曖昧になる妄執(ゆめ)と現実(いま)の境界線
「って、其処・・・授業中に居眠りをするだけではなく、剰あまつさえ夢まで見るとは何事だ。全く、授業中に堂々と魘されおって・・・恥を知れ、恥を」
怒りからだろうか、やや低めの女性の声がそう告げると同時、スコーンと良い音がして光流の額のど真ん中に命中する白いチョーク。
しかも、ご丁寧に長さがかなりある新品を投げつけてくれた為、威力は短くなったチョークの五割増しだ。
「ぉぉぉ~・・・いってぇぇ・・・!!」
かなり手荒な手段で昼食後の午睡から無理矢理意識を引き戻された光流は、額に走る激痛に飛び起きるや、まるでいつぞやの悪神の様な呻き声を出しながら、机の上で頭を抱える。
すると、カツカツと高らかにヒールの踵を鳴らして光流に近付く人影が一つ。
昼間は厳しい光流の担任であり、夜は彼の頼りになる仲間でもある日之枝 絵麻だ。
彼女は、光流の目の前まで歩み寄ると、口許にそれはそれは愉快そう、且つ意地の悪そうな笑みを浮かべ、告げる。
「夏期セミナー対策中に居眠りをするとは・・・余程、セミナー中のクラス替えテストには自信がある様だな?近藤光流」
その言葉に、まるで頭から青い絵の具をこれでもかとかけられたかの様にみるみる内に青ざめていく光流。
しかも、その顔は有名な某絵画の両手を頬に添えて叫んでいる人にそっくりだ。
「・・・なんだ、まさかお前、忘れていたのか?」
呆れた様に光流を見下ろしながら訊ねる日之枝。
その言葉に、光流は力なくただこくりと頷いてみせた。
如何やら本当に忘れていたらしい。
『如何しよう』ーーーそんな切羽詰まった瞳で見上げてくる光流に、日之枝は再度溜め息を吐く。
「毎年の恒例行事と入学当初に説明されていたと思うが・・・。よくもまぁ、そう簡単に忘れられたものだ」
そうーーー光流達の通う『私立櫻ヶ瀬学園国際高等学校』では、毎年夏休み中に、避暑地のホテルや旅館等を貸し切り、全校生徒対象の夏期セミナーを行うことが毎年の夏の恒例行事となっている。
朝は早朝の全員での散歩から始まり、散歩から帰着した後は食事、食事の後は昼食までひたすら自分達の担任や選んだカリキュラムに従って授業、その後に夕方の散歩と夕食、それに交代で入浴の時間があり、風呂から上がった後は夜の九時まで授業、そうして、九時になったら毎日その日のまとめのテストが行われるという中々にヘビーでタイトなスケジュールなのだが。
セミナー中は、これを計七日行うというのだから、生徒達にとってはまさに地獄の様な話である。
しかも、このセミナーの最終日に行われる総合まとめテストの結果によっては、今居るクラスから落とされてしまうかもしれないのだ。
最早生きた心地がしないとはまさにこのことだろう。
幸か不幸か、光流達が今居るクラスは特別進学αクラスや、国立大難関選抜クラス等の上級クラスではない、所謂普通の進学クラスである為、クラスが落とされてしまうことはない。
だが、その代わりーーー光流達にとっては、ある意味ではクラス替えより恐ろしい、日之枝の地獄の補習授業が待っているのだ。
昨年、日之枝の補習を体験した先輩によると、その効果は非常に素晴らしく、次の学期のテストでは先輩はその科目で満点を取ることが出来たらしい。
だがーーー補習中はまさに終わるまでの時間がずっと針の筵の様な空気であり、また、補習のテストで合格点を取るまでは補習が終わることはないらしく、先輩はその無限に続くかの様な補習ループのストレスに耐えきれず、髪は抜け、胃は月面の様に穴があく等、それはそれは大変な思いをしたそうだ。
先輩が涙ながらにそう語っていたのを今更思い出し、更に顔色を悪くする光流。
すると、突然、光流の隣の席の友人兼同居人の少女、中飾里 楓が彼に向かって手を伸ばしてくる。
(まさか、慰めてくれるのか・・・?撫でてくれるとか・・・?)
思春期の高校生らしい淡い期待を胸に楓を見つめる光流。
だが、その期待は目の前の少女本人によって悉く打ち砕かれた。
光流に向かって伸ばされた楓の手は期待に胸を膨らませる光流の頭を華麗に通り過ぎるとーーーそのまま、机の上に投げ出されていた彼の手を、まるでゴリラがバナナを掴むかの如くむんずと力強く掴んだのだ。
そうして、彼の手を掴んだまま、楓は何時もより早い・・・更にマシンガントークに磨きのかかった口調で、こう告げる。
「大丈夫!補習を受けるのは光流くん一人じゃないよ!私もいるから!っていうか私絶対補習だから!決定みたいなもんだもん!ね、だから、がんばろっ!・・・それでも駄目だったら骨は拾ってね、あはははは・・・」
「楓っ?!」
虚ろな目をして笑い出した友人にドン引きするも、手を握られている為逃れることすら出来ない光流は、勉強が苦手過ぎてセミナー前から半壊・・・もとい全壊してしまっている友人を見つめながら
(・・・よし。今夜から勉強頑張ろう)
と、密かに心に決めたのだった。