ないって絶対分かってもらわなきゃ…!
「…はい、騎士様。何でもお聞きください。」
今度は落ち着いて言えた。
「ありがとう。部下を一人待たせてるんだ。君の侍女の方へ行かせたから合流して―あ、来たね。」
騎士様が言い終わるか終わらないかくらいで、私は誰かに勢いよく抱きつかれた。
「フィリアお嬢様!!」
「マリー!!」
マリーの顔は泣き濡れてぐしゅぐしゅになっていた。けれど、怪我一つない姿に心から安堵する。
「申し訳、申し訳ありませんお嬢様ぁ!私が、なにか、もう、なにか変なことになってしまってお嬢様にとんだ迷惑をっ!」
あぁマリー、私の侍女。私の唯一の友だち。
「ううんマリー、迷惑なんて。私が勝手に割って入ったのよ…結局何もできなかったけど。本当、あなたが無事でよかった。」
「うぅうお嬢様~!!」
申し訳ありません~!とむせび泣くマリーの肩をフィリアは優しく抱きしめる。
ぽんぽんと背中をさすれば、マリーはますます激しく泣いた。
その様子を見て、少し困ったような声が隣から聞こえてきた。
「あちゃあ~」
「…ガレキ。」
「…あー、すいません。でも、どうします副団長。このまま兵舎に連れていっても、正直どうかと…。」
声の主はポリポリと鼻をかきながら、私を助けてくれた騎士様に向かってそう言った。きっと彼が部下の方なんだろう。
フードを下ろし、日に透ける髪は金色に近い茶色。目は南方の国々に多いハシバミ色で、よくよく見ると顔立ちもどこかロウェーナ人とは違って見えた。異国の方の血が入っているのかしら?
そう思っていると、ふいにあの騎士様が振り向いたので、私はびっくりした。
「ミッチェル嬢、本来ならうちで話を聞きたいところなんだけど、その状態じゃあ無理だよね。ひとまずどこか落ち着けるところに避難しようか。」
そう言って、彼の琥珀の瞳が静かに辺りを見回す。
確かに横暴な伯爵様を退けた新しい乱入者に、ちらちらと周りの目が注がれていた。
「…では、どうぞうちへおいで下さい。」
「いいの?」
「はい。古びた塔で、大したおもてなしも出来ませんが…それでもよければ。」
マテーラは狭い街だ。こんな騒ぎ、きっともう噂が立っていて、今からではどこのお店に行っても聞き耳を立てられるに違いない。
妙な噂になるのは騎士様達にとっても、マリーにとってもよくないだろう。
「助かるよ。馬車を用意してあるから、それを使ってくれて構わない。」
私の気遣いを感じて下さったのか、その人は少し口角を緩めてそう言った。
素敵だった。
心臓の鼓動が速くなる。
ああ、おかしいわ。
私ったら、またおかしい。
この方を見ていると、私が私じゃなくなるみたい。
でも、いったいどうして―?
その時、
"気づかない方がいい"
何かが私にそう囁いた。
なにより、この場には不謹慎だ。
「…ぁ、ありがとうございます。」
私は顔の熱に気づかれないよう、素早く頭を下げた。
どうかこの間に少しでも熱が引きますように―
すると部下の方が拍子抜けするほど明るい声で場を区切る。
「…それじゃあ、お嬢様方は俺が馬車まで案内しますよ!副団長は馬でついて来てくださいねー。」
「…任せるよ。」
「…はい。お願い、します。」
その声にどこか毒気を抜かれた私は、そろりと視線を彼に戻してみた。
彼はもう、私の方を見ていなかった。
ずきん
今度は胸がいたい気がした。
―もう、ほんとに、何なのかしら。
私は、なぜか少し悲しくて。
でも心底ホッとしている。
この初めての気持ちをそっと奥底にしまいこんだ。
部下の方に連れられて、私はまたマテーラの街の喧騒に包まれる。
鋳物屋の角を曲がり、少し広い路地に入ると、ふいに彼が私達を振り返った。
そして私を見て意味深な笑みを浮かべる。
「どうです、素敵でしょう?うちの副団長。」
「えっ!いえ、そんな…っ」
私は慌てた。
ここで否定をしても、肯定をしても、正しくない予感がしたのだ。
「その…えっ…と…!」
「はははっ、いえいえ。いいんですよ、あの人に惹かれないレディなんて俺はお会いしたことないですから。」
それを聞いて、とんでもない誤解。と思った。
きっとこんな私にぴったりなのは、もう名前も思い出せない、今度夜会に行く約束をした男のような人で。
騎士様は確かにすごくすごく素敵な方だけれど、私はそんな感情を抱いていない。
決して。
それに、もしも、例えもしも、私が彼に好意を持つことがあるとしても、今ではない。
だって私は彼のことを何も知らないじゃない。
こんなに会ってすぐ、まだ名前も知らない内から好きになるなんて―なんとなく、なんとなくだけど、騎士様に失礼な気がした。
「そんな―、私は、ただ…っ」
言いかけた否定の言葉を、彼は真面目な声で遮った。
「―しかしお嬢様は、本当にお可愛らしい。」
「っ!」
私はこの人にも馬鹿にされたのかもしれない。
なぜかそう思った。
でも前を行く彼は、私の様子を気にした風もなく今度はお調子者の口調で続ける。
「小さくて、儚くて…ああ、そうだ!お嬢様、よく妖精みたいって言われません?」
「…いいえ、まったく。」
「はははっ!そうですか~。」
私はもう疲れてしまった。
毒があるのか、単に無邪気なのか、私にはわからない。
それを知る立回り方も、私には思いつかない。
仕方ないじゃない。
長い間、私の話し相手はマリーと楽譜だったのだから。
思えばこんなに誰かに振り回されるのも随分久しぶりだった。
…でも、この騒動ももうすぐ終わるわ。
事情を説明してマリーの潔白を分かってもらえたら、もう私たちに用はないもの。
彼らはお茶を飲んで、帰る。
そうしたら、またいつもの日常が待っている。
すると路地を抜けた所で、彼はにっこりと笑って振り返った。
「さあーこれですよ。」
彼の後ろに立派な二頭立ての黒い馬車が見える。横面には金文字で紋章が―ロアーヌ騎士団の紋章が描かれていた。
ああ、彼らはロアーヌ騎士団だったのね。
どこの騎士様だろうと思っていたけど、ロアーヌ騎士団はロウェーナ王国の二大騎士団の一つだ。
マリーはその紋章を見て少し肩を震わせた。
「大丈夫よマリー。彼らは立派な騎士様だわ。」
身元が知れない人の馬車に乗るわけじゃない。
ハシバミ色の彼は御者に一言二言告げた後、馬車のドアを開けた。
「足元に気をつけて。お手をどうぞ、お嬢様。」
差し出された手を、私は何も思わずにとる。
次いでマリーがエスコートされて、少し顔を青ざめさせながら私の前の席に座った。
合図とともに静かに馬車が動き出す。
するとマリーが落ち着かない様子で、袖口のボタンを何度もかけたり外したりし始めた。
「…マリー?なにか気になるの?」
「あ、お嬢様、その………。」
彼女はしばらく躊躇っていたけれど、やがて意を決したように続けた。
「お嬢様はあの方々をうちにお招きしたんですよね。」
「えぇ、そうよ。仕方がないでしょう。この街でこんな騒ぎになっちゃったら、どの店に行っても野次馬だらけだわ。それに、助けて頂いたお礼はしなきゃいけないと思うの。」
マリーの不安を取り除くようにゆっくりと話せば、彼女は取りすがるように私の両手を握った。
「いえ、いいえ!違うの。」
「えっ?」
「あの騎士様達を信頼できないとかいうことではありません。あのっお嬢様をお助けになった方―副団長のお方、は、つまり、三大公爵家の方では―?」
さんだい、こうしゃく?
フィリアは今、聞こえてきた単語が頭に入らなかった。
「…えっ?」
「やっぱり、そのっ―!間違いありませんって!三大公爵家の一つランドット家の次男であり、ロアーヌ騎士団の副団長であり、この国で最も貴重な"名を持つ方々"のお一人―ルイス・D・ランドット様よ!!」
私は石になった。
マリーは悲鳴のような声を上げた。
たぶん、そう、彼女は喜んでいる。
かくいう私は、なぜか―心臓に冷水をかけられたような心地がした。