閃光と咆哮(1)
──さま。
「姫様」
小声で呼び起こされて、シュエは薄く目を見開いた。
部屋はまだ暗く、手燭の灯りにパナの顔だけが照らされている。
「……パナ? どうしたの」
「その、お迎えが来られていて」
「え?」
パナの言葉に、スッと意識が冴える。
身を起こし、シュエは夜着の上にパナが差し出したガウンを羽織ろうとしたが、すぐに眠気を払うように首を左右に振った。
「違うわ。あの服に着替えるから、手伝って」
シュエの言葉に、パナの顔に不安が滲むのがわかったが、シュエはあえて無視した。
用意されたのは、ゼグや騎士達が身に纏っているのと同じ、特殊な布で作られた軍服だ。
呼びつけた服飾師は、ドレスをやっと作る気になってくださったと喜んだのにと憤っていたが、シュエの鍛えた体を見て気が変わったらしく、プロの仕事をしてくれた。
シュエルバ姫の体にぴったりの、動きやすくて丈夫なそれは、シュエの心に一本の筋を通してくれる。
ふわふわのドレスよりも、よほど慣れ親しんだ感触に、身が引き締まる思いだった。
腰に魔導銀製の剣を佩き、髪をまとめる。
「姫様、身を守るための剣技を習うことには目を瞑りましたが、騎士になりたいとか言い出さないでくださいね」
少し皮肉のこもったパナの声に、苦笑を返す。
客間に向かうと、騎士が二人所在なさげに立っていた。
シュエの姿を見るなり瞠目し、ぽかんと間抜けな顔をさらす。深夜の訪問とはいえ、ドレス姿ではない姫君を予想していなかったのだろう。
シュエがどれほど鍛錬を積んでいたかを知るのは、ゼグだけだ。
「用件を」
シュエが端的に言葉を投げると、はっとしたように二人は敬礼した。
「陛下に使いが寄越されたそうです。今から我々が、姫様を例の場所までお送りします」
沈痛な面持ちの二人の姿に、シュエの背筋が緊張に冷えたが、事態が読めずに戸惑うパナの不安そうな顔が目に入り、気を引き締めた。
何も知らされず、だからこそ普通に振る舞ってくれた彼女を悲しませるのは、最後の最後だ。
「大丈夫よ、パナ。以前から陛下とご相談させていただいていた件が進んだんだわ。夜中だったのは、さすがに私も驚いたけれど。大事ないから、私を送り出したらちゃんと寝て」
「え、ええ。姫様がそうおっしゃるなら。あの、ゼグ様はどちらに?」
シュエが出かけるのだから、ゼグが同行するのは必然だ。その姿がないことに、シュエも内心戸惑っていたので、パナの問いに合わせて二人の騎士を見た。
「ゼグ様は先行して道中の安全を確保してくださっております。お急ぎください。遅れれば──」
「わかったわ、行きましょう」
魔獣の影が──、と口にされそうな気配に、慌てて割り入る。
パナにその一言を聞かれるわけにはいかない。
一人の騎士に小突かれて、もう一人もようやくパナが何も知らされていないことに気がついたのか、申し訳なさそうに口を噤んだ。
「では、こちらに」
暗い廊下を、騎士が持つランプの灯りが照らす。
きちんと説明が届いているらしく、それはシュエルバ姫の研究室にあった魔導具のそれだった。
屋敷から出るとき、パナがとても心配そうな顔で見つめてくるので、シュエは思わず抱きしめてしまった。
驚いた顔で固まったパナに苦笑しつつ、背を向ける。余計心配させてしまった気がするが、感謝の気持ちが溢れて我慢できなかったのだ。
(パナ、いままでありがとう。本当に)
正門を出て、ひっそりと待機していた獣車に乗る。
二人は御者台に乗ったらしく、中はシュエ一人だった。
そのことに安堵し、ふっと肩から力を抜く。
鳥獣の小さないななきをきっかけに揺れ始めた獣車の中で、シュエは膝の上に置いた剣の鞘を強く握った。
(予想よりかなり早い。いえ、もしかしたらもっと早くから、陛下の元には催促があったのかもしれないわね)
誰の目も無くなったことで、恐怖と不安がシュエの顔に出る。
覚悟していたつもりだが、さすがに一人きりで向かうことになるとは思っていなかったので、手が震えた。
(大丈夫。洞窟の前に行けば、ゼグに会える)
何度も深呼吸を繰り返して平静を取り戻すと、シュエは剣帯につけていたポーチから水晶を取り出した。
獣車の天井に掛けられたランプに透かすと、きらきらと煌めく。じっと見つめてから、えいっと口に放り込んだ。
気休めにか、用意されていたワインの小瓶の栓を抜いて、一気に流し込む。
「上等なワインね。ゆっくり飲みたかった」
皮肉を口にしながら、腹部を押さえる。
気持ちとしては保険だが、それがとても難しいことも確かだった。
「できれば、この体は魔獣に喰わせることなく返したい」
シュエルバ姫を愛した人たちが、きちんと弔えるように。
気持ちにけじめがつけられるように。
「水晶も二つあるし、ゼグもいる。私自身もできる限りの鍛錬はした。あとは成し遂げるという強い気持ちが大事よ」
自分に言い聞かせるように呟いて、シュエは背筋を正した。目を瞑り、精神を研ぎ澄ますような時間を過ごす。
獣車の扉が開かれたとき、どれくらい時間が経ったのかわからないくらいには、集中していた。
「シュエルバ姫様、到着しました」
「ありがとう」
差し出された手を借りて、獣車を降りる。
そこは山の中腹にはまだ少し遠い場所のようだった。
「申し訳ありません。これ以上は、モニモラが怯えて獣車では進めないのです」
周囲を見渡したシュエに、騎士の一人が申し訳なさそうに告げる。
獣車に繋がれた二頭のモニモラに視線を向けると、確かに落ち着かない様子で足踏みを繰り返していた。
「大丈夫よ。はやく離れてあげて」
シュエの言葉に、騎士の顔が泣きそうに歪む。
何か言おうと何度も口を開いては、言葉を選べない様子に胸が詰まって、シュエは自然と微笑んでいた。
「嫌な役目を負わせてしまって、ごめんなさいね。一人で来られたら良かったのだけれど」
「そんなっ、そんなことを! 言わないでください」
気持ちを楽にしてもらおうとした一言に対して、強い言葉を返される。騎士の瞳からは、堪えようもなく涙が零れていた。
「今まで為す術がなかったことも、姫様の犠牲に頼らなければ討伐もままならないことも、悔しくてたまりません。まして、このような重要な役目を、団長ではなく私のような若輩が──」
言われたことで、ようやくシュエもその違和感に思い至った。
事情が事情なだけに、盛大に送られるということはないが、シュエルバ姫を祭壇まで送ることは、この魔獣討伐において最重要任務だ。
相応の責任を負っている者が同行するのが普通だろう。
「なぜ──」
疑問を口にしようとした瞬間、地鳴りのような咆哮が山肌を揺らした。
怯えたモニモラが甲高く鳴いて翼を空討ちし、獣車が大きく揺れる。
「うわぁ」
ずっとモニモラを宥めていたもう一人の騎士が、手綱に腕を絡めとられて引きずられた。同時に獣車が派手な音を立てて揺らぎ、斜面に滑り落ちるように倒れ込む。
「あぶな──っ」
一緒に引き倒されたモニモラ達がもがきながら鈍い鳴き声を上げ、一頭が凄まじい脚力で車体を蹴りつけて暴れる。
「カルガン!」
シュエの脇にいた騎士が、そう名を叫んで駆け寄る脇で、シュエも素早く行動していた。
抜剣して馬車とモニモラを繋ぐハーネスを両断すると、自由になった一頭は一目散にどこかへ駆けていく。
すぐさまもう一頭を引き起こすのを手伝い、シュエと騎士の二人がかりでなんとか宥めた。
カルガンと呼ばれた騎士はモニモラの下敷きになったために意識を失っており、手綱に巻き込まれた腕はあきらかに折れていた。
「肋骨も折れてるかも。すぐに医師のもとへ!」
「しかし」
「折れた骨が臓腑に刺さってたら死ぬわよ! 乗せるの手伝って!」
シュエの剣幕に蹴飛ばされるようにして、騎士がカルガンをモニモラに乗せる。
「あなたも乗って!」
「しかし」
「何度も言わせないで。魔獣絡みで、もう誰も死んではいけないのよ!」
シュエの一言に、はっと騎士が両目を見開く。
それでも迷いを捨てきれない様子だったので、シュエはモニモラの尻を叩いた。
「ちょ、わぁ!」
走り出したモニモラを追いかけて、騎士が走り出す。
無事に追いついて、カルガンが落ちないよう後ろから飛び乗るのを確認してから、シュエは投げ捨てていた剣を拾った。
「シュエルバ姫様! 我々は、必ず! 成し遂げて見せますっ」
鞍がないからか、それとも感極まってか、震えて掠れた声が闇に吸い込まれていく。
シュエは少しだけ口端で笑い、肩をすくめた。
「はぁ、驚いた。お陰で恐怖がふっとんだわ」
離れたところに転がっていたランプも拾い、無事を確かめる。
この騒ぎでゼグが現れるかと思ったがその気配もないので、シュエは仕方なく案内無しで山道を登り始めた。
「静かね……」
鳥や獣の気配はほぼなく、虫の鳴き声も少ない。
山全体が生温かく重い空気に包まれており、心なしか足に絡まるようだった。
その洞窟は、比較的簡単に見つかった。
夜道でも見分けがつくほど山道がしっかりしていたのもあるが、予想していたよりは遙かに近かったのだ。
「この距離なら、さっきの騒ぎも聞こえたでしょうに」
疑問を抱きつつ、洞窟に近づく。
「──ゼグ、どこにいるの」
シュエを待っているはずの騎士の名を呼びつつ、中に入る。
白石を積み上げて作られた祭壇は、入り口から十メートルほど進んだ場所にあった。
ずっと奥の闇に、影よりも濃い気配を感じて、シュエの周りの空気がぴりぴりと痺れる。
祭壇の周りをランプで照らすと、宝石に彩られた金や銀の宝飾品が山積みされていた。
なぜ、と思ったが、端の方に灯りを向けて納得する。
「馬鹿な人間って、どの時代にもいるのね」
白骨化した無数の遺体は、魔獣の口に入ることすらなく朽ち果て、ゴミのようにまとめられていた。
魔獣の力を、人間の価値観で得ようとした野心家達の末路だろう。
そして祭壇周りをゆっくりと観察する時間を経て、シュエは事実と向き合った。
「……そう、いないのね」
先行していると聞いたとき、シュエは少し期待していた。
もしかして、共に挑んでくれるのではないか、と。
けれどシュエルバ姫の騎士は、やはりシュエルバ姫の願いを叶える為だけに動いているらしい。
それは正しいことだとわかっているのに、シュエは寂しくてたまらなくなった。
俯きそうになった瞬間、ぬっと眼前の闇が濃くなり、ビリリと肌が粟立つ。
息を殺してランプを掲げると、巨大な獣の鼻先が、ぬっと眼前に現れていた。
「──っ」
すん、すん、と肩口の髪が揺れるほど匂いを吸い込まれ、身震いする。
「忌々しい、浅はかな王め。おれのおかげで国があるというのに、こんな上物を隠していたとは」
「娘を思う父の愚行ゆえ、おゆるしください」
「餌が口をきくな。黙って服を脱ぎ、そこに転がれ」
即座に丸呑みにせず、そう告げる魔獣の瞳に、愉悦が滲む。
シュエが恐怖し絶望する様をまず愉しもうとする気配が、ありありと感じられた。
(魔物らしいといえば、らしいけれど)
予想していたよりも体は小さかったが、シュエを丸呑みできそうなほどには大きい。
漆黒の体毛は陽炎のように揺らいでいたが、太い前足から生えている鋭い爪や、口端から覗く牙は、質量を感じさせた。
ランプに照らされているからというよりは、シュエを恐怖させるために、自ら実体化しているのだろう。
間違いなく、油断している。
(失敗したわ。長さが足りない)
無意識にした目測と、その思考で、シュエの中で覚悟が決まった。
この魔獣の首を一息に落とせる両手剣を用意しなかったことだけを心残りに、半身を引く。
「残念だけれど、私は餌じゃないわ」
腰を落として抜剣したシュエを見るなり、魔獣の赤い瞳が細まり、口端が笑みに吊り上がる。
「これは面白い! いいぞ、いいぞ! 怯えて蹲るだけよりずっといい。踊ってみせろ!」
咆哮に近い低い笑い声が、洞窟内を揺らす。
上体を大きく持ち上げ、喉を晒して嗤う魔獣の胸元で、シュエは一つ目の水晶を砕いた。




