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非現実と現実の境界(2)

 四日後、ようやく力が入るようになってきた体をなんとか動かして、シュエは隣室にある衣装部屋に入った。


 化粧台の椅子に座り、たかが十数歩の移動で上がった息を整える。


(手鏡を持ってきてと、パナに言えば済んだ話だったのだけれど)


 そうしなかったのは、独りきりの時に確かめたかったからだ。シュエは最後に大きく深呼吸をしてから、意を決して鏡にかかっている布を剥いだ。


 長い沈黙を経てから、震える吐息にかろうじて言葉をのせる。


「──ああ、嘘でしょ」


 わかっていた。わかっていたのだ。


 スィルカが傷からの失血(丶丶丶丶丶丶丶)と言った瞬間、あの細月の夜のことも、シュエは思い出していた。


 彼は──ゼグは、崖から転落した「シュエ」を助けたのではなく、あの夜の襲撃者から「姫」を護ったのだ。


 鏡など見なくとも、己の視界に嫌でも入る華奢な体つきや、剣など握ったことのない滑らかな手、日に焼けたことのない白い肌で察することはできていた。だが、頭のどこかでまだ否定したかった現実が、鏡越しに呆然とシュエを見つめている。


 意地で伸ばした腰まである自慢の紅い髪も、若葉色の瞳も、両親のいいとこ取りをしてしまった派手な顔も、そこには映っていない。


 パーツの作りは地味だが、美しい白金の髪と青い瞳が印象的な女性が、自分と同じタイミングで瞬きしている。


 顔に生気が感じられないのは、病み上がりだからなのか、シュエの心情を映してなのかは、微妙なところだ。


「どうして……どうして貴方は、これを願ったの」


 とても曖昧な記憶だが、この体にシュエの魂が入っているのは、おそらく本来の持ち主の意思によるものだ。


(でも、なぜ? 思い出すのよ、私。彼女はあのとき、なんて言ってた?)


 非現実的な状況にシュエを巻き込んだ、大事な要素だ。


(助けてと言っていた。とても切実な声で。だから私は、己の状況を忘れて駆けつけようとしたのよ)


 崖から落ちている最中にどう助けに行くのだと、今なら自分に突っ込みを入れられるが、あの瞬間、なぜかシュエは、ただ彼女を助けなければという一念に突き動かされたのだ。


「……魔法の一種だったのかしら。そう考えた方が自然なのかも。だって、信じられないわ。まさか自分が、シュエルバ姫の体に入ってるなんて」


 シュエルバ姫。シュエの母が彼女を妊娠している時にハマった、史実を元にした娯楽小説のヒロインだ。


 三百年前のレザレス国に実在した、お姫様。


 魔獣に攫われたシュエルバ姫を、彼女の騎士が命がけで取り戻す物語。


 姫を庇いながら戦うという不利な状況で、騎士は片目と片腕を失うが、それでも執念で魔獣を討ち取るのだ。そして、姫に看取られながら死んでしまう。


 ロマンチックで、哀しい物語。


 だからこそ母の乙女心に突き刺さったのだろう。勢いで、生まれてきた娘にシュエルバ姫から名をとるほどに。


 娘は寝物語にこれを語られ、同じように姫に、騎士に憧れたのである。


 そして、まさかまさかの現状なのだ。


 シュエとて、最初は己の夢かと疑った。自分は既に死んでいて、最期に夢を見ているのだと。


 けれど三晩寝ても、同じように目覚めてしまった。


 逃避をやめて現実を見ろと、妄想による綻びを一切見せない世界がシュエに迫ってくるのだ。


 パナも、ゼグも、スィルカですら、シュエが何者なのかを認識させるかのように、わざわざ名を呼んだ。


 シュエルバ姫、と。


 なにより、その事実を認めなければならないとシュエに決定づけさせたのは、ゼグだった。彼の左手の中指に、魔導書と幻光蝶の意匠が彫られた指輪が填められていたのだ。


 魔導書と幻光蝶の意匠は、当時、魔導研究の先駆者だったシュエルバ姫に、王が与えた紋章だ。


 つまるところ、シュエが入っている体は間違いなくシュエルバ姫で、彼女の紋章が彫られた指輪を与えられ、左手の中指に填めているということは、ゼグが彼女の騎士なのだ。


 シュエルバ姫の、護衛騎士。


 物語の中では、身分違いの恋を淡く連想させるためか、姓のみでかたくなに名が出なかった、憧れの騎士の名。


「ゼグ・タルジュ」


 妄想や夢では補いようのない事実を、シュエは知ってしまったのである。


 自分がシュエルバ姫の中にいること、つまりは三百年前の世界にいること、憧れの騎士が目の前にいること。


 すべてが事実としてシュエに迫り、あらゆる感情をわき上がらせた。


 驚愕、混乱、不安、恐怖──そして、興奮だ。


 馬鹿馬鹿しいことに、この興奮が、シュエの精神を救った。


 現状に不安になる度に、シュエはゼグを盗み見て己を奮い立たせていたのだ。


 憧れてやまなかった騎士に遭遇し、ましてや大事にされ甘やかされる位置にいるのだ。興奮するのは仕方ないわ。と、開き直る形で現実と向き合う材料にしたのである。


(小説の挿絵だと長髪の美形だったけれど、実物のほうが堅物感があっていいのよね──じゃ、ないわ。そうじゃない。今はあのときのことを思い出さないと)


 現実と本腰を入れて向き合うために鏡の前に来たというのに、いつのまにか虚空を見つめていた己を叱咤して、シュエは背筋を伸ばした。


「助けてと言われて、それに私が応えた。だから私がここにいる。それは間違いないわ。耳元に直接声が響いたのは、きっと言霊だったからね。あの時点である種の魔法だった」


 それにシュエが応えたことで、魔導式が発動し、魂が引き寄せられたのだ。


(召喚された、という方が正しいのかも。国で魔導研究が始まったばかりの頃に、召喚魔法を発動させるなんて。シュエルバ姫は、本当に突出した才能の持ち主だったのね)


 魔導と呼ばれる分野において、最も素質と才能が要求されるのが召喚魔法なのだ。


 シュエの時代──三百年後の未来でも解明し切れていない法則を要する魔導式を、シュエルバ姫は構築し、さらに発動させたということになる。


 その対価が、己の魂だったとしても──だ。


(命がけで、私に託した。そうだ、『護って』と言っていた気がする)


 薄れる意識の外で、哀しげな声がシュエに届いていた。


『どうか、国の為。そのときがくるまで貴方が、この(うつわ)を護ってください』


 体を護れと言われたことをようやく思い出して、シュエははっと息を呑んだ。


「そうか、だからあの瞬間だったのね」


 あの細月の夜、なんらかの理由でゼグが離れていた隙に、シュエルバ姫は襲われたのだ。


 背中から斬りつけられたとき、彼女は己の死を悟り、同時に抗った。己よりも己の体を動かせ、致命傷を避けるための手段を得ようとした。


 その結果、シュエルバ姫の体にシュエの魂が召喚されたのだ。


(でも、自分の魂を犠牲にしてまで、己の存在(丶丶)を護ろうとした理由はなに?)


 それを伝える時間がないことを、きっと本人は理解していたのだろう。


 それほどまでに、己のすべてを犠牲にして「シュエルバ姫」という存在を彼女は護ったのだ。


「──その時が来るまで、か」


 理由はまだわからないが、シュエルバ姫がどれほど必死に「シュエルバ姫」を護ろうとしたのかは、シュエにだってわかる。


「私とて、未熟なれど騎士の端くれ。貴方の御身、託された想いと共に必ずやお護りします」


 鏡に映る姿を本来の彼女として、シュエは改めて騎士として誓いを立てた。


 誰だろうと助けるつもりで応えたが、それがシュエルバ姫ともなれば、気合いもはいる。


 幼い姫君の傍付きを命じられたとき、シュエはその役割が実力ではなく、姫に見目を気に入られての「お人形」としてだと理解していた。


 建前として、周囲からは大抜擢だと賛辞の嵐を浴びたが、王族の護衛をするにはあまりに若く未熟だ。


 だからこそ、その抜擢を、経験を積むにはまたとない機会と捉えたのだ。実力を示せれば、そのまま本当の意味での護衛騎士となれる自信があった。


 シュエはそれだけの努力をしてきたし、していくつもりだったからだ。


 無垢な姫の傍に、着飾られて侍る若い女騎士はさぞ栄えただろう。


 シュエは悪目立ちする派手な自分の容貌があまり好きではなかったが、利用するだけの図太さは持ち合わせていた。


(着実に経験を積んでいく予定だったのに、こんな事態になるなんて)


 難易度が跳ね上がった上に、かなり想定外な初任務だ。


 それでも、改めて誓いを立てたからか、シュエの心は不思議と落ち着いていた。


 ありえない状況だからこそ、託された使命の重さをひしひしと感じる。


 そしてなにより、シュエはこの事態に一つの希望を見いだしていた。


(私がいれば、ゼグの死を回避できるかもしれない) 


 その閃きは、シュエルバ姫に託された使命と遜色ない熱量で、シュエを奮い立たせる。


 成功すれば、彼の騎士の新たな活躍がこの目で見られるのだ。それはシュエにとって、とても魅力的な対価だった。


(ただ、護るべき姫の中身が別人なのは、残酷な話ね……)


 なんとも言えない複雑な気持ちを持てあまし、頬杖をつく。


 緩いワンピースの肩口から微かに傷口が見えて、シュエはそこに指を引っかけた。


 皮膚が引きつったように白く盛り上がってはいるが、綺麗に塞がっている。傷の左右に点々と痕があるのは、縫い糸のそれだろう。背中の傷も、手を這わせる限りでは同じような状態のはずだ。


(一ヶ月で──いえ、仰向けに寝かされてたことを考えても、もっとはやく塞がってたわね)


 魔導の素質の一つとして、体内に宿す魔力量がある。その量が多い者は総じて肉体的に老いにくく、治癒能力が高い傾向にあるのだ。


(個々の魔力量って、魂ではなく肉体に依存する素質ってことなのかしら。それとも、ただの名残?)


 前者であれば、シュエは今、高度な魔法が使える可能性が高いということになる。


 騎士である以上、魔導の知識は学べる限り学んでいるので、シュエは少し浮き足立った。本来の自分では、軽度の治癒と筋力強化がせいぜいだったのだ。


「やだ、試してみたい──!」 


 好奇心に肌が熱を持ったが、壁越しにノックの音が聞こえて、シュエははっとした。


 思案に耽りすぎた己の失態に、嘆息する。


「姫様!? あのお体でどこへ」


 寝室に入って来たゼグの焦った声が聞こえ、シュエは眉尻を下げた。


 一瞬、憧れの騎士だと知った相手の名を呼ぶことに羞恥と躊躇いを覚えたが、いきなり様付けで呼ぶのは不自然すぎる。彼や周囲の反応を見る限り、シュエルバ姫がゼグと呼び捨てていたことは確かなのでなおさらだ。


「こっちよ、──ゼグ」


 シュエが声をかけると、健気な騎士が凄まじい勢いで駆けつけてくる。少し驚いて身を引いても、ゼグはそのまま迫ってきた。


「なぜお一人で! まだ無理です。転ばれたら怪我をしますよ!」


「ごめんなさい、鏡を見たかったの」


 シュエはただ正直に理由を告げただけだったが、一気にゼグの顔が陰り、別の意図で誤解させたと悟る。


 苦い気持ちで、シュエはさっと襟を整えた。


「申し訳ありません。私がお傍を離れさえしなければ」


 今にも舌をかみ切りそうな顔で言われ、胸が痛む。シュエはゼグの手を取り、強い否定の意思を込めて首を左右に振った。


「傷を確かめたかったわけじゃないの、本当よ。己の顔をみて、しっかりしなきゃと気合いを入れたかったの」


「──それでも、その傷は私のせいです。私が義務を怠った」


「やめて。そんな今にも自害しそうな顔で言わないで。あの夜のことはまだよく思い出せないのだけれど、なにか事情があったのでしょう? それに私は──私はこうして無事だわ。大切なのはそこでしょう?」


「ですが──」


 痛ましげに言いよどまれてしまい、シュエは内心で焦る。


 なにせシュエルバ姫の口調や本来の性格など、まるで知らないのだ。せいぜい己の中にある、「お姫様」らしい態度をとるしかない。


 それも三百年後に作成された、著者の想像を大いに含む物語を参考に、だ。


「確かに私は少し、記憶が混乱しているせいで変なのかもしれないけれど」


 苦肉の策で、シュエが悲壮感たっぷりに声を沈ませると、ゼグが慌てて首を振った。


「いえ! いいえ。そんなことは!」


「本当に?」


「本当です。むしろ、今のほうが生き生きとしていていいと、私は──ああ、違う。そうか、そうでしたね」


「え?」


 少し困ったように微笑まれてシュエはドキリとしたが、急にゼグが何かを察したように再び顔色を曇らせたので、戸惑う。


「それもまた、決意の表れなのですね。皮肉なものだ。覚悟を決めてからというもの、貴方はどこか諦観しておられたのに」


「……ゼグ?」


「申し訳ありません。そもそもが私の失態ですし、こうして貴方が無事で、回復しようと努力するのは喜ばしいことのはずなのに──私は、その理由では喜べません。考えを改めてはいただけませんか?」


 主語のない不意の要求にシュエは素で戸惑い、ただゼグを見上げることしかできなかった。その態度に、意図が伝わっていないと気がついたのか、ゼグの眉間に皺が寄る。


「記憶が混乱しているせいで本気でおわかりではないのか、はぐらかされているのか……。私程度では貴方のお心が読めないことが悔しい」


「ゼグ、私は──」


 あまりに哀しげな瞳に、思わず本当のことを言いそうになる。自分はシュエルバ姫ではなく、シュエなのだと。


 けれどそれが彼にとってなんの救いにもならないことに気がついて、シュエはただ必死に言葉を呑み込んだ。


「少し頭を冷やしてきます」


 震える声で告げ、きびすを返そうとしたゼグを、シュエは慌てて呼び止めた。


「待って、ゼグ」


「シュエルバ様、今はどうか──」


「本当にごめんなさい。でも置いていかないで。実はもう、立てる気がしないの」


 あまりに間抜けな申し出に、冷たい重さを孕んでいた空気が、ゼグの眉間の皺と共にほんの僅か緩む。


 あんな表情のまま行かせたくない気持ちと、実際に怠い身体を持てあましての、とっさの発言だった。


「その、本当に空気読んでないなって、自分でも思うのだけれど──」


 シュエが気恥ずかしさに俯くと、ゼグは張っていた肩の力を抜いた。


「はぁ、我が姫。貴方は本当に、なんて酷い人だ」


 その言葉にどんな想いが込められていたのかなどシュエにはわからないが、とても優しくて、哀しい声だった。




 




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