雨と光と恋心(2)
考えているようで考えていない時間を終わりにしたのは、ノックの音とパナの声だ。
「姫様、ご用意出来ましたよ!」
「……ああ、ごめんなさい。こっちじゃなくて、居間に用意してもらえる?」
「かしこまりました」
雨模様だとしても外の空気が吸いたい気がして、シュエは気力を振り絞るようにして立ち上がった。
居間に戻るなり窓を開けたシュエに、パナは目を丸くしていたが、外の空気が吸いたかったのだと正直に答える。
「地下は窓がありませんものね」
パナは苦笑しつつ、「でも冷えますから、すぐに膝掛けをお持ちします」と付け足した。
手早くテーブルに用意された温かい香茶で体を温め、焼きたてのマフィンを頬ばる。
口いっぱいに蜂蜜の優しい甘さと香りが広がると、じわりと瞳が濡れてきて、シュエは慌てて何度か瞬きした。
「いかがです? ご希望通り、生地にもたっぷり混ぜましたし、焼き上げたあとも染みこませました!」
宣言通りに持ってきた膝掛けをシュエの脚にかけながら、問われる。
「最高に美味しいわ。癒やされる」
心底そう思ったので口にした言葉だったが、パナの表情は曇った。
「今日は少し顔色が悪いように思います。お疲れがでているのでは?」
「そう、かしら。雨が続いて憂鬱なのは確かだけれど」
「急に冷え込みましたし、本格的に体調を崩される前に、お体を休めてはいかがでしょう?」
期日までの残りを思えば、確かに体調を整えることも大事だろう。
焦りもあるが、やはり今日は気落ちしている自覚があり、シュエは素直に頷いた。
「そうね。今日はのんびりしようかしら」
「よろしいかと」
「ああそうだ、このくらいのポーチがあったでしょう?」
シュエが指で曖昧な大きさを作ると、察しの良い侍女はすぐに大きく頷いた。
「赤い革の物ですね。お持ちしますか?」
「ちがうの、あれの内側に毛足の長い獣の毛皮を縫い付けてもらってくれる? 割れ物を入れたいの」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げて部屋から下がろうとした背中に、「出るときにゼグを呼んで」と一言添える。
そう経たずに、ゼグが部屋に入ってきた。
「何か」
相変わらず淡々としているというか、あの日からシュエとゼグとの間にはすっかり厚い壁ができてしまった。
馴れ馴れしくしてしまう以前の関係よりも、さらに素っ気ない。
仕方がないと思いつつも寂しさが拭いきれなくて、シュエの胸はしくりと痛んだ。
「一つ確認したいことがあって」
「なんでしょう」
「シュエルバ姫が魔獣討伐を命令したとき、なにか具体的な指示はあった?」
シュエの問いに、ゼグがやはりという顔で頷いた。
「やはり知らなかったか。すまない、最初に伝えておくべきだった。姫様からは『儀式から一日経ってから討伐せよ』と言われている」
その言葉で、シュエは己の推測が間違いではないと確信した。
シュエルバ姫は、あの水晶を呑み込んだ上で、魔獣に喰われるつもりだったのだ。
(噛み砕かれるならそれでよし、万が一丸呑みされても、魔獣の瘴気まみれの胃で水晶は砕ける)
消化される時間を見越しての、一日だ。
想像してしまうとぞっとするものがあるが、浄化の光は魔獣にとっては猛毒。
シュエルバ姫としては、精霊王クラスの祝福を用意できたことで、あわよくばその一撃で屠ることも考えていたかも知れない。
腹部でも頭部でも、致命傷を与えられる可能性は高い。
(こればかりは、対峙してみなければわからないけれど)
シュエの場合は、それに加えて四肢の一本でも削いでおければ万々歳だろう。
どれくらい戦えるかわからないが、失敗作の水晶二つと、魔導銀製の剣で全力を尽くすまでだ。
(……できれば、一緒に戦って欲しい)
ゼグからもたらされた、シュエルバ姫の指示について考えるふりをしつつ、盗み見る。
特にこちらの様子に注視するそぶりもなく、ゼグは無表情でその場に立っていた。
思わず口元が苦く歪みそうになり、さりげなく手で隠す。
シュエルバ姫がシュエだとわかってから、ゼグは一度も「生贄になるな」と口にしていないのだ。
手合わせをしてもらっている以上、シュエが魔獣と戦おうとしていることくらいは察しているだろうが、「ならば一緒に」という気配はない。
(ゼグはシュエルバ姫の指示通り、一日経ってから討伐部隊と乗り込むのね。──まぁ、当然か)
本人の意思を無視してでも助けたかった人は、もういないのだ。
ならば遺された作戦通り、魔獣を確実に討伐することこそが、ゼグの忠誠だ。
(それを悲しく思うなんて、馬鹿馬鹿しいわ。そもそも、弱らせる前の魔獣とゼグが戦わずに済むなら、その方がいいに決まってる)
ぐっと奥歯を噛みしめて、シュエは改めて己のすべきことを決意した。
(私のすべきことも、魔獣討伐を確実にすること。ゼグが確実に生き残れるよう、とことん弱らせてやる)
悲しみよりも闘志のほうが勝り、ようやく体の内側から気力が湧いてくる。
黙考しているそぶりをやめて顔を上げると、ゼグと目が合った。
見られていると思っていなかったのでシュエは驚いたが、ゼグの方がよほど驚いたらしく、目を丸くしていた。
シュエルバ姫の事でも思い出していたのか、気まずそうに逸らされた目元が少し赤い。
そのことにあえて気づかなかったふりをして、シュエは得心がいったという風に頷いた。
「その指示を知れてよかったわ。シュエルバ姫のお考えになっていた作戦が、わかったと思う」
「魔獣討伐を確実にするために、やはり姫様も何かなさろうと……?」
シュエの言葉に、ゼグの意識が再びシュエに向く。先ほどの羞恥はすでに消えており、真剣な眼差しがそこにあった。
ゼグとて、強大な敵相手にどう立ち向かえばいいのか不安はあったのだろう。そしてそれは、ゼグだけではない。この討伐に関わるすべての者が、同じ恐怖を抱いている。
それを、作戦前に少しでも和らげることができることを、シュエは嬉しく思った。
「ええ。魔獣を弱らせるための手段を用意していたわ。ただ、言いにくいのだけれど……私とシュエルバ姫は違うでしょう?」
「あ、ああ。まさか、お前ではできない──?」
途端に表情を曇らせたゼグに、シュエはとっておきの笑みを返した。
「弱らせるだけではなく、倒してしまったらごめんなさいね?」
命を投げ捨てる覚悟で討伐に挑む者達に、肩すかしを喰らわせてしまうかも。
そうシュエがおどけると、さすがにゼグはしばらく絶句したまま微動だにしなかった。
シュエが香茶を一口飲むと、ようやくはっと我に返る。
「馬鹿を言うな。お前にできるなら、俺なら余裕だろうが」
「失礼ね、貴方の動きにもついて行けるようになったし、儀式までには私の方が強くなってるわ」
「寝言は寝てから言え。それで、具体的にはどういう──」
「それは今は言わないでおくわ。どこから魔獣に情報が漏れるかわからないもの」
「……それもそうか。相手は『影』を主体とし、分身を生む魔獣だからな」
「ええ。とりあえず、作戦に参加する者達が安心するよう、貴方から巧く伝えておいて。それと、あとで研究室のランプの回収をお願い」
「ランプを……?」
「あそこで私ができることはもうないの。あのランプは特殊な魔法道具のようなもので、松明や油燭より消えにくいわ。戦闘時に活用して」
「わかった」
シュエの言葉に深く頷いてから、ゼグが少し言い迷う気配を見せる。
シュエとしては少し軽口が叩けて嬉しかったので、まだ何か言葉があるなら聞きたかった。
ただ視線を向けて言葉を待っていると、ようやく言う気になったらしいゼグが口を開く。
「シュエ──」
「姫様! 雨が上がりましたよ」
飛び込んできたパナの言葉に、びくっとゼグの体が跳ねるのを、シュエは見てしまった。
めずらしく、相当緊張していたらしい。
何を言おうとしていたのかは気になったが、逃げるように一礼してゼグが場を去ってしまったので、期を逃してしまったらしい。
仕方なく、濡れた庭が綺麗だとはしゃぐパナに誘われるまま、開け放たれたバルコニーに出た。
薄い雲の隙間から陽光が降り注ぎ、あちこちに残る水の玉がそれを弾いて輝いている。
確かに、とても美しい眺めだった。
明日も、明後日も。半年後も、一年後も、十年後でも──。
(ゼグがこの景色を見られますよう)
吸い込むとひやりとする空気が心地よく、少しだけ乙女な自分の心に素直になってみる。
シュエルバ姫としての役目を果たすことは使命だが、そのやる気に恋心が混じったとしても罪にはなるまい。
◇ ◇ ◇
「お前の憧れの騎士は、どう死んだんだ」
その日の夜、研究室でゼグと共にランプの回収をしていると、不意にそう問われる。
シュエはランプを箱の中に置きながら、首を傾げた。
「どうしたの、急に」
「いや、不意に気になって」
刻々と迫る期日に、ゼグも緊張しているのだろうか。シュエは新たなランプの場所に向かいながら、口を開いた。
「魔物から主を護って死んだのよ。片目を潰され、片腕を食いちぎられてもなお立ち上がり、主を護り抜いたの」
「片目と片腕を失った状態で魔物に勝ったのか。女が好きそうな作り話だな」
「……そうね。だから憧れたのよ」
本人が創作だと言うのがおかしくて、含み笑う。
実際、どこまで本当だったかなんて、もう解らないのだ。
けれど、ゼグはシュエルバ姫を護るためなら何度でも立ち上がっただろう。
その場に立ち会えてさえいれば、絶対に。
(あの夜だって、エンデの時だって)
ゼグがその場にいたならば、シュエルバ姫の体には傷一つつかなかったはずだ。
(そう考えると、不運というか、可哀相な人よね)
護る力があるのに、運がない。
一度目は間に合わず、二度目は目的のために主の死が必須なのだ。
唯一の救いは、二度目が偽りの機会だと気づけたことだろうか。
だからこそ、シュエルバ姫が遺した願いを叶える為に、全力を出せる。
「絶対に、倒すわ」
「ああ」
殆ど独り言のように呟いたシュエの声に、思いがけないほど近くで返事が返ってくる。
驚いて振り向くと、予想と違わぬ距離にゼグが立っていた。
シュエはドキリとしてしまったが、すぐに奥のランプを回収しに行く途中だったのだと気づいて、頬が熱くなる。
ランプが出入り口に集められていて遠いおかげで、薄暗いことが救いだった。
「これで最後だな。これは……どう保管しておけばいいんだ」
「決して魔石を外さないで。私の時代の物とは違うから、誰でも作動させられるわけじゃないの。消えたらたぶん、二度と点けられない可能性が高いわ」
「わかった」
交わす言葉がなくなり、互いに無言になる。
研究室から寝室に戻り、ゼグが居間から廊下に出てしまうと、ついていく理由がないシュエは足を止めるしかなかった。
「よく休め」
なにか言葉をかけたくて焦るシュエに、不意の言葉が向けられる。
シュエは驚くあまり、「ええ、おやすみなさい」とただ答えることしかできなかった。
灯りが詰まった箱を抱えた背中の影は濃く、ゼグという命の存在を主張している。
あと何度、あの背中を見られるだろうか。
そう思いながら、シュエは寝台に潜り込んだ。




