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犠牲と対価(5)

「ゼ──っ!」


 思わず名を呼びそうになった口を、慌てて押さえる。ここでシュエが声をかけたところで、気を逸らさせるだけだ。


 狼に似たそれは、漆黒の毛並みをもち、鋭い牙をあぎとから覗かせている。


 周囲には、兵士や使用人がおびただしい量の血を流して倒れていた。


 シュエは戦慄きそうになった体を叱咤し、黒い獣を睨む。


「あれが魔獣の『影』……?」


「そうだ。ああして定期的に分身を寄越して人を襲わせ、恐怖を上塗りしている。だが、城に現れたのは初めてだ。どうやら、魔獣はあんたに気づいたらしいな」


 ざまあみろと言いたげな顔で、追いついてきたエンデが告げる。


 それを無視して、シュエは駆けだした。失神しているだけらしい侍女を庇って、ゼグが体勢を崩したからだ。


 無防備になった体に、牙を剥き出しにした獣が迫る。その脇腹に、シュエは腰だめに抱えた剣ごと突っ込んだ。


 今のシュエの力では、斬りつけたところで怯ませられないと思ったからだ。


「なっ──姫様!?」


 片膝をつきながらゼグが驚愕するのを横目に、押し倒すようにして全体重をかけ、柄まで押し込む。


 だが獣はそれでも絶命せず、凄まじい力で身をよじった。


 魔獣の瘴気に蝕まれていた剣が根元で折れ、支えを失ったシュエはあっさりと振り飛ばされる。


「きゃあっ」


 華奢な体は為す術もなく地面に叩きつけられ、防護など考えられていない薄布越しに容赦なく砂利が喰い込む。


 痛みを無視して起き上がろうとしたが、獣の方がさすがに速かった。


 標的を変えたあぎとが、シュエに迫る。


 とっさに頭部を腕で庇ったが、獣の牙は柔肌に喰い込む前に、シュエの背後から突き出された短剣によって阻まれた。


 それは片目に深々と突き刺さり、獣の動きを僅かに止める。瞬間、ゼグの渾身の一撃が、その首を両断していた。


 赤黒い瘴気まみれの血が噴き上がり、降り注ぐ。シュエの肌を焼くはずだったそれは、ゼグが身を盾にしてくれたことで防がれた。


 シュエは驚いたが、羽織っていた外套がゼグのことを守ってくれていた。


 そのことに安堵する間もなく、鼻が触れるほどの距離で問い詰められる。


「なぜここに!」


「ひ、悲鳴が聞こえて」


 驚愕を隠しきれないゼグの瞳を見つめながら、正直に答える。


 ゼグは眉間に皺を寄せつつ、何か言いたげに口を再び開いたが、視線をシュエの背後にいた男に移してしまった。


「どういうことだ、エンデ。お前の隊長は私を呼んではいなかったし、あの男は殺されていた」


 わかっていて、問うている声だった。低く、冷たい殺意が滲んでいる。


 事実、ゼグの右手には剣が握られたままだった。魔物の血に触れたのに、蝕まれるどころか刃こぼれすらしていない。


 独特の青白い輝きが、魔導銀製であることを物語っていた。


「説明しろ」


「説明の必要がありますか?」


 ゼグの詰問に対して、エンデもまた、意思の揺るがぬ声音で応える。


「さっさと殺せ。王族を殺そうとした時点でどうせ死刑だ。その場で打ち首にしても、誰も咎めはしない。裁判したところで、国王の欺瞞を露呈する場を俺に提供するだけだしな。それはそれで、かまわないが」


 エンデの言葉に、ゼグの顔色が変わる。その変化に、エンデのほうがおやという顔をした。


「なるほど? お付きの騎士はご存じだったか。騎士道精神が聞いて呆れる。幼子を魔獣に喰わせて、お姫様を隠す気分はどうだ? ああ、それはそれで、騎士の道か。絶対の忠義は己で考えることをやめられていいな?」


「黙れ」


「黙らせたいなら殺せ。どうせもう、その女は魔獣に見つかった! ご馳走が隠されていたことに、さぞ立腹してるだろう。生きたまま、手足から喰われて死ね!」


 最後の言葉をシュエに向かって吐きかけた瞬間、エンデはゼグに頬を殴打され、地面に倒れ伏した。


 赤く腫れ上がり、血の滲んだ口端をなおも笑みに歪めて、エンデが笑う。


「どうした、はやく殺せよ」


「しない。姫様がそれを望まれていない」


 ゼグの一言に、エンデの両目が見開かれる。


 彷徨った視線の先で、シュエの手が、ゼグが握る剣の柄頭を抑えていた。


 先ほどからずっと、ゼグは怒りに震えながら、殺意をぐっと堪えている。


「なんだ、それ。同情か? 今更? もう、妹は喰われちまったんだよ!」


 戻って来ない! そう叫び、再びシュエに飛びかかろうとしたエンデを、先ほどと同じようにゼグの手が殴り倒す。


「……我々がその事実を知ったのは、一年ほど前だ。アルバ様はシュエルバ姫にも手紙を遺されていた」


「──アルバ? もしかして、あの騎士か」


 エンデはゼグが事情を知った理由と時期を理解したらしく、瞳に戸惑いを滲ませた。


「あいつはあのあとすぐ自害しただろう。なんで、一年後に」


「書庫に保管されていた、魔導書に挟まれていたのだ。普通に遺していたら、処分されていただろう。ゆえに、魔導研究者である姫様がいつか開くと信じて──。くそ、なぜ私に直接渡さなかった」


 当時を思い出したのか、思わずといった体でゼグが吐き捨てる。その言葉に、エンデがくっと喉奥で嗤った。


「あんたじゃ意味がないからだろ。その手紙はその女への呪いだ! まぁ、この事実を知っても平然と生きていられるんだから、それも無駄だったようだがな!」


 再びのシュエルバ姫に対する侮辱に、シュエはゼグがまたエンデを殴ると思った。


 だから咄嗟に腕を掴もうとしたのだが、ゼグの腕はエンデに伸びることなく、固く握り込まれていた。


「違う。それは、違う。平然となど、しておられるわけがない。そんな御方ではない! お前が言うとおり、犠牲になった命は戻って来ないのだ。事実を知った姫様はとても驚き、悲しみ、嘆かれた」


「だから、命を狙った俺を見逃すと? 冗談じゃない! 俺は──」


「違う。お前は、姫様の覚悟に必要なのだ」


「は?」


「事実を知った姫様は、すぐさま陛下を糾弾なさった。そして、御身を最後の生贄とし、魔獣を討伐する準備をするよう命じられたのだ」


 国王は絶対の存在だ。その地位を、娘だろうが軽んじることは不敬にあたる。


 だがシュエルバ姫は、あえて「命じた」のだろう。目を覚まさせる為に。そして、己の覚悟を伝える為に。


 ようやく、シュエの中ですべてが腑に落ちた。


 毒薬は、魔力量の多いシュエルバ姫を、魔獣から隠すためだったのだ。体を弱らせ、治癒に魔力を消費させていた。軟禁は毒の症状が不足の事態を起こしたとき、すぐに対処出来るよう──。


(手紙で事実を知ったシュエルバ姫が陛下を問い詰めたことで、その絡繰りを知ったのね。薬を飲まなくなったことで体調は戻り、魔力も戻ったんだわ)


 その時点で、次の──最後の生贄は自分だと覚悟していた。


 体の快復とは裏腹に、シュエルバ姫が鬱ぎ込んでいった理由も、そう考えれば納得がいく。


 本人ですら執着していなかった命が、数多の犠牲によって繋がれていた現実に、打ちのめされないわけがない。


(ああでも、そこで国のため、民のためと覚悟を決められるあたり、人生を諦観しつつも、彼女は常に王女として精一杯努力もしていたんだわ)


 彼女が遺した魔導研究の成果が、それを証明している。ただ息をするだけの人生を送っていたなら、遺るはずのないものだ。


 だからこそ、シュエは今、ここにいる。


 王女としての、「犠牲は自分で最後だ」という強い想いがなければ、あの細月の夜に殺されたことを無念に思いこそすれ、これほどの行動を起こさないだろう。


(魂を対価にするなんて、尋常じゃないわ。二度と転生できないということだもの)


 この世界において、輪廻転生は事実として語られている。


 神魔精霊が、世界にあまねく存在しているからだ。


 死んだ者の魂は皆、月女神ゼシャスに導かれて眠り、太陽神ギルエギナによって祝福され、新たな生を授かる。


 創世の二柱が姿を見せることはまずないが、その他の神々や精霊王、それに連なる数多の精霊を視ることができる者は多い。


 そしてその祝福を強く受けたものが、魔導師の始まりだった。


 すべての命は、魂を核として巡る。それが失われてしまえば、二度と生まれ変わることはない。


 それを対価にしたがゆえに、シュエルバ姫の召喚魔法が成功したとも言えるが。


(そして、これ以上の犠牲を望まないからこそ、私を選んだのね)


 シュエルバ姫の体をシュエよりもうまく護れる者は、星の数ほどいたはずなのだ。それこそ、時代すら無視出来たのだから。


 だが、彼女はシュエを選んだ。


 彼女の構築した魔導式の条件に合った者の中で、シュエだけが死ぬ運命にあったのだろう。


(生贄として死ぬために、選ばれた)


 驚いてもいるが、どれほどの覚悟をもってシュエルバ姫がその決断をしたか、シュエにだって想像くらいはできる。


(あのときは混乱していたから、シュエルバ姫の言葉の一言一句を正確に思い出すことはできないけれど、その声音が苦渋に満ちていたことだけは覚えてる)


己が非力なばかりに、惨いことをさせなければならないと、苦しんでいた。


(大丈夫ですよ、姫様。今際の際に与えられた栄誉だと、私は思えます)


 思うことにする。とシュエは自分に言い聞かせた。


 本当は安直に殺された自分が情けないし、悔しくてたまらないが、これほどの覚悟を託されて、誇らないわけにはいかない。


(それに──)


 シュエの視線が憧れの騎士に向けられたとき、同じようにエンデの視線も向けられていた。


「魔獣を……討伐? それが不可能だから、今こうなってるんじゃないか!」


 ゼグの言葉をようやく呑み込んだらしいエンデが口を開いたことで、シュエの思考も引き戻される。


 中天を過ぎた高い日差しが、三人に濃い影を落としていた。


「成し遂げよと、姫様が国の民のためと命じられた。我々はそれを叶えるのみ」


「馬鹿な。失敗したら、国を滅ぼされるぞ」


「そうならないために、戦力は減らせない。理解したか」


 ゼグの言葉に、エンデはしばらく呆然としていたが、やがてふらりと立ち上がった。


 どこかおぼろげな視線が、シュエを見下ろす。


「だから……俺を許すのか」


「正直に言うと、違うわ」


 シュエの即答に、ゼグとエンデが見事に戸惑う。その様子がおかしくて、シュエは緩みそうになった口元を咳払いで誤魔化した。


「私、高熱をだした後遺症で、記憶が少し曖昧なの。だから、さっきエンデに生贄のことを知らないと言ったのは本当だったし、今、ゼグの言葉で知って、実はものすごく驚いてる」


 なので当然、シュエがゼグを抑えていたのは、まったく別の理由からだ。


 魔獣の影に飛びかかられたとき、すぐにゼグが首を刎ねたとはいえ、エンデの一手がなければシュエは無傷では済まなかった。


 それが無意識の行動だったことは、助けた相手が仇である時点で明らかだろう。


 心根に義心のある者を、シュエは安易に殺させたくなかったのだ。


 それを歪ませた理由がこちらにあるのなら、なおさら。


 シュエが黙ることで見逃せる罪なら、機会を与えたかった。


(私が私の考えでシュエルバ姫の立場を利用するのは、間違いなのかもしれないけれど)


 結果的に彼女の望みに添うならば、問題はないだろう。


 シュエはそう判断して、エンデを強く見つめ返した。


「事実を知って、自分の考えも知って、驚きはしたけど納得もしてるわ。私は私だもの。だから、私に贖う機会を。貴方が城に残ってくれることを、願います」


 エンデの顔が歪み、瞳に憎しみと怒りが滲む。強く握り込んだ拳が、震えていた。


「貴方が……己の罪を認め、贖うと言うのなら、まずはそれを見届けようと思います。それまでは、このまま勤めを果たしましょう」


 絞り出すような掠れ声で告げ、エンデはシュエとゼグに背を向けた。


 よろよろと歩み出した横顔に、声をかける。


「貴方の剣、だめにしてしまってごめんなさい。あとで新しいのを届けさせるわ」


「──なら、瘴気にも朽ちない剣を、お願いします」


 その返答にシュエが満面の笑みを向けると、エンデは本当に嫌そうに目元を歪めて、歩調を速めた。


 その背が視界から消えると、傍らで気を失っていた侍女をゼグが起こす。


 魔獣の遺骸の処理と怪我人の手当の手配を命じると、侍女は何度もゼグに感謝をしながら、人手を集めるために駆けていった。


「騒がしくなる前に、我々は屋敷に戻りましょう」


「へぁ!?」


 言うなり抱きかかえられて、シュエは色気もなにもない声をあげてしまった。


 あまりの恥ずかしさに、両手で口を押さえる。


「──なん、なっ」


「申し訳ありません。お怪我をされていたので、つい」


「一言断りなさいよ!」


 思わず素で返してしまい、シュエははっとしたが、ゼグは特に反応を見せなかった。


 となれば横抱きにされている現実と向き合うしかなく、シュエは内心できゃーきゃーと悲鳴をあげつつ、高揚が顔にでないよう必死に息を詰めた。


 軽々と己を抱え上げる逞しさに、乙女としてときめかないわけにはいかない。


 なんだかんだとゼグはシュエの傍にいたが、それは扉越しの廊下だったり、庭園の外れだったりと、意外と遠い位置だったのだ。


 一番近くても、三歩離れた斜め後ろだ。


 それがいきなり、肌の匂いが嗅げるほど近くにいる。


(良い匂いがする。なにを使ってるのかしら)


 憧れの騎士が愛用する香水がなんの香りなのか、シュエは必死に分析しようとしたが、不意に額に強い視線を感じて目を瞬かせた。


 促されるままに顔をあげると、当然、ゼグと目が合う。


「ゼグ──?」


「貴方は、エンデの剣を持って現れた。奴が貴方を襲う前に騒ぎが起こっていたら、ありえませんよね?」


「ええと」


「私を庇うために魔獣に挑んだときも、まるで迷いがなかった」


「それは、その、夢中で」


「剣の扱いに慣れた者の動きでした」


 瞬きしてるのかすら怪しいほど注視され続ければ、誰だって顔を逸らしたくなる。


 だがゼグの瞳はそれを許さず、返す言葉を見失ったシュエの視線を縛っていた。


「襲われたが撃退し、エンデの剣を貴方が奪った。そのあとで騒ぎが起き、貴方が向かったために、エンデも追いかけた。間違ってますか?」


 顔に脂汗をかきながら、口端を引きつらせるような笑みしか返せない時点で、答えたようなものだ。


 身じろごうとしたシュエの体を抱える腕が、微かに強まる。




「……それで、お前はいったい誰だ」




 まあそうよね、という気持ちになってしまえば、多少気が楽になって、シュエは情けなく眉尻を下げた。


「気づかれてしまった以上、隠すことはなにもないのですが──できれば話の前に着替えを」


 そこでようやく、シュエのドレスが腰でざっくり裂けていることに気づいたらしく、ゼグは僅かに戸惑いを滲ませたが、固い表情は崩さずに頷いた






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