2.マテーラの街で
パレットの鮮やかな青が暗い紫に、
小花のような黄色が赤茶けたオレンジ色に、
澱みなく動く筆で変わっていく。
色彩の変化もさることながら、画家は絵のテーマを簡単には悟らせない。
筆が三人の男達のシルエット―おそらく嘆いたり、膝をついたり、祈ったりしている―と、一人の女の影を描いたところで、フィリアはテーマに想像がついた。
―建国神話の最終場面だわ。他の人達は気づいたかしら。
フードの下からちらりと周囲を窺うと、まだみんな一心不乱に画家の筆の先を見つめている。
「ねぇマリー、あなたは…」
そう言って隣にいる侍女の袖を引こうとしたら、見たこともないおばさんの買い物袋に触ってしまった。
「…?」
「あ、失礼、ごめんなさい。連れと間違えて…」
咄嗟に謝ると、おばさんはすぐに興味をなくして視線を画家の手先に戻した。
…どうしよう。マリーがいない。
ま、迷子―?
私は背中がひやりとした。
ここはマテーラの街でも貴族ご用達の店が並ぶ番街通りとは違い、職人達の衣食住を支える下町の市場である。
私のひいひいひいお爺様は計画という言葉が大嫌いだったため、その都度都合に応じて道が作られ、結果…まるで木の根のように入り組んだ下町ができてしまったらしい。
うっかり立入ってしまったら危ない場所もあるとマリーが言っていた。
だからフィリアも、町娘のような薄水色のワンピースに茶色のコートを着て、さらにフードで顔を隠している。
世間知らずの私が一人で歩くのは無謀よね。
マリーが探しに来てくれるのを待つしかないわ…。
「はぁ…。」
もう絵どころではなくなったフィリアは、画家を囲む観客の輪からそっと離れた。
不安と心細さが肩にのしかかってくるようだった。
この芳ばしいタレの匂い、さっきまで美味しそうと思っていたのに…元気な売り子の声も、どこか憎らしいわ…。
すると「おおっ」という声と拍手が隣から沸き起こった。
見やると、画家が得意気にお辞儀して、ひっくり返した帽子に見物料をせびっている。
観客の足下からちらちらと完成した絵が見えた。やっぱり建国神話の最終場面―女神ロウェーナが弟子を置いて海に還る場面だった。
ロウェーナ王国の建国物語は壮大にして華麗―昔から芸術家達にとって外せないテーマである。
曰く、この国の始めは混沌であった。
人々は無知で無気力だが、争いだけは絶えることがなかったという。
神々は、キルヘ山の遥か上空にあるという天上界からその様を見て嘆いていた。
ついにある時、父なる神が一人の女神を地上へ遣わす―彼女こそ、建国の女神ロウェーナである。
彼女はその知恵でめざましい働きを見せた。
山をならし、川を静め、作物を植え―この国を永久の飢餓と争いから救ったのである。
人々は感謝した。女神のおかげで人間らしい性格を取り戻したのだと。
けれど次第に人々は欲深くなった。
女神の知恵をもっと知りたい―
女神の力を自分のものにしたい―
行き過ぎた願いはやがて争いになる。
自分のために新しい争いが生まれることを嫌った女神は、三人の弟子だけに自分の願いを告げ、海に還ったという。
画家が描いたのは最後の場面―願いを告げ、海に身を投げた女神と、彼女を失って悲嘆にくれる弟子達の姿である。
その時、視界の端にくたびれた革靴の先が入った。
「ちょいと、そこのフードのお嬢さん、よけりゃあ5ピューロでもいいから入れてくれないかい。」
顔をあげれば、さっきの画家がそばかすの顔にぎこちない愛想笑いを浮かべて硬貨の鳴る帽子を差し出していた。
「あぁ…、そうしたいんだけど、ごめんなさい。侍女とはぐれてしまって、今持ち合わせがないの。」
恥ずかしながらもそう断ると、彼は私の顔を見てなにか驚いたらしい。
大事な帽子を落としそうになって、あわてて両手で抱え直していた。
「あーえーっと、そうかい。そりゃ仕方ねぇや。ところでお嬢さん、いやお嬢様、あんたお貴族様だろ?連れは?まさか迷子なのかい?」
「…えぇ。そうなの。本当に恥ずかしいわ…。侍女にここまで連れてきてもらったのだけど、あなたの絵を見ていたらいつの間にかはぐれてしまって…」
「それはまた…俺っちからしたらうれしい話だけど、お嬢様にしたらとんだ災難だなぁ。」
そう言って彼は困りながらも照れくさそうに笑った。
これが本来の笑い方なんだろう。頬に緑色の絵の具がついているのも相まって、人好きのする青年に見えた。
「あー、そうか。でも、うん…脅かすわけじゃないんだけど、あんた、早く連れを見つけて家に帰ったほうがいいと思うぜ。そんでしばらくはここに来ないほうがいい。」
青年は人目を憚るようにそう言った。
「えーっと、そう、ね。―でも、どうして?」
「カイレア国の奴らさ。このところ奴らが大量にロウェーナに避難してきてるって知ってるかい?どこに行ってもあぶれてるって噂だけど、この街でも特に仕事があるわけじゃない。奴ら、いっつも夜になったらどこかしらから集まって、影みたいにその辺で寝てるのさ。…そんな奴らが、昨日ついにやらかしたらしいんだよ。」
「…なにを」
「殺しを。どこかの屋敷メイドを一人。今朝、そこの川から死体があがったんだけど、ひどく傷つけられてたらしいって。」
私は息をのんだ。
頭のなかで水を纏った青白い死体が、今ここにいない友人のものに変わっていく―。
「―っマリーを、侍女を探さなきゃ。もう行きますね。どうも、お話をしてくれてありがとう。」
さっと踵を返した私の背に、たぶんフォローのつもりで彼は言葉を重ねた。
「あぁっ!でも、そんなに恐がらないで。メイドはカイレア人さ。お仲間同士の揉め事だろうって―!」
なにもフォローになっていない。フィリアはもう振り返らない。
「えぇ。本当に、もう、ありがとう。」
マリーはカイレア人だった。
カイレア公国についてフィリアが知っていることはそう多くない。
オスチロル渓谷を国境に隣り合っているその国では、音楽こそが至高の芸術とされていて、何年か前にも反乱や内乱が起きていた…そのくらいだ。
今回の争いでカイレア公国の人々が、この国に押し寄せているなんて初めて聞いた。
もっとも、私は塔からほとんど出ない暮らしを続けてきたのだからなんの不思議もないのだけれど…。
狭い路地をうねるように行き交う人、人、人の波。
フィリアは彼らを足早に追い越しながら、辺りを見回した。
見つからないわ。どうしよう。マリーは大きな路地から離れた店になんて行かないと思うんだけど…。
その時「きゃっ」というかすかな声が聞こえた気がした。
とても聞き覚えのある声…。気のせいかもしれない。それにこんな人混みの中で聞こえるわけない…でも…。
見つけたのは人波の向こう、果物屋の隣の空地。肩で揃えられたブルネットが、屋敷勤め風の2人の下男に囲まれている。
―見つけたわ!
「っマリー!!」
「―!フィ、フィリアお嬢様!」
いつもは強気なマリーが泣きそうな顔をしていた。
とりあえず無事な姿を見てほっとしたのも束の間、マリーの腕を隣の下男が掴んだ。彼女は震えている。
どう見ても無理やりだわ。
気後れしそうになる気持ちを奮い起たせて、割って入るように私は声をあげた。
「わっわたくしの侍女になにかご用ですか?」
私を見下ろす男の無感情な目。私はそれを咎めるように睨み返す。できるだけ高慢に見えるように。
こんなこと、やったことない。
怖い。ほんとうに怖い。
もうこんなところ、早く逃げ出したいのに。
下男はまだマリーの腕を離さない。
たぶん私が貴族だと気がついたのだろう。彼は眉をひそめると、ふいに後ろを振り返った。
そこには―ああ、なんてこと!―更に5、6人の男がいた。
フィリアは頭から血が下がっていくを感じた。
誘拐、暴行、川、という単語が昼間の走馬灯のように頭のなかを駆けめぐる。
するとお仲間の男達の中から一人の男が近寄ってきた。
「失礼。―そちらは?」
物言いはまるで執事のようだが、眼鏡ごしに値踏みするような視線を向けてくる。
「ご、ごきげんよう。わたくし、フィリア、ミッチェルと申します。彼女の、雇い主ですの。…あの、彼女がなにかご迷惑でも?」
震える声をできるだけ抑えてそう言えば、執事はうっすらと嘲笑の笑みを浮かべた。
勝利を確信した嘲りだ。
「…ほう、男爵家のご令嬢でしたか。これは失礼。私共はゴードン伯爵家の者でございますが、そこの使用人に少々お話しがございまして…」
嫌な抑揚をつけて話す人だわ。
男爵風情が黙っていろ、という本音がすけて見える。
けれど、ここで折れては意味がない。私はなけなしの勇気を振り絞った。
「まっまぁ!ゴードン伯爵家の方が?わたくし、まるで分かりませんわ。うちの使用人を誘拐するようにお連れになるなんて―いったいどんなご用なんでしょう!」
ちょっと大きな声で言ってやった。
執事が苦々しげに顔を歪める。
その顔を見ながら、私はしてやったというより祈るような心持ちだった。
お願いよ、通りすがりの人―!誘拐って聞こえました?!聞こえましたか!?
もし聞こえたら騎士団か、自警団の、誰でもいいわ!だれか人を連れてきて―!
完全な人任せである。
だって、極めて平凡な私がこの屈強な男達を追い払えるわけない。
すると急に執事の男が私の腕を掴んで引き寄せた。
「ひっ!」
びっくりして、私は固まってしまう。
「…早朝、当家のメイドがロアーヌ川から遺体で発見されたと報告がありました。この街と王都を結ぶ橋の下にいた画家が最初の発見者です。死因は溺死のようですが、どうやら昨晩はそこのメイドと約束があったようで。はしたなくも女同士数人で酒を交わしていた店に聞いたところ、うちのメイドは酔ったそこのメイドを送り届けると出ていった後、行方がわからなくなったそうなのです。」
耳打ちされた言葉は汚泥のように生臭かった。
「ま、まさかマリーをお疑いなのですか?」
「えぇ。…金に困ったカイレア人労働者同士、ささいな事で諍いが起き、酒の勢いあまって、一方が他方を殺してしまっても、なんの不思議もないと思いませんか。」
男はわざとらしい、寒々とする笑みを浮かべた。
そこには亡くなったメイドへの憐憫も、犯人への憎悪も感じられない。
私は愕然とした。
この人はそもそも話をきくつもりなんてない―何がなんでも、マリーを犯人に仕立てるつもりなんだわ!
「こ、怖い冗談はやめてください!昨晩、私の侍女は日付の変わる一刻前には帰ってきました。そちらのメイドが今朝ここの橋下で見つかったというのなら、彼女は本来もっと川上で殺されていたのではありませんか?」
王都とマテーラの境を流れるロアーヌ川は、穏やかに見えて流れが早いことで有名だ。
たとえ遺体が―あまり考えたくはないけど―木や橋に引っ掛かって流されない時があったとしても、夜を越えてこの小さな町に留まるなんてことは考えにくい。
すると執事は不気味に薄目を開いた。
「おや、世間知らずのお嬢様かと思えば。」
「~っ!!」
馬鹿にされている。
羞恥と恐怖でフィリアは固まった。
「~おい、まだなのか。」
その時、不機嫌を隠そうともしない声が執事の後ろから聞こえてきた。
「…申し訳ございません、メイドの主人がついてきておりまして。」
執事は固まる私の腕を放すと、奥に向かって一礼する。
…横柄な態度からして、ゴードン伯爵家の主筋かしら。執事から報告を受けながら、私を値踏みするかのように見てくる。
いやな感じ。私とマリーを解放するかどうか話しているのかしら…。
目をそらして、私はフードを深くかぶり直した。
「なに?…ふん、どうせ取るに足らない家だろう。その女も連れていけばよい。」
「では、そのように。」
まさに鶴の一声だった。
えっと思う間もなく、私も男達に囲まれてしまう。視界が遮られ、とっさに悲鳴もでなかった。
「早く帰るぞ。」
「御意。」
一歩、二歩、周りの男達に押されるがまま進んだところで、周囲の店主が声を上げてくれた。
「おいおいあんた達!その子らをどうするんだい!」
それを皮切りに、通りがかりの人の目が私たちに集中する。
「…連れ去りか?」
「でも、あれ…貴族だろ…。」
「おい、騎士団を呼んだほうがいいんじゃないか。」
もっと…もっと、言ってください!
情けない私はとうとう声が恐怖で張り付いてしまったらしい。心の中で周囲の声に全力でうなずく。
けれど、それが短気な伯爵様の勘にさわったらしい。
「うるさいぞ貴様ら!平民の分際で貴族に楯突くか!まったく、お前がノロノロしているからだろう!早く来い!」
下男を押しのけて、乱暴に男の手が伸びてくる。
「っっ!!」
伯爵様にぐいっと腕を引かれた途端、その腕を別の手が押さえた。
「退きなよ。」
割って入ったのは黒い外套で頭まで覆い隠した男の人だった。