非現実と現実の境界(1)
意識に一筋の光がスッと通るのを感じて、シュエは浅く息を吸った。
積み重ねた経験が鋭い警告を発し、それに応えるように体が動く。
最小限の動作で横に体を転がした瞬間、シュエの背中に激痛が奔った。身に覚えのない焼け付くような痛みに、冷や汗が全身を覆う。
それでも怯まずに体を起こせたのは、彼女の胆力の賜物だろう。
転がった勢いを殺さずに足裏を地面につけ、そのままよろめくように二、三歩下がる。
視線を左右に滑らせ、シュエは今が夜であることと、どこぞの庭園であることを知った。
そして、細月の頼りない明かりが、全身を闇に紛れ込ませた男の輪郭をかろうじて伝えてくれている。
記憶にない状況にシュエは混乱しかけたが、不意にかくりと膝から力が抜けて、それどころではなくなってしまった。
「えっ」
シュエとしては、気合いでそのまま立ち上がるつもりだったのだ。だが、体にうまく力が入らず膝をついてしまう。
その隙を逃さず、おそらくは背に傷を負わせたものと同じ刃が振り下ろされた。
「ぐっ」
肩口の骨に鈍い衝撃が伝わり、浅くはない傷を負わされた痛みに、シュエの口からくぐもった呻きがもれる。
それでも、剣の持ち主は怯んだように半歩さがった。
「なんだ、急に──」
首を狙った一撃を逸らされたからか、睨め上げたシュエの眼光に臆したか、思わずといった体で間抜けに呟いた一瞬を、今度はシュエが逃さない。
剣を握る手を掴んで引き寄せ、そのまま立ち上がる勢いで体当たりした。
「うわっ」
「──ッ」
背と肩の傷が火を噴くように痛んだが、それに構うには相手に殺意がありすぎる。
後ろによろめいた男のつま先を踏みつけ、手首をひねって剣を奪い取る。男は顔を覆う布の隙間から覗く目を見開いて、そのまま尻餅をついた。
「なっ」
驚愕を声に出し切るまえに、喉元に切っ先を突きつける。
シュエは男を睨めつけたまま、奪い取った片手剣の重さに内心で驚愕していた。
(なにこれ、鉛でも混ぜてるの!?)
満身創痍な上に取り扱いの難しい武器では立っているのがやっとで、シュエの口からは誰何の言葉がでなかった。
言葉で牽制しなければ、勝ち取った優位を失ってしまう。
けれど奥歯を噛みしめていないと、失血と痛みで意識を失いそうだった。
その数秒を、男が怪訝に思ったのだろう。眉が顰められ、体の重心が僅かに動く。
(ああ、まずい)
その内心が、顔にも出たのだろう。男が突きつけられていた剣先を手で払うのがわかったが、シュエは動けなかった。
剣を奪い返される、そう思った瞬間──凜とした声が、シュエの鼓膜を震わせた。
「姫!」
視線をそちらに向けるよりも速く、青い影が脇を駆け抜ける。
(ああ、もう大丈夫)
その声を聞き、背を見た途端に安堵した自分を、シュエは不思議に思いながら意識を手放していた。
◇ ◇ ◇
目が覚めたとき、シュエは柔らかな寝台の上だった。
何度か瞬きを繰り返し、天井を見上げる。天体を模した、美しい壁紙が貼られていた。
吸い込んだ空気には爽やかな香草の香りが満ちており、シュエの覚醒を手伝ってくれる。
周囲を見渡そうと首を動かすと、ベッド脇の椅子に腰掛けていた女と目が合った。シュエが声を発するよりもはやく女が立ち上がり、喜びに瞳を潤ませる。
「ああ、神よ感謝します! 意識が戻られたのですね。私の声が聞こえますか!?」
「え?」
「あっ、大声を出して申し訳ありません。今、医師を、スィルカ様を呼んで参ります!」
シュエの戸惑いをどう勘違いしたのか、恥じらうように口元を覆いながら早口で告げ、女が慌ただしく部屋を出て行く。
簡素な黒いワンピースに白いエプロン姿ということは、侍女なのだろう。推測になってしまうのは、シュエが彼女の顔を知らないからだ。
シュエが屋敷の使用人の顔を把握していない、というわけではない。
そもそもここが、シュエの屋敷ではないのだ。
そんなことは、部屋の調度品を見た時点で理解はしていたのだが、目覚めたばかりだからか、思考が巧く働かなかった。
「ここは、どなたのお屋敷なのかしら」
いつ、どういう理由で、他人の屋敷の寝台に寝かされる事になったのか。
シュエは混乱する記憶を必死に辿ろうとしたが、先ほど侍女が出て行ったばかりの扉がすぐに開いて、びくりと肩を震わせた。
目を丸くして視線を向けると、年若い青年が気まずそうに居住まいを正す。
「申し訳ありません。目を覚まされたと聞き、つい気が急いて──ご無礼を」
「ええと、その──」
身を起こそうとしたシュエを、青年が慌てて仕草で止めた。
「急に動いてはお体に障ります」
長い足で素早く寝台の脇に近づき、目線を合わせるようにひざまずく。
背の高い青年だったので、そうされると少し威圧感が和らぎ、シュエは無意識にこわばっていた体から力を抜いた。
「一ヶ月も眠っていたのです、どうか安静に」
「えっ」
一ヶ月という単語にシュエが驚愕すると、青年はさもありなんという体で頷いた。
「驚かれるのも無理はありません。問いたいことも多々ありましょうが、まずは医師の診察を」
驚きすぎて言葉を失い、シュエは枕に頭を埋めたままこくこくと頷いた。
よくよく思い返してみれば、うっすらと覚えがある。
痛みと高熱で意識は朦朧としていたが、多くの見知らぬ誰かの献身によって、シュエは生かされたのだ。
目を閉じ、深く呼吸をする。多少の怠さは感じたが、胸の奥で確かに心臓がどくどくと動いていた。
(……生きてる。私、助かったのね)
助かった。そう思い安堵した途端、何故か唐突にシュエの中で疑問が大きく膨らんだ。いま生きていることが、とても不自然なことに思えたのだ。
その疑問を呼び水に、己の身に起こった出来事が、それこそ走馬燈のように一気に思い出された。
手紙、丘、崖。
「──じゃあな」
己を手にかけた男の言葉を思わず口にすると、青年がシュエに視線を向けた。
「姫?」
優しい、穏やかな声音。
どうしてこんなに安心するのか不思議に思いながら、シュエは改めて青年を見た。
短めに刈り上げられた黒髪、意志の強そうなしっかりした眉、目つきは悪いが眼差しが優しいせいか、怖さよりも誠実さを感じる面差しだ。
身長は一八〇ほどだろうか。しっかりした体つきが、青と白を基調とした服ごしにもわかる。
(この屋敷の主人というには若すぎるし、かといって使用人にも見えないわね)
どういう立場の人間なのか、現状のシュエには予想しようがなかったが、シュエが目を覚ました途端駆けつけてくるあたり、助けてくれた張本人なのかもしれない。
シュエの視線が自分を撫でていると気づいてか、青年は目を瞬かせつつも、その瞳が顔に戻るのを待ってから、再び口を開いた。
「どうかなさいましたか?」
「ごめんなさい、不躾に。その……貴方がどなたか、お伺いしても?」
「え?」
「それと、私は確かに貴族の娘ですが、騎士なのです。姫と呼ばれて悪い気はしませんが、こそばゆいわ。どうぞシュエとお呼びください」
「ひ、姫?」
名前で呼べと言われて動揺するあたり、かわいげのある男だとシュエは思わず微笑んだ。
年若い女を姫呼びする男なんて軟派なだけだと思っていたが、単純に身分のわからない女性への気遣いとして使っていたのだろう。
声音で相手に抱く印象がこうも変わるものなのかと、感心する。
「本当に、シュエで結構よ。それと、助けてくださってありがとう。一ヶ月も眠っていたなんて。ご迷惑をおかけしました。できれば、家の者と連絡をとりたいのだけれど」
あの高さの崖から落とされて、どうして助かったのかは気になるが、まずは見ず知らずの娘の治療に全力を尽くしてくれたことに礼をすべきだ。
そう思ってシュエは言葉を選んだが、青年の反応は手柄の誇示でも謙遜でもなく、動揺だった。
「……姫? 先ほどから何をおっしゃっているのです?」
「え?」
その言葉に、シュエも不安を覚えて青年を見上げた。
(私、なにかおかしなことを言ったかしら?)
互いの瞳にそれぞれの戸惑いが滲み、沈黙を生む。それを破ったのは、侍女に呼ばれて駆けつけてきた医師のスィルカだった。
「殿下! ああ、本当によかった。よくぞ戻られました!」
初老の医師が、寝台に駆け寄るなり両目から涙を溢れさせる。その涙にも驚いたが、なにより「殿下」と呼ばれたことに、シュエは瞠目した。
「でんか?」
驚くままに反芻すると、スィルカと視線が合う。戸惑いを汲み取ってか、スィルカはそっとシュエの手を握った。
「ああ、記憶が混乱しておられるのですね?」
まさにその通りなので、シュエはにべもなく頷いた。
「私は、私は騎士です。王族ではありま──」
シュエの言葉は途中で酷く掠れ、痛みを伴った咳になる。驚いて喉を押さえると、侍女がすぐに水差しを手に取った。
察した青年が素早く立ち上がり、シュエをゆっくりと起き上がらせてくれる。少しクラリとしたが、喉が水で潤うとほっと息が出た。
「一ヶ月間、声を発していなかったのです。喉が少し驚いてしまったようですな」
シュエの不安を和らげるように、スィルカが茶化す。それに苦い笑みを返して、シュエはひとまず一通りの診察を受けた。
「うむ。うむ。記憶に多少の混乱があること以外、特に異常はありませんな。胃に優しいものから食事をしていただいて、まずは体力を回復していきましょう」
「記憶は戻るのか?」
シュエが問いたかったことを、青年がかわりに問う。
スィルカは軽く頷いて、終始そうしてくれたように、シュエを安堵させるための微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。高熱を出した者にはよくある症状なのです。姫は傷からの失血も多かったですし、意識が戻らなかった間も長かった。本来なら、脳に障害が残ってもおかしくなかったのです。むしろ記憶の混乱だけで済んでいるのが奇跡と言える。ですから殿下、どうか焦らぬよう。体力を戻すのが第一です。このスィルカも手伝いますゆえ」
「私もおりますからね、姫様。これからはもっと頼ってくださ──っ」
存在を主張するように会話に割り込んできたのに、侍女はすぐに目尻を真っ赤にして言葉を詰まらせた。
「パナは毎日、それは健気に貴方のお世話をしておりました。どうぞその献身に報いてやってください。頼り、無理をせず、不安は口にする。できますな?」
侍女の──パナの背中を撫でながら、最後だけは笑みを消し、念を押すようにスィルカに告げられて、シュエは気圧されるように頷いた。
「わかったわ」
「ゼグ様もパナも、殿下を混乱させぬよう気をつけなさい」
スィルカがしっかりと二人の目を見つめながら名を呼んで、警告する。神妙に頷く二人を見ながら、シュエは少しだけほっとした。
おそらくわざと、二人の名を呼んでくれたのだ。
二人の名を思い出せない様子のシュエの不安を、一つ減らすために。
心優しい医師に感謝しつつ、シュエは微かに震える両手をすり合わせた。不安になるほど細い指先は白く、手のひらもなめらかで柔らかい。
それは間違いなく、父に与えられた木剣によって、シュエが苦楽を刻んできたものではなかった。
(思い出せないんじゃないわ。知らないのよ)
記憶の混乱ではない、確かな確信を抱いて。
(これは、私の体じゃない)
シュエは誰にも気づかれないよう、奥歯を噛みしめて不安を呑み込んだ。